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中学3年生で、鉄血勤皇隊へ
男子学徒隊証言1
わたしたちは小学校の頃から、軍国教育。小学校1年からもう軍国教育な
んですよね。入って、サイタ サイタ サクラガ サイタ。で、3週目くらいだ
ったと思いますが、ススメ ススメ ヘイタイ ススメから始まりましてね。
もうずっと教科書はそういった何でしたね。それでね、父親が県庁で土木
課の何やってたもんですからね、工業へ行くようにって言われてました。
で、6年のときは中学あきらめて工業に行こうと思った。ところがよく調べて
みると、高等工業行くには中学行かなくちゃダメだと。高等工業行かなくち
ゃあ、課長・部長になれないという何がわかったもんだから。その前に小学
校の頃から、うちの近くがですね、大きな木があって日陰になるもんですか
らね、中学生がちょうど学校から帰るときの休みどころになっていたんです
わたしたちもよくそこで遊んでいたもんだから、中学の話をよく聞かされて
小学校4年には、ローマ字で自分の名前を書けるようになりましてね自分
で。中学生から教わって。学校でそれ使って先生に怒られてたんだけどね
それから入って少年航空隊になろうという何が、予科練に行こうというあれ
がありましたね。ところが身長足りないんですよ。3年まで、いや2年までだ
な。3年の卒業するまでにはなんとか、それ満たそうと思って何とかやった
んだけれども、3年になったら、3年が終わると同時に戦争です。
そこで、召集令状あちこちに配ったというんだけれども、わたしたちのところ
には来ないんですよ。多分、先生、先輩たちが呼ばないようにしたんじゃな
いかと思ったんだけど。自宅待機してたんです。それでね、確か27日に勤
皇隊結成されたと思うんですよ。卒業式と同時に。そして28日に、「友達
から来てたか?」って。「来ない」「おかしいな」 ったら聞きに行ったら「ダメ
だ帰れ」と言われた。みんな帰されたって言うんですね。そしたら28日に
みんな、いや29日に集まったんだ。4名の、一緒のこの辺の同級生4名。
それから3名いたっていうんだけれども、この人たちにはわたしは会ってい
ないんですよ。血判作りましてね。嘆願書書いて、血判押して。やったらみ
んな帰されたんだけれども、配属将校が「よろしい」って。「入隊許可する」
って。7名許可されてね。そのうち1人は非常に緊張しましてね、緊張して
いたもんだから、それがやっと叶えられたとホッとして倒れてしまって。それ
で、彼はもう帰された。最初、軍服もらったときは、嬉しかったですね。みん
なその朝もらっているんだけど、わたしたちはその晩行って、みんないいの
をもらいましたね。靴なんかもピシャッとあうのを貰って。
続く
証言10。。。島民を救い敗戦後惨殺
女子学徒隊証言1
桃香苺ミルクo(^-^)o
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沖縄戦及び広島、長崎被爆者の証言
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日本兵による沖縄住民虐殺
女子学徒隊証言1
「集まるように」言われて、みんな集まったんです。私たちは2年生でしたか
ら、2年生は球部隊に、3年生は海軍病院に行きなさい」という命令を下さ
れました。
「私たちは何も持たないで行くんですか」と院長先生に聞いたら、「ちゃんと
県知事もいらしているから、免許は与える。あなたたちは卒業はしていない
けど、この免許証を持っていれば、部隊に行っても、県病院出身としてこれ
見せると一人前の看護婦とみなされるから、自信がなくても軍医殿、こうし
て習いましたけどいいですかと尋ねて実践するのが、あなたたちのこれか
らの努めだ」と言われました。
私たちはみんな卒業証書をもらって、球部隊に行きました。
東風平の部落に行ってから、沖縄のおじいちゃんたちが小さなタライに、1
人はお芋、炊いた芋を、売りに来た。もう1人は鍋に付いている黒糖を売り
に来ました。共通語(日本語)を知らないおじいさんたちが私に「ねーさん、
こぉーてぃくみそーれー」(お姉さん、買って下さい)と言うんです。
「残っているだけで幾らですか」と言ったら、お芋1個で10円だったんです
私はお金がなくて、「給料をまだ1回も。もらっていないからお金がないか、
米田軍曹どの、お金持っていたら貸してください」とお願いしました)。「いつ
返せるかわからんよ、あの世に行って返せるのかわからんよ」と冗談で言
ったら、軍医が「買いなさい、俺が払う、幾らなんだ」と言うので、芋2つで2
0円、黒糖は10円でした。めずらしい軍医だなと思って、結局、私は(軍医
から)30円借りて「ハイタイ(はい、どうぞ)」と(おじいさん達に)あげたんで
す。おじいさん達は、「わったー共通語、やまと口はわかいびらんどぉー」
(自分たちは共通語、日本の言葉は解らないよ)と言うわけです。
「共通語も知らないおじいさんたちだから、悪いことできないね、軍医どの」
と言って、私もにこにこして帰ろうとしたら、ここは食堂とかご飯炊く処だっ
たのですが、帰ろうとしたら、軍医が「おい、こら待て」と言うから、「どうした
んですか」と言ったら、「このおじいさん2人は、芋や砂糖を売りに来てスパ
イだ。こんなおじいさんたちは服装もきれいだし、絶対にスパイだからこう
いう服装をしているんだ」と言うんですよ。
私はこの時だけは本当に土下座して、「軍医どの、(おじいさん達が)例え
ば私の父だったら、軍医が持っているその太刀で殺されたら私も一緒に死
にたいぐらいになります。芋と砂糖を売りにきたというだけで、買ったという
だけでどうするんですか」と言ったら、「殺す」と言うんですよ。
米田軍曹がこのおじいちゃんたちを後ろ手に縛って2人とも殺すと言うんで
す。「10円の芋や黒糖を売りにきて殺されるって、うんじゅーなーんなー、
でーじなといびーさーやー」(10円の芋や黒糖を売りに来て殺されるって、
あなた方、大変なことになったね)と私がウチナーグチで言ったら、軍医は
「何を言ったんだ、今の言葉は」と、それで10円の芋や黒糖を売りに来て
と・・・説明したのですが、全く軍医は信じようとはしなかった。。
(会話の意味)を説明するんですが、絶対信じない。結局、軍医が、自分が
持っていた太刀を軍曹にあげて、「これで2人を処分しなさい」と命令して。
おじいさん2人とも、私の(目の)前で殺されたんです。
その他の証言⇓⇓⇓
証言1。。。ガス弾で両親を失う
証言2。。。介錯させたことを悔やむ
証言6。。。臼砲での死闘
証言7。。。アブチラガマへ
証言8。。。少年の見た沖縄戦
証言9。。。戦争に染まった青春
証言10。。。島民を救い敗戦後惨殺
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米軍初上陸の地
戦後70年の地平から 2
私が立っているこの場所は、座間味港から歩いて約10分ほど、標高およ
そ130mの高月山の中腹にあります平和の塔です。塔を囲んでいる石碑
には、沖縄戦で命を落とした、島の住民、そして日本兵合わせて1200人
の名前が刻まれています。今日はここで5年に一度の慰霊祭が行われま
した。
70年前の3月26日、アメリカ軍が慶良間諸島に上陸し、ここから沖縄戦
は始まりました。当時、座間味島をはじめとする慶良間の島々は、沖縄へ
の上陸を狙うアメリカ軍を背後から襲うために日本軍の特攻基地が築か
れこれがアメリカ軍の上陸に繋がりました。日本兵たちは島の民家に寝泊
まりし、アメリカ軍に対する恐怖心や“玉砕精神”が住民の中に植え付けら
れていきました。そして、いわるゆ集団自決(強制集団死)が起こるのです。
70年前の今日3月26日を島の住民の証言で綴ります。
もっとも広くて良い部屋とされていた、一番座を(日本兵に)使わせていた。
それは“分宿”と呼ばれる軍民一体の生活でした。
そうした暮らしはどうでしたか?
高江洲敏子さん『どうって、嫌ですよね、それはね。でも、国の為と思って
いますから、別に嫌だなとは思いませんでしたよ。お国の為、国を守る為
の兵隊さんなんだからと思っていますから、尊敬していましたよ』
宮城恒彦さん『そういう話をするのは頭が痛くなるね』 座間味島出身の宮城恒彦さんは、住民の証言を元にした集団自決の体
験記を執筆しています。毎年一冊を自費で出版し今年(平成27年・2015年)
で27冊目になりました。
宮城恒彦さん『もう記憶のかなたに送ろう送ろうとしているけれども、しか
しということがあって、こういうものを(体験記)書いている』
(体験記)そこに記されているのは、カミソリでそして手榴弾で自決した住民
の最後の姿です。
那覇から西に40km離れた慶良間諸島の一つ座間味島。およそ600人
が生活しています。アメリカ軍が攻めてくる半年前、昭和19年(1944年)9
月9日から、座間味島には日本軍が駐屯していました。
高江洲敏子さん『こっちが一番座(いちばんじゃー)、兵隊さんなんかは
ね、いいところに。向こうが二番座、前の方(一番座と二番座)が兵隊さん。
裏にも二つ部屋があって、家族は後ろ』
当時13歳だった高江洲敏子さんの家にも日本兵たちが一緒に住むように
なりました。各家庭で寝泊りしていた日本兵から、住民たちはアメリカ軍に
対する恐怖心を植え付けられていく。
高江洲敏子さん『絶対に捕虜にされてはいけない、捕虜にされたら耳切り
鼻切り、あとはもうお姉さんなんかだったら強姦されてあとは殺されるもの
だから、絶対にやってはいけない、自分で死になさいと言っていた。』
昭和20年(1945年)3月26日、午前9時。激しい艦砲射撃の後にアメリ カ軍は座間味島に上陸しました。この戦争で初めてアメリカ軍が沖縄の地
を踏んだ。その兵力は圧倒的なものでした。捕まったら酷い目に遭わさ
れる、そうした意識を植え付けられていた住民たちの間で集団自決は起
きました。
体験記を毎年執筆している宮城さん自身も、家族と共にたどり着いた壕の
中で姉を亡くしました。
宮城恒彦さん『手榴弾一個で死のうとしたんです。もし僕らのところに投げ
られたら僕らも死んでいたかもしれないけれど、もう無我夢中で投げたん
じゃないかと思いますよ。それで二人は、うちの姉は横腹をえぐり取られて
担任の先生はお尻をえぐられて、出血多量で死んだんですがね』
その場所に今はもう壕は残っていません。当時、壕の入り口で満開に咲い
ていた花の名前から、躑躅の塔と名付けられた慰霊塔がひっそりと佇んで
います。
姉を亡くした壕を後にした宮城さんは、山の中を彷徨いながら別の集団自 決を目撃します。それは、親がわが子を燃える家に投げ入れる姿でした。
宮城恒彦さん『鬼というのは、人間じゃなかったかなと思うぐらいのね。残
酷な場面を僕は見たわけね。この谷間で自決する人たちを、家族で。小屋
に火を付けて子どもを投げ込んでね、大人は投げ込むわけにはいかない
から、棒で叩いた』
座間味島では234人が集団自決によって命を落としました。慶良間諸島
全体では600人にのぼります。
わずか数日間で慶良間諸島を制圧したアメリカ軍は、この島々を拠点とし て、沖縄本島攻略へと向かうのです。
この小さな座間味島に秘密基地が作られ日本軍の拠点となったこと。そし
て軍民一体となった体制が築かれたことが、座間味島での悲劇を特徴付
けています。
戦争体験者が減る中でこの記憶をどう次の世代に語り継いでいくのか、 常に考えていかなければいけません。こうした中、ここ平和之塔では座間
味村の慰霊祭が行われました。座間味島の平和之塔の前では、島の内外
から訪れた戦争体験者や遺族ら、およそ120人が参列して慰霊祭が開
かれました。
遺族代表、平田文雄さん『私たち残された遺族もこの地の歴史を子や孫
に伝え、歴史が風化しないように努め次の平和へ繋げていきたいと考えて
います』
式典では座間味、阿嘉、慶留間島の中学生の代表3人が平和宣言を行い
ました。
座間味中学校2年。田口はなさん『亡くなった方々に自分たちは、平和を
守っていかなきゃいけないという、気持ちを伝えられたと思います。』
慰霊祭は5年に一度開かれ、戦後70年の節目となった今年(平成27年・
2015年)は高齢の遺族と、小さい子供を連れた親子の姿も見られました。
日本兵だった父親が阿嘉島で戦死したという、兵庫県の男性も参列し亡き
父の面影に思いをはせました。
兵庫県の遺族、徳田幸一郎さん『艦砲射撃がすごくて上陸して、すぐに亡
くなったという話は聞いた。戦争というのはやはり、家族、社会が乱れるそ
ういう悲惨な形はやっぱり望みたくないね、やはり平和ですよね。』
3月26日は島の慰霊の日に制定されていて、島全体が鎮魂の祈りに包ま
れました。
遺族代表として、式辞を述べられた平田文雄さん
平田さんは沖縄戦当時14歳。当時もっとも記憶として残っている事は?
平田文雄さん『先に投降した人が、宣伝とは違ってアメリカ兵に優遇された
ものだから、自分一人良い思いしてはいけないと云うことで、みんなが避
難している処へ、もちろん家族を呼びに、ついでにみんなを説得しに来た
んですけどそれを皆で罵倒してお前がそこへ来たことによって、アメリカ兵
が付いてきて、我々の避難場所を知っていると云うことで、追い返されてこ
の人はそのまま収容所へ帰れば良いものを、空き家になっている(自分)家
に一晩泊まって、帰るつもりで寝ていた。住民を守るべきはずの兵隊(日本
兵のこと)が、その寝ている処を軍刀で刺し殺してしまったということがすごく
衝撃でした。(日本兵は)住民を守らず殺し、アメリカ兵には一人も殺されな
かったと言うのが、本当に残念でなりません。・・・人が人で無くなるのが戦
場での有り様です。』
座間味島での出来事から、私たちから学ぶべきことは?
平田文雄さん『戦争というのは勝っても負けても、双方に犠牲者がでる。
その犠牲は取り返すことは出来ない、絶対に戦争はやるべきではないと
私は思います。』
座間味島の悲劇の根底には、一つは煽られた恐怖心と言うものがあり、
それが人々の心を縛りつけました。私たちはそのことを踏まえて、今の時
代をどう見つめて教訓としていけるのか?それが問われている。
戦後70年の地平から 3
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負けるはずがない
戦後70年の地平から 1
糸満市摩文仁にある「平和の礎」には、沖縄戦で命を落とした24万人あま
りの一人ひとりの名前が国籍を問わず刻まれています。
70年前この島はどういう状況に置かれ、なぜこのような結末に至ったの
かRBC(琉球放送)では体験者たちの証言をもとに、アメリカ軍が沖縄に上
陸したこの時期を起点に沖縄戦を時系列でたどっていきます。
まずは70年前のきょう3月24日、沖縄はどのような空気に包まれていた
のか。2人の体験者の証言からふり返ります。
70年前の3月、アメリカ軍が沖縄への上陸前に始めた艦砲射撃。その砲
弾の向こうに住民たちはいました。日本軍の看護要員として動員された、
白梅学徒隊の一人中山きくさん、昭和20年(1945年)3月24日の様子は
特に記憶に刻まれている。
中山きくさん『前日の3月の23日に摩文仁の南の海の方から、艦砲射撃
が始まったんですね。その日から、特に南部一帯の人々は、穴の中に入
っていないと命が守れなくなったんです。』
70年前、現在の八重瀬町にあった野戦病院壕に配属された中山さん。親
の反対を押し切って看護要員になったといいます。
中山きくさん『私たちは小さい時からお国の為に働いた兵隊さんたちをとて
も尊敬して(親の反対を)押し切って、看護教育隊に入ったということです。』
長い年月を経て現在では、入口すら分からなくなった野戦壕。
しかし、中山さんは当時の心境を鮮明に覚えています。
中山きくさん『(地上戦の)戦場になるという認識はなかった、今に友軍(日
本軍)がまた盛り返して助けに来てくれる』と。。
まもなくして少し離れた手術場壕に配属された。
中山きくさん『まず手術というのは夕方運ばれてきて、夜中にするわけで
す。一回手術したきりであとは入院中に手当しないから、また化膿する。大
変でした。』 『結局は傷が痛い、包帯を交代しろ、おしっこがしたい、水、水
もう一日中この中は兵隊が叫んでいるんですよ。』
凡そ2ヶ月間この手術場壕にいた中山さん、アメリカ軍が上陸していたこと
さえ分からなかったと言います。
しかし、6月4日を境に認識が一変します。
中山きくさん『6月の4日というのは私たちが解散命令を受けた日(上官が
)君らも知っている通り薬品も包帯材料もない、野戦病院の機能を果たし
ていない、だから今日でここの病院を閉じると、今日からここの壕を出てそ
して南の方へ逃げて、自分で安全なところへ逃げてくれと』
それまで日本軍の勝利を信じていた中山さん、しかしその日本軍に事実
上見捨てられたのが解散命令でした。
中山きくさん『どうして南へにげるのかと思ったら、実は今から2ヶ月前の4
月1日にね、アメリカ軍が沖縄本島の西海岸、中部の西海岸に上陸したん
だと、もうその時の私たちのショックというのは、結局はアメリカ軍が上陸し
たときいてからは、もうこれはダメだという気持ちでしたね。』
元県知事の大田昌秀さん。大田さんもまた解散命令で受けたショックを胸
に刻み、戦後沖縄戦の研究を続けてきました。
大田さんが事務所に掲げているのは、戦時中のある訓令でした。それは、
何を信じて良いのか分からなかった沖縄戦の象徴だという。
大田昌秀さん『昭和20年(1945年)の6月18日に解散命令が出た。とこ
ろがその同じ日に牛島司令官がまだ戦えと命令を出して、つまり沖縄戦と
いうのは解散と言いながらね、またこういう命令を出す。これが沖縄戦で
あった。』
3ヶ月前の〈昭和20年(1945年)〉3月24日。学徒動員されたばかりの大
田さんは、日本の勝利を信じて疑いませんでした。
大田昌秀さん『そのころまでは日本は神の国、神国だからね。だから絶対
に負けることはないということを絶えず学校で教え込まれていたわけです。
』
しかし、沖縄戦で体験したのは人が人でなくなる極限状態でした。
大田昌秀さん『私が一番ショックを受けたのは、日本の敗残兵が雑囊とい
って肩から布で出来た袋みたいなものがあって、それを兵隊たちはかけ
ていた、それが膨らんでいると食べ物が入っていると言って、日本の兵隊
が雑囊が膨らんでいる同じ日本の兵隊を手榴弾で簡単に殺して、その雑
囊を奪い取ってその中から食べ物がないかと探すのを毎日のように見て
いた。』
住民も日本兵も追い詰められた場所が、沖縄本島最南端の摩文仁でし
た。
大田昌秀さん『僕は足を至近弾で右足の下をえぐり取られて歩けなくなっ
て、摩文仁の海岸を腹這いになって歩いていた、気が付いた時には胸ま
で潮につかって海岸に倒れていた。』
中山さんもまた摩文仁に追い詰められていました。
中山きくさん『摩文仁に追い詰められて、海岸で長いこと動けなくてあれは
もう動けなくているんですよ、もう死んでもいいと』
住民も日本兵も最後に追い詰められた場所、それが摩文仁の丘でした。
中山さん大田さんもまもなくして日本が負けた事を知らされてアメリカ軍に
投降したと云います。70年前を振り返ると同時に忘れてはいけないのは7
0年後。つまり現在どの様な時代かという視点が大事二人方にとって戦後
70年の情景はどのように見えているのか?
大田昌秀さん『生き残ったら、生き延びる事が出来たら、なんでこういう目
に合わなくてはいけなかったのかということを明らかにしたい』
戦後、体験者として研究者として、そして政治家として沖縄戦に向き合い
続けた大田さん、その著作はおよそ90冊にのぼります。
大田昌秀さん『沖縄戦のことについて、集団自決などみんなこれの中に入
っている』
大田さんが最近進めているのは、市町村より細かい区画にあたる字の歴
史を記した「字」誌の研究です。
大田昌秀さん『毎日発見出来るような証拠がある。一番驚くのは非常に具
体的に書かれているということ、何月何日になんという日本の兵隊が、何
時ごろどういう理由で、沖縄の何という人を殺害したという、それが非常に
名前まで入って具体的に書いてあるからとても説得力がある』
長年沖縄戦の研究を続けてきた大田さんですが、その終わりは見えない
と言います。
大田昌秀さん『終わっていない、ぜんぜん終わっていない、アメリカ(の公
文書館)で資料を取っていたらね、アメリカの参考人があんたが人生全部
かけても取れないくらい資料はありますよ、と言っていた。沖縄戦、沖縄関
係の資料はね』
中山きくさん『これからは、みなさんのような戦争犠牲者も出しません。そ
れから、みなさんのご家族のような戦争遺族も出しませんから、頑張りま
す』
現在語り部の活動をしている、中山さん。
中山きくさん『簡単にですが書いておくことによって、白梅学徒の足跡を分
かって下さるのではないかと、もうすぐ(自分たちは)来れなくなりますから
他の仲間たちにも随分いわれました。ですから少なくてもね、これくらいは
残しておかないと、私たちのこれは務めだと思いますね』
あの戦争から70年、大田さんは今の社会状況をどう見ているのでしょうか
大田昌秀さん『安全保障について、集団的自衛権を行使するとか、憲法を
変えるとか、そういう状況になって、非常に怖い状況になってきている。戦
後沖縄の70年の住民の苦労が雲散霧消してしまう恐れがあるだから憲
法を変えさせないようにしないといけない』
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上陸72年目の日
沖縄よみがえる戦場
〜読谷村民2500人が語る地上戦〜
昭和20年(1945年)4月1日、米軍が沖縄本島に上陸。
米軍は上陸部隊だけで18万3千人という太平洋戦線で最大規模の兵員
を投入しました。。
それに対し日本軍の第32軍は上陸時の戦闘を避ける戦術を取ったため、
本島中部西海岸(北谷村、読谷村)から日本軍の抵抗をほとんど受けるこ
となく、無血上陸に成功し、米軍は同日の午後2時ごろには北飛行場(読
谷飛行場)と中飛行場(嘉手納飛行場)を占領。
米軍が上陸した読谷村では、爆撃に巻き込まれ、亡くなった村人。
着の身着のまま逃げ回り、飢えにあえぎ、命を落としていった村人。
読谷村内の防空壕やガマで命を絶った村人。
友軍日本兵による虐殺で亡くなっていった村人。
動画はその中で生き残った村人たちの証言です。。
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