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復興の象徴解体
沖縄戦後復興の象徴、タローヤー解体。
沖縄初のセメント瓦が葺かれた名護市東江(なごしあがりえ)の民家。通称「太郎家(タローヤー)」が先月(平成29年3月)下旬に解体。戦後に沖縄の民家で幅広く使われたセメント瓦は名護が発祥、その中でもタローヤーの瓦が第1号。
名護出身の宮城太郎さん(明治16年(1883年)〜昭和18年(1943年))がペルーやアルゼンチンに移民。帰国した昭和5年(1930年)ころ、赤瓦の家を建て、シロアリ被害などの対策で昭和10年(1935年)に、初めてセメント瓦に葺き替えたといいます。
通称「タローヤー」
セメント瓦葺きの家並み
では、いつ頃にセメント瓦が出来たのか?大正時代、日本統治下にあった臺灣。台南刑務所で刑務官として働いていた名護出身の岸本久幸さんが、 台湾でセメント瓦と出合い、その技術を持ち帰って昭和10年(1935年)から名護で製造、販売したのが始まりです。
琉球、沖縄の瓦と言えば16世紀後半頃、中国明朝から琉球に伝播した造瓦技術で瓦が生産されていました。その時代は、平窯で焼かれた灰色瓦が一般的でした。しかし、17世紀後半から18世紀前半ころ、人口の増加や公共工事などで燃料の需要が拡大、供給が追いつかない、環境破壊も
深刻になっていく、そこで琉球王府は、森林伐採の禁令を出し、山林資源の確保に努めました。また国際環境の変化や薩摩の侵略、搾取などで、王府の財政も逼迫。この様な時期に、筒窯、登窯が登場します。 燃料や粘土使用量の効率化、瓦製作の効率化などが図られました。赤瓦の方が、灰色瓦比べて燃料も生産の時間も遥かに少なくて済むわけで、赤瓦へ移行されるようになりました。しかし、赤瓦が主流と云っても、宮殿や役所、公共施設などで用いられるのみで、一般住宅では瓦葺きは禁止で茅葺きでした。灰色瓦は19世紀半ばまでわずかながら使用される程度。 明治22年(1889年)に瓦葺き禁止令が解禁。それ以降、一般住宅に赤瓦が普及し始めます。※1
戦前の那覇市住宅地
瓦葺きが解禁されたと云っても、瓦屋根は高価な為、沖縄のほとんどの住宅は茅葺き屋根のままでした。昭和10年(1935年)名護の岸本久幸さんが
セメント瓦を製造、販売して3年経った頃。戦時下にあった日本は延焼を防ぐということから、法律で茅葺きを禁止します。それで安価なセメント瓦の需要が高まっていきましたが、しかし、沖縄戦で全てが焼失しました。
戦後は、テント、規格ヤー(茅葺、テント)、トタン葺きなどのバラックが立ち並びました。 茅葺屋根とトタン葺屋根が並ぶ小学校校舎
茅葺き(規格家を含む)の家は、シロアリ被害や台風被害が大きく、赤瓦、セメント瓦などの本格的な家屋への建て替えが進みました。なかでもセメン瓦は、赤瓦比べそもそもの重さもありますし、屋根にふく際に銅線で骨組みに結んで固定できるので台風に強かったので一気に広がりました。
1966年(昭和41年)に琉球セメント(設立は1959年)の操業が始まり、それによってセメントが大量に流通して、RC(鉄筋コンクリート)の家※2が増えて、セメント瓦の家も姿を消していきました。
総務省統計局によると都道府県別では、「非木造」は沖縄県が95.1%と最も高く、次いで東京都が62.8%、大阪府が57.6%です。 沖縄県内で見ると、鉄筋コンクリートが94%、木造が5%、その他1%。県 内の鉄筋コンクリートの普及率が突出して進んでいる事が分かると思います。
RCが主流になった現在でも、県都那覇市内でもセメン瓦、赤瓦、トタン葺きが混在する地域もまだまだあります。最初の写真は那覇市の官庁街付近です。次の写真も那覇市内の中心街近くです。
セメント瓦、赤瓦、トタン葺き、RC、が混在している住宅地(2017年現在)
セメント瓦、赤瓦、トタン葺き、RC、が混在している住宅地(2017年現在)
セメント瓦葺き1号となった、タローヤー。太郎さんの孫は家族らと一緒に今年3月12日まで住んでいたが、家の老朽化に伴って土地所有者との話し合いで解体が決まったと言います。
名護市の文化財行政関係者が.解体を知らされてから数日で解体に着手
ほぼ一週間で更地になり、保存や移築を検討する時間もないまま、初のセメント瓦葺き住宅は消滅。名護博物館は、解体前に鬼瓦など特徴的な部位を回収し、瓦は同館で保管。保存や活用法を検討中ということです。 ※アサギ
※1 漆喰で作ったシーサーが屋根に置かれるようになったのも、この頃以降であると考えられています。 ※2
一般的に木造住宅より、RC(鉄筋コンクリート)住宅の建築費が高くつくのですが、 沖縄では、木造とRCの価格にほぼ同じか、場合によっては安くつく事もあります。 またシロアリ被害や台風被害、耐用年数を考慮すると、RCの方が非常に安くて丈夫ということです。 桃香苺ミルクo(^-^)o |
沖縄の建造物・建築物
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きかくやー
規格家(きかくやー)
苛烈な地上戦で殆どが灰燼と化した沖縄は、文字通り
ゼロからの出発でした。
終戦当時、一般住民は収容所で暮らしていましたが、
翌年から元の居住地へ帰り始め、軍の廃材などを利用
したバラック住まいでした。
うるま市(当時美里村字石川)の石川収容所。
テントや茅葺きの掘っ立て小屋の民間人の収容所、終戦の翌年解散。
沖縄住民は住宅不足で米軍提供のテントで、不自由な
生活を余儀なくされていました。
沖縄における最初の行政機構沖縄諮詢会は、小規模
な戦災復興住宅を建設しました。
これは諮詢会工務部の仲座久雄氏考案の2×4構法に
よる「規格家」です。
米国産のツーバイフォー、すなわち2インチに4インチの
断面の材木を構造材にしたものでした。
住宅は5坪と約1.3坪の台所がついた一室住居です。
全ての住宅が画一的に作られたところから、規格家と
呼ばれました。
骨組みはツーバイフォー、しかし壁と屋根にはテントや
茅を用いました。熟練工を要せず誰にも施工しやすいも
のであった。
建築中の規格家
再現された規格家
沖縄で約7万5千500棟建設されました。
おそらく戦後の日本初のツーバイフォー住宅です。
だいたい5人から8人の家族が住んでいた。
※アサギ
戦後復興期における規格家はその量において住宅問題の解決に大きな役割を果たしたといいます。
しかし、一方で規格家に用いられた大量の米国産材、特に米松類はその後の白蟻被害によって住宅のコンクリート化を推進する大きな教訓を残すことになりました。
桃香苺ミルクo(^-^)o |
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