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=邪馬台国 卑弥呼=
弥生時代後半になると、強い村が弱い村を従える闘争と合併を繰りかえし、政治的まとまりが見られ王が存在する小国が誕
生した。
中国文献によれば、紀元前1世紀頃の日本には100あまりの小国があったとされ、また紀元57年、倭(わ)
王が、後漢の光武帝に使者を送り印綬を与えられるなど、各地の王たちは中国や朝鮮半島と盛んに交易し、使者を送り先進文化を取り入れようとしていた。 小国は次第に統合されていったが、2世紀終わりごろ大きな争乱がなかなか収まらずそこで3世紀に入り、諸国が共同して邪馬台国の女王卑弥呼を立てると、乱は収まったという。 ここに女王 卑弥呼 (ひみこ)が支配する邪馬台国を中心とした小国連合が生まれた。 [魏志](ぎし) [倭人伝](わじんでん)によると、卑弥呼は 呪術(じゅじゅつ)の力で人々から畏れ敬われ君臨していたらしく、祭政一致の政治形態だった。 また、階級社会が発展し、租税制度や刑罰なども確立していたことから、政治国家として機能していたといえる。 卑弥呼は朝鮮半島を通じて中国(当時の魏)に使者を送り、(親魏倭王)(しんぎわおう)の称号と金印、銅鏡などを与えられた。 邪馬台国の所在については[倭人伝]の記述の解釈によって、距離を重視する 畿内説 と方向を重視する 九州説とがある。 卑弥呼の生活 魏志倭人伝はその記事の中で卑弥呼について次のように書き記している。
7,80年の間大乱が続いた邪馬台国では、一女子を王として樹立した。名前は卑弥呼という。
鬼道に通じていて、能(よ)く衆を惑(まど)わす。既に歳は取っているが夫は居らず、弟が居て政治を助ている。
女王となってからは、その姿を見た者は少ない。千人の召使いがいて身の廻りを世話しているが、ただ一人の男だけが飲食の世話、言葉の取り次ぎをしている。
さらに、狗奴国との戦いについて記し、卑弥呼、以て死す。大きな塚を作る。塚の直径は歩いて百歩以上で、殉死する者百人以上。男王が立ったが国中再び乱れ戦となった。居住する宮殿は桜観(物見櫓)が立ち、城柵を厳重に張り巡らして、常時兵隊が守衛に立っている。 使者は千人以上に及んだ。そこで卑弥呼の宗女(一族)で、十三歳の壱與
(台与?)を王として再び国中が平定した。
卑邪馬台国大研究ホームページ / INOUES.NET / 卑弥呼の生活弥呼についての記事は以上である。たったこれだけの記録を巡って、人々の想像力は太古の世界を闊歩している。 =紀元前2世紀、 福岡市西区早良平野にあった、 弥生初期の早良王国 =1998.12.18 「吉武高木遺跡」は福岡市の西区早良平野にある。飯盛山山麓に広がる扇状地で、真中を室見川が流れ南には佐賀県と境を接する背振山系がひかえている。 川を下れば程なく玄界灘にいたる場所である。このあたりは吉武遺跡群として知られ、高木遺跡以外にも「吉武大石遺跡」、「吉武桶渡遺跡」などが弥生の遺跡として有名である。又近くには弥生後期から古墳時代にかけて大集落があったと推定される「野方遺跡」も復元住居をともなって公開されている。 「吉武高木遺跡」は弥生前期末から中期初頭の遺跡で、「多紐細文鏡」(たちゅうさいもんきょう)を はじめとする鏡や青銅器、勾玉など、豪華な副葬品が出土した事と、弥生前期としては初めての、「高殿」と呼ばれる大型建物の跡が発見された事により一躍有名になった。 朝鮮半島との結びつきが強い中、糸魚川産のヒスイが発見されるのは興味深い。 当時の人々は、朝鮮からも糸魚川からもおなじように貴重な宝物を入手していた事になる。 面白い事に、この後4世紀以降になって朝鮮半島の遺跡からは糸魚川産のヒスイが数多く出土するのだ。古代の人々の交流経路や血脈の交流を想像すると興味は尽きない。 写真 宮崎県 [吉武遺跡より出土した品]
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