南紀州新巡礼の旅

神や仏にすがりたい気持ちにさせたのは?

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               ★臨済宗妙心寺派

         ?H1>雪峰山 福巌寺(通称一願寺)      御歌 
    〇福巌寺の御詠歌

 ?H2>雪の峰 福の巌と とこしえに 仏の姿 仰ぎ見るかな

〇一願寺蔵尊の御詠歌

 ?H2>ありがたや 一つの願い 叶ふてふ 菩薩のめぐみ あらたなりけり

住所 和歌山県田辺市中辺路町西谷575
TEL 0739 64 1045

(由緒
万治以前より、当字菴尾に福徳菴があり、真言宗の僧、太初守元和尚が菴主をしていました。

真砂には漬入山萬福禅寺がありましたが、大水害のために流失。

寛文二年二月に、再建不能の萬福禅寺と福徳菴が合併し、開山に海蔵寺第五世の桃源長茂大和尚を懇請して、寺名も雪峰山福巖寺と改め、清姫とその一族、並びに檀信徒各家の先祖の菩提を弔うために現在地に建立されました。
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             ?H1>一願寺

清姫の墓近くから北ヘ、西谷川にそって2kmほど行くと福巌寺(一願寺)があります。

 この境内に、「一つの願いを必ず叶えてくれる」という地蔵尊が祀られていることから「一願寺」と呼称されています。

 このお地蔵さんは、文政六年(一八二三)、八十三歳で亡くなった第六世住職、鉄凌道桟和尚をまつったものと言われ、地元では、「一願地蔵」や、「からし地蔵」と呼んでいます。

 自らの臨終を悟った和尚が、死の三日前、村人一同を集めて別れのあいさつをし「わしの死後、地蔵をつくって人通りの多いところへまつってほしい。まつってくれれば、一人に一願は必ず叶えて進ぜよう」と約束。

 「ながながと如来のまねも今日限り」

との辞世の句を残し、本堂で坐死したといいます。
 和尚が好んだと言われる、からしとお酒を供えれば、願い事が一つ必ず叶うといわれ、「からし地蔵」とも呼ばれているようです。
地元だけでなく、遠方からも多くの信仰者を集めています。
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= 安珍清姫物語 = 

真砂荘司藤原左衛門之尉清重と清重が 黒蛇 から助けた「白蛇の化身」の間に誕生した清姫。

清姫が十三才の年、熊野三山へ参拝の途中ここを宿としていた奥州(福島県)白河在萱根の里安兵衛の子安珍十六才、御互いひそかに惹かれ合っていた。

ある夜、安珍は蛇身の清姫の姿を偶然見てしまい、恐れをなした。

それとは知らずに清姫は思いつめた末、遂に胸のうちを語った。突然の申し入れに、なんとかして逃れようと思い「自分は今熊野参拝の途中なので、帰りには必ず奥州へ一緒に連れて帰る。」
とその場逃れの申しわけをして旅立った。

その真意を知らずに 安珍の帰りを指折り待ちわびる清姫。しかしあまりにも安珍の帰りが遅いので、旅人に尋ねると「その僧なら先程通っていかれた。」と聞いて、さては約束を破って別の道を行ったのだとあまりの悔しさに道に伏して泣き叫んだ。

やがて、気を取り直して汐見峠まで後を追い、杉の大木によじ登り(現在の捻木)はるかに望めば、すでに田辺の会津橋を渡り逃げる安珍を見て怒りに燃え狂い「生きてこの世でそえぬなら死して思いをとげん。」と、立ち帰り荘司ヶ渕に身を投げた。

その一念が怨霊となり、道成寺まで蛇身となって後を追い、鐘に隠れた安珍を七巻半して火炎を出し焼死させた。
時、延長六年八月二十三日。
里人達は、この渕を清姫渕と呼び、霊を慰めるため碑を建立し、毎年四月二十三日に供養を続けている。
鐘を七巻半したというのを一部では、奥州からの熊野参拝の日数が七十五日かかったからだと言う説もある。
清姫という女性は、たいへん情熱的な人だったようである。
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閉じる コメント(5)

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安珍清姫・・・道成寺絵巻で見たことがあります。歌舞伎も有名ですね。清姫のお墓まであったのですね。

2007/11/10(土) 午後 1:01 妙

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妙さんありがとう、 江戸時代に入り歌舞伎や狂言で日本中に知られるようになり,安珍、清姫物語の女主人公の(清姫)の出生地として知られいろいろの史跡、伝説があるようですよ。

2007/11/11(日) 午前 7:33 [ xmhxg ]

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清姫さんのお墓は知りませんでした。
道成寺は地元で、子どものころは写生大会なんかで三重塔や本道の絵を描きました。なつかしいです。

2007/11/12(月) 午後 7:38 あやこ

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清姫の里 田辺市中辺路町真砂

清姫が生まれたのが、真砂の里だ。富田川に突き出た高みに清姫の墓の板碑がある。

ここの真砂庄司の娘が清姫であった。真砂庄司は熊野八庄司の一人で、「南紀古士伝」は「真砂庄司は滝尻王子の庄司、栗須川の庄真砂村に代々居住す」と記している。

庄司は郡の公卿や寺社などの荘園の持ち主の代行をする管理者のことである。

この辺りには、清姫の墓だけではく、清姫の衣掛松、清姫の捻じ木の杉、清姫のぞき橋、清姫ヶ淵など清姫にまつわる遺跡がたくさんある。

真砂という地名は砂鉄を産出したことに由来するようである。神話の時代には、熊野は「鉄の国」と呼ばれていたこともあった。

鉱山を開いたのは、鉱物知識が豊富であった修験者である。真砂庄司が古くは「真砂の長者」と呼ばれたのは、この鉱物資源と関係があった。

安珍は清姫から鉱床秘図を盗んだ。
起こった清姫は採鉱民を従えて取り返しに行ったが採鉱民は敗れた。
その後、鉱山への課税が強化された。

これが、安珍清姫伝説の真実だと思う。

2012/6/5(火) 午後 9:23 [ 環境歴史観光防災カメラマン ]

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熊野三山を統括する役職としての熊野別当の名称は、「熊野別当代々記」によると、前述の宗教思想上の一体化にやや先行し、9世紀に初見される。

この時期の熊野山は、依然として地方霊山の一つでしかなかったが、白河院の寛治4年(1090年)の熊野御幸後、事情は一変する。
熊野御幸から帰還した後、白河院は、先達を務めた園城寺の僧侶・増誉を熊野三山検校に補任すると同時に、熊野別当を務めていた社僧の長快を法橋に叙任した。

これにより、熊野三山の社僧達は中央の僧綱制に連なるようになった。
このとき設けられた熊野三山検校の職位は確かに熊野三山を統べるものとされたが、検校は熊野には居らず、統轄実務を担ったわけではなかった。
宗務は無論のこと、所領経営、治安維持、さらに神官・僧侶・山伏の管理にあたったのは熊野別当とそれを補佐する諸職であり、当初その財政基盤となったのは、白河院から寄進された紀伊国内2ケ郡の田畠百余町であった。

熊野別当を世襲した熊野別当家は、後に新宮に本拠を置く新宮別当家と本宮と田辺を拠点とする田辺別当家に分裂しつつ、別当職を務めた。

2012/9/11(火) 午後 9:46 [ 高砂のPCB汚泥の盛立地浄化 ]


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