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★遊行上人ゆかりの寺 曹洞宗 御歌 住所 和歌山県田辺市中三栖1761 TEL 0739 34 0601 ★今、この瞬間瞬間を懸命に生き、仏道を歩む中で生きがいと幸せに気づくことが曹洞宗の教えであります。 尋聲寺は衣笠山の中腹に位置し,かつては山頂の衣笠城跡をはじめ周りの山々にも多くの城跡が残されており、交通の要所であった。 開寺時は不明ですが、ご本尊の台座は鎌倉期の物とされており、400年前の太閤検地帳にはその名が残されています。 江戸期初期に、紀州藩主徳川頼宣公の機縁により、初代弧舟禅師が曹洞宗に創建されました。 現本堂は平成9年に再建、堂内には県内美術家による天井絵が奉納されています。 江戸期に時宗(一遍上人開祖)の暦代遊行上人が熊野参詣の際、定宿として使われていた記述が遊行日鑑に残されているそうです。 |
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★ 西山浄土宗
ご本尊 阿弥陀如来
住所 和歌山県田辺市中芳養1081TEL 0739 24 6653 ★お参りのしかた お十念(ナムアミダブツを十遍)称える 泉養寺は、西山浄土宗の寺で、今から4百数十年前、大正年間に侶空受言上人によって開祖されました。 本尊は、阿弥陀如来。 十念仏 ナムアミダブツを十遍 称える。 法然が比叡山、黒谷の修行25年間終えて世間にでてきた法然は、世は源平争乱直後の時期だった。 文治2年(1186年)、法然は「いまの世にふさわしい教義は、ただ 浄土門あるのみ,,,,,」と力説した。 このころから法然の名声は高まり。前の関白九条兼実とその娘、宣秋(ぎしゅう)門院が法然の得度を受けて出家しその人気は絶頂に達した。親鸞の入門もこのごろだった。 泉養寺裏堂には県指定文化財である、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊像が安置されています。
この三尊像は鎌倉時代末期の作といわれ、元々芳養八幡神社の神宮寺にあったものが、明治時代に泉養寺に移されたといわれています。 |
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★小栗街道ゆかりの神社 住所 和歌山県田辺市中芳養803 TEL 0739 23 1736 芳養八幡神社は田辺市中芳養の八島の壇の丘の上にあり、平安時代には山城国石清水八幡宮の社領芳養荘であったが、豊臣秀吉の紀州攻めにより焼失、近世において田辺領主浅野氏、同安藤氏の寄進で再興し、中・上芳養村八カ村の総産土神となっていてる。
田辺地方の領主となった湯川氏を始め浅野侯や安藤侯も崇敬し、神事料、社殿造営費の寄進ばかりか安藤侯は享保9年(1724)に名誉ある特別保護の[境内殺生禁制」の証文を下されました。 しかし明治維新によって往時の盛観は失われ、今日では上、中芳養八区の氏神八万神社の社名となりましたが、馬場となっている旧参道や例祭神事の 駆場(やぶさめ)、また社宝によって往時の盛観を垣間見えることができます。 |
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御 本 尊:釈迦如来 ★御歌 臨済宗妙心寺派、慈光山。開山、天叔。開基、浅野左衛門。開創、慶長10年(1605)。田辺市は源平時代最強を誇った熊野水軍の本拠地でしられ、源氏に加勢した熊野水軍の本尊として軍船に安置され、平家との戦いで勝利に導いたと伝えられる弁慶観音像が祀られている。 熊野別当湛増が熊野水軍の本尊として軍船に安置し、勝利に導いたと伝えられます。 観音の慈悲の姿を現した、武蔵坊弁慶。源義経への犠牲的挺身さが民衆に観音菩薩の権現とダブり、 この観音菩薩を弁慶菩薩と呼ぶようになり、御利益を信じた人々が、慈悲の観音様に現世ご利益を願っています。
★ 出身有名人
• 鳥山啓(軍艦行進曲の作詞者、南方熊楠の恩師) • 片山哲(旧制田辺中学、現田辺高校出身 第46代内閣総理大臣 選挙区は神奈川県) • 天童よしみ(歌手) • 坂本冬美(歌手) • 小西博之(俳優) • 植芝盛平 (合気道の創始者) • 植田幸弘(元プロ野球選手) • (伝承)武蔵坊弁慶(義経と京の五条の橋の上の歌でも有名) • 北公次(フォーリーブス) • 小川琢治 - 学者 • 岩見よしまさ - (お笑いコンビ・飛石連休) • 田中光(元体操選手) • 楠淳生(ABC朝日放送アナウンサー) • 桂三歩(桂三枝門下の落語家) • 濱中治(阪神タイガース) • 早田卓次(東京オリンピック体操 金メダリスト、日本大学教授) • 湯川真理子(脚本家、NHKバラエティー生活笑百科などのシナリオライター) • 西岡良洋(元野球選手 西武-巨人-ロッテ-西武-巨人-横浜) • 上田次朗(元野球選手 阪神、南海) • 南方英二(コメディーグループ チャンバラトリオ 吉本興業) • 岩本多代(女優) • 岩本尭(元読売巨人軍) • 脇村義太郎(東京大学教授) • 早川崇(国会議員) • 寄本勝美(早稲田大学教授) • イーデス・ハンソン(エッセイスト・タレント)旧中辺路町在住 • 武壮隆志(写真家) • 中瀬ゆかり(雑誌編集者、テレビコメンテーター) • 樫山圭(元MOON CHILDドラマー) • たなかじゅん(漫画家) 地元では、植芝盛平、武蔵坊弁慶に南方熊楠(後半生を田辺で過ごした)を加えて田辺の三奇人と呼んでいる。 |
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== 弁慶伝説ゆかりの地 酒井董美著より… ==
弁慶については、鎌倉時代、薙刀を取っては天下無敵、源義経に常に寄り添って彼を助け、奥州平泉で立往生を遂げた人物。このようなヒーローの姿がまず浮かんでくるのではないでしょうか。 この西塔武蔵坊弁慶については、歴史上本当に存在した人物かどうか、実際のところは不明なのですが 面白いことには弁慶は出雲地方でかなりまとまった形として伝えられているのです。つまり、現在の松江市長海町で生まれ、さらに青年時代までを平田市の鰐淵寺をはじめ、出雲地方を舞台として修行し生活していたというのです。 調べてみますと東の安来市から、八雲村、松江市、島根町、玉湯町、宍道町、出雲市、平田市などにわたって広く弁慶にまつわる伝説は残されています。 もちろんは、この弁慶伝説の広がりは出雲地方のみならず全国的で。島根県以外で見ると、福岡、香川、岡山、鳥取、滋賀、京都、兵庫、三重、奈良、大阪、和歌山、福井、新潟、岐阜、神奈川、岩手、山形などにもあるようです。 しかし、出生時代から伝えているものとしては、島根県の他には和歌山県田辺市以外にないようです。しかもその内容を比較しますと、出雲地方の方が田辺市のものよりずっとくわしいのです。 さらに言いますと、他地方のものは単に「弁慶の◯◯」と弁慶ゆかりの事物を称しているだけですが、出雲地方のものは、弁慶が「生まれ、成長する過程の伝承が実に豊富に認められる」点に大きな特徴があります。 「義経記」によりますと父は紀州熊野権現の別当で弁しょうといい、 熊野参詣に来た京都の高貴な方の姫君を妻としたもので、その姫君が弁慶の母ということになります。そしてこの弁慶の母は二位大納言の姫君で、もともとは右大臣の奥方ということになっているのです。つまり弁慶はこの両親の間に生まれた長男であり、出生地は紀州熊野となっています。 出雲地方にあっての弁慶は「義経記型とまったく異なった伝承」をもっており弁慶関係の伝承地…実存・壮大なスケール・圧倒的な質と量… 平田市別所町にある鰐淵寺(明治維新まで出雲大社の別当寺の座にあった古刹)です。 ここには弁慶が学僧時代に修行していたとされるだけに、書道のために硯の水を得た弁慶硯の水の井戸(弁慶は字が非常に上手く、頼朝に出した腰越状は弁慶が代筆したという説がある)、彼自身が描いたとされる自画像、彼が大山寺から一夜のうちに運んだという大日寺の釣鐘(国の重要文化財に指定…県立博物館に移管)、 負い櫃(普通の櫃は木製で修行僧が旅する際の必需品で背中に負って歩いたもの、鰐淵寺に残っているものは鉄製の重いものです…弁慶が大きな男であったと想像できます)、袂にいれていたという「弁慶袂の石」があります。 [[attachd(1,left)]] また出雲市武志町には弁慶のお母さんの「弁吉女の墓」個人のお宅の畑の中にあります。 八雲村熊野にある「熊野大社」は出雲一の宮とされ、格式の高いお宮ですが、別伝ではここの別当が「弁吉のお父さんである弁斎の出身地とされています。」 安来市では、「清水寺」(千四百余年の歴史を持つ天台宗の古刹)に弁慶が一息に登った「一息坂」があります。 県都である松江市には多くの関連地が見られます。長海町にはお母さんを祀った「弁吉女霊社」のほかに「弁慶生湯の井戸」「弁慶の屋敷森」「弁慶の立て岩」がありました。…以上出雲地方に実存する伝承地の一部を紹介… ★和歌山県田辺市もまた弁慶伝説誕生の地を自負している弁慶伝説の本場です。 とはいうものの、ゆかり事物は出雲地方に比べてはるかに少ないのが実際です。ここで田辺地方の伝説を簡単に紹介しておきましょう。 弁慶の母は出雲大社の巫女(名・足跡は?)で絶世の美人でした。そして父は田辺の郷士湛増であり、二人の間に生まれた弁慶は幼くして京へ上って行ったというのです。 したがって、ここでの弁慶にまつわる伝承事物は「弁慶湯の釜」、あるいは「弁慶屋敷」とか「弁慶松」そして弁慶の父が源氏方につくか平家方につくか鶏を戦わして占ったとされる「闘けい神社」くらいしかみられません。 全国的にみてもこうした多数の伝承が出雲地方に集中しているような例はどこを捜しても見つかりません。平田市をはじめ出雲地方は本当に弁慶伝説の宝庫なのです。 …編集後記… 出雲地方に弁慶という人物は実存したのである。これは出雲大社の別当寺であった古刹「鰐淵寺」や安来市の「清水寺」の資料等から明らかである。ただ、この人物が歴史上有名な弁慶と同一人物であるかどうかが、問題なのである。 田辺市の弁慶伝説のように、存在した証を創作物語にすぎない「義経記」にもとめているのとは同一なレベルで考えることはできない。有名人(歴史上)は初めから有名人ではないのであって、なにかを成し遂げたとき、その生い立ちからのすべての足跡が明らかになり、そこから伝記というものが生まれてくるのである。言い方を変えると、足跡がないところに弁慶生誕の地としての価値をみいだすことはできないのである。 ★ではなぜ田辺市が弁慶生誕の地としてもてはやされるのであろうか。 一つには、県民性もあるのではなかろうか。とにかく商売じょうずである。 (出雲民族は祖神大国主命の国譲りのように自己主張がきらいなのである)。 二つには、出雲地方は神々の国であり、大国主命、スサノオノミコトなど、 日本神話の大スターがいるので、弁慶程度ではスターになれないのである。 現実に出雲地方ではこれだけの一級の資料がありながら、弁慶にあまり関心がない、そんなもんがどこにあるのといった程度である。 三つには、弁慶伝説が自治体単位をはみだして広域にわたり、田辺市のようにわが町の弁慶となりにくいということがある。 いずれにしても、田辺市の弁慶生誕の地は、確かな足跡がない以上、創作物語である「義経記」によるとという但し書きが必要ではなかろうか。 弁慶は田辺市の偉人となっている。創作物語にすぎない「義経記」の弁慶生誕の地から、実存の人物を称する偉人にしてしまうのが、県民性(和歌山県の弁慶紹介も同じ)として面白いところである。最近は弁慶社もできたそうで、田辺市の弁慶伝説もこのような地域性から生まれたものと推察される。 写真 1、安来の清水神社 と 4、島根熊野大社
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