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沖縄の軍事基地のはじまり
熊本鎮台分営所跡
明治維新に突入した日本政府は、近代的な国防体制を
築く上で、琉球国を併合することを考えました。
明治4年7月14日(1871年8月29日。琉球の同治9年)、日本政府は廃藩置県を実施。琉球国の領土を一方的に鹿児島県の管轄としました。その翌年の明治5年9月14日(1872年10月16日。琉球の同治10年)。一個の独立した国である琉球國に対して、日本国政府は強制的に琉球國の廃止を命令。一方的に琉球藩としました。。
日本政府は、明治8年(1875年。琉球の同治13年)5月。
「藩内保護」の名目で、熊本鎮台分遣隊の派遣を決定します。真和志間切古波蔵村(まわしまぎりこはぐらむら)周辺の18、603坪余を駐屯地敷地として接収し、兵舎、練兵場等を設置しました。
熊本鎮台分営所跡地にある説明版
沖縄に軍隊を置くか置かないかで日本政府と琉球王府との間で激しいやりとりがありました。
明治8年、日本政府から派遣された松田道之処分官は(琉球処分の布石として)那覇に熊本鎮台分隊を置きたいと要求してきた。
「国内を経営するに当たっては其の要地所在に鎮台又は分営を設置して以て其の地方の変に備う。これ政府の国土人民の安寧を保護する本分義務にして他より之を拒みうる権利なし」(国内を治めるには要所に軍隊を駐屯させて治安を維持しなければならない。政府が国土や国民を守るのは当然の義務だから、軍隊を置くことに清国などの外国が反対する権利はない) 琉球国側はこの提案をきっぱりと断りました。
「琉球は南海の一孤島であるから、どのような軍備を設けても敵の侵略と戦う力はない。このような弱小国が軍備をもてばかえって敵国が攻撃する原因となって国は危なくなる。むしろ武力に頼らずもっぱら善隣外交によって諸国とつきあい、柔よく剛を制すの精神で国家の安全を保つべきである」と突っぱねた。 熊本鎮台分営所跡地にある公園
熊本鎮台分営所跡地にある小学校
明治12年(1879年、琉球の光緒5年)3月25日。処分官松田道之とともに分遣隊2個中隊400名余が那覇港に到着し、首里城明け渡し等の処分を断行します。
琉球国の王宮を取り囲む日本兵士
光緒5年、尚泰王の治世32年(1879年、明治12年) 4月4日。沖縄県が強制設置され、琉球国が瓦解。。
明治13年に陸軍は駐屯地を首里城と定め、古波蔵駐屯地は使用されなくなりました。
そして、日清戦争後の明治29年(1896年)7月、分遣隊の沖縄派遣が終了。古波蔵駐屯地は農事試験場用地として、使用されました。
明治42年(1909年)に真和志村が敷地の払い下げを受けましたが、昭和3年(1928年)に、敷地約4,000坪余を陸軍が収用、在郷軍人の演習等に使用された。
これ以降、付近住民は一帯を「兵隊屋(ヒータイヤー)」と 呼ぶようになった。
沖縄戦後、米軍はこの一帯を石油オイル貯蔵所用地、那覇第2貯油施設 (与儀タンクファーム)として使用。
1972年・昭和47年に沖縄の施政権返還とともに土地は返還されました。
現在でも「与儀タンク」、「タンク跡」などと呼ばれている。
日本政府は、琉球処分を日本国内問題として進めていきました。琉球王府は外交権と警察・司法権の接収を意味する琉清関係断絶命令や裁判権接収命令などに従わず国権を行使し続けたのです。琉球国の国権の行使は一個の独立国家として当然のこと。しかし、琉球の国権の行使が日本政府の琉球処分の名目となったのです。
日本政府は合法性を装い、処分を断行していますが、
尚泰王を騙して東京に連行したり、武力を背景にして琉球国の国権の接収という。その手続き、理由を見れば、その実態は外交権や裁判権、その他の統治権を奪った琉球政府の解体であり、琉球国併合であったのです。 この熊本鎮台分営所の設置、琉球国併合が、まさに日本のアジア侵略の始まりだったということができます。
そして、現在に繋がる沖縄の米軍基地問題の原点と言っても良いと思います。
※アサギ
沖縄戦後米国民政府は、1953年(昭和28年)に布令109号によって、「土地収用令」を公布し各地で強制的な土地接収を開始しました。
武器を持たず必死に反対を訴える住民に対し、米軍兵士は銃剣で武装し、ブルドーザーを使って家屋を押しつぶし、耕作地を敷きならしていったのです。 「銃剣とブルドーザー」と呼ばれるものです。 沖縄県の元知事はアメリカへ渡り、アメリカの政治家や有識者たちとの懇談で、人権と自由を大切にする国が何故に沖縄於いて、ここまで非道な事が出来るのか?と尋ねたといいます。すると琉球処分のこと、熊本鎮台分営所の事を挙げて、アメリカは日本の模倣しただけと、言われたといいます。
桃香苺ミルクo(^-^)o
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日本及米国の軍事基地及び関連施設
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アメリカ合衆国軍事基地施設第一号
昭和20年(1945年)4月1日
米軍は千隻を超える大艦艇群で沖縄に上陸。
読谷、嘉手納の二つの飛行場を瞬く間に制圧し、すぐさ
ま基地建設に取り掛かりました。
占領前後の読谷飛行場
当時の米軍沖縄地区工兵隊文書の中の米軍嘉手納飛行場の図面。
まず最初に手がけたのは、道路の拡張と改修そして、
飛行場の整備と燃料貯蔵所の建設でした。。
Highway No.1 嘉手納Airport付近。 両側が米軍基地
米軍工兵隊(DE)の計画で道路が拡張整備するたび
に、USAハイウェーNo.1の標識を各所に立てました。
この一号線は米軍が管理していましたが、日本に施政
権が返還される直前の1972年(昭和47年)4月25日
に、軍道の管理が琉球政府に移管されました。
現在は日本国道58号線となっていますが、
この一号線は米軍施設の一号でもあったのです。
桃香苺ミルクo(^-^)o
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