南紀州新巡礼の旅

神や仏にすがりたい気持ちにさせたのは?

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           熊野大権現 熊野三山三世信仰

             ?H1>闘鶏神社

御歌 ?H2>千早振る 神の誓いの つきせねば 国も豊かに 御代ぞ久しき


住所  和歌山県田辺市湊655番地
TEL 0739 22 0155

創建は允恭天皇8年(419)9月、熊野権現(現在の熊野本宮大社)を勧請し、田辺宮と称したのに始まる。
白河法皇の時代に熊野三所権現を勧請した。平安時代末期の熊野別当湛快のときにさらに天照皇大神以下十一神を勧請して新熊野権現と称し、湛快の子の湛増が田辺別当となった。

弁慶は湛増の子と伝えられ、その子孫を名乗る大福院から寄進された弁慶の産湯の釜が当社に残る。

田辺は熊野街道の大辺路・中辺路(熊野古道)の分岐点であることから、皇族や貴族の熊野参詣の際は当社に参蘢し、心願成就を祈願した。

熊野三山の全ての祭神を祀る熊野の別宮的な存在であり、当社に参詣して三山を遥拝して山中の熊野まで行かずに引き返す人々もいた。

『平家物語』などによれば、源平合戦の時、湛増は社地の鶏を紅白二色に分けて闘わせ、白の鶏が勝ったことから源氏に味方することを決め、熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣したという。

このことから「闘鶏権現」と呼ばれるようになり、明治の神仏分離の際に闘鶏神社を正式な社名とした。

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 湛増・弁慶の像)
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湛増は熊野水軍200艘の軍船と約2000人の大軍を擁して、屋島の合戦、壇ノ浦の合戦に参戦し源氏に大勝利をもたらした。湛増の源氏への加勢がその後の歴史と義経、弁慶の生涯を決定づけたとも言える。
 比叡山西塔で修行を積んでいた弁慶は、京の五条大橋で幼少時代の義経に出会い、戦いを挑んで敗れ終生家来として義経に尽くした。最後には兄・頼朝に追われた義経を守り、奥州・平泉の衣川の地で全身に矢を受けて立ち往生した。義経に従った弁慶の武勇伝は伝説的な部分も多いが、平家物語、義経記、源平盛衰記のほか、歌舞伎、芝居、映画などで紹介されてきた。

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闘けい神社の境内にある熊鷹稲荷大明神の御神木です。この木の下で楠の葉を歯の患部につけ歯病平癒を念じると治るという信仰があります。
和歌山県の天然記念物に指定されています

  ★ 田辺市は和歌山県下2番目の市で南紀地方(牟婁地方)の中心地。江戸時代は和歌山藩の支藩安藤氏3万7千石の城下町。

平成05年5月に近隣の西牟婁郡大塔村・中辺路町、日高郡龍神村、東牟婁郡本宮町と合併し新“田辺市”となった。人口約8万6千人。

世界遺産の熊野古道や熊野本宮大社などの「紀伊山地の霊場と参詣道」の大半がある。
隣接するみなべ町(旧南部町・南部川村)と並ぶ日本一の梅の産地。

    次回は弁慶の出身地は本当に田辺?

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              ?H1>いらっしゃい串本へ

    ★町の鳥 メジロ ★町の花 水仙の花 ★町の木 金柑の木  ★町の魚 飛魚

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       ?H2>癒しの場所
  ★弘法の湯  ★珊瑚の湯  ★串本温泉
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   串本名物 サンマ寿し    干物
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鮑と工芸
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              臨済宗妙心寺派

           ?H1>安養山 海蔵寺

住所 和歌山県東牟婁郡串本町江田528
TEL 0735 66 0126 

     世を照らす 瑠璃のひかりを たなむみは 心の闇も 江田の浜風


国道42号線、江田バス停から山手に入ると、安養山海蔵寺があります、樹齢150年の蘇鉄100年の銀杏がそびえています。 

創建の年代は不明ですが、本堂は浦儀左衛門(地士で先祖は代々大庄屋を勤めた)先祖一建立といわれる。

当山の開祖は室町の末期といわれています。中興瑞巌元周和尚(元禄4年)に再建。世に左甚五郎の建築と称し、すばらしい建築様式の寺であった。

本堂は明治28年不審火によって全焼、わずかに過去帳一冊を持ち出しただけですべて灰燼に帰しました。
幸いに薬師堂が火災を免れ、薬師如来を本堂として迎えて、明治34年現在の本堂を再建しました。

当山では、ご本尊を東方薬師瑠璃光尊仏と伝えられ、病気平癒にご利益ありと、薬師さんにおまいりの善男、禅女多いそうです。

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       ?H1>潮御崎(しおのみさき)神社

     == 少彦命名(すくなひこのみこと) ==ゆかりの地

住所  和歌山県東牟婁郡串本町潮岬2881
TEL 0735 62 0919

   ここにます 神にたむけのみてぐらなれや 潮の御崎に 寄する白波

     (六十五代)花山法皇

現在の社号 潮御崎神社、古来 熊野御崎神社 御崎大明神 御崎観音 水崎明神として世 に伝えられた。

 祭神信仰 少彦名命は医薬治療の道を始め給うた神として世人の祈念を集め

 海外発展の神として海外渡航者、海運業者、漁業関係者に広く祈願されてきた。

又鳥虫害を除く法を始めた神として農業関係者の崇敬を集めた。

               ★岬会合
 
江戸時代初期寛永の頃には既に慣例の行事として、周参見より下田原に至る十八ヶ浦の鰹漁の船頭達が毎年旧正月、五月、九月の毎十八日に潮御崎神社に参集し 鰹漁に関する規約が協議協定され、神の御名に於いて遵守された。

明治三五年七月法的根拠の上に立つ漁業組合が成立する母胎となった数百年の輝やかしい歴史を持つ岬 会合である。

黒潮が最も接近する潮岬沖は郡遊する鰹の宝庫であって十八ヶ浦の漁師達は潮岬沖を指して鰹漁を競った。漁場を一望に見渡す潮御崎神社は共同の守護神と して篤い尊崇を集めて来た。
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            望楼の芝焼き
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           望楼の今昔
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串本町とオーストラリア (木曜島)の歴史


司馬遼太郎の「木曜島の夜会」で有名なオーストラリアの木曜島。明治時代から戦前にかけて、多くの日本人がこの島で真珠採取に従事し、そして命を落としました。

700人の日本人が命を落として


 木曜島は、オーストラリア北東部、ヨーク岬の突端から35キロほど離れた場所にある。

  木曜島の隣りには水曜島、金曜島などがある。この海域から、巨額の金を産んだ。
  
「この慰霊碑は トレス海峡において死亡された 約700名の日本人の霊を慰め 彼等の功績を後世に伝えるために 建立されたものである   
 日本人は1878年から1941年まで 北部オーストラリアの基幹産業であった真珠貝 高瀬貝 ナマコの採取漁業に雇われ 島の人々とともに活躍し 漁場の発見 漁法の改良を通して この漁業を発展させた
 この塔は 和歌山県 愛媛県を中心に 彼等の遺族や郷土とこの漁業に従事した人々 この海域の真珠養殖会社等の寄付により 日本人来島100年を記念して ここに建設した
 1979年8月 慰霊塔建設会」
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 慰霊碑に刻まれた文章は非常にあっさりとしている。だが、碑のすぐ近くに大量に立てられている日本人の墓を見れば、この碑の重さを考えずにはいられない。

 墓の多くは今では藪に埋もれている。なにせ明治30〜40年代の物が多く、もはや墓参する人もほとんどいないから自然と荒れ果て、うち捨てられた、としかいいようがなくなっているそうです。
なまじ碑が目立つだけに、荒涼とした墓地がいっそうわびしく見えてしまうのだ。

 ある資料によれば、日本人700名の死者のうち、半数以上が21歳以下の若者だったという。10代後半で島にやってきたとして、彼等はあっという間に死んでいったことになる。 真珠ダイブは、日本人の多くの若者を引きつけて、そしてその命をいとも簡単に奪っていったのである。

★藤井富太郎翁之像 (串本町出身)
  司馬遼太郎は、この藤井さんに出会って、真珠ダイビングの記録を残している。当時でさえ「生きた記念碑」と書かれているくらいだ。その彼が亡くなり、もはやこの島に真珠ダイブを知る日本人の生き証人は残っていない。
★死を招いたダイブとは?
 
 この海域で捕れる高瀬貝、白蝶貝、黒蝶貝は、天然の装飾素材として重用された。バックルやナイフの柄などにも使われたが、たいていの場合、高級ボタンの材料として使われた。ヨーロッパでの需要も高く、ずいぶん高い値段で売れた。
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 ダイバーは取れば取るだけ収入になったから、多くの日本人は熱心に働いた。それはほかの民族から見ると鬼気迫るほどで、「木曜島の夜会」によれば、体力的にも精神的にも一日5回程度が限度である潜水を、日本人はその10倍も潜ったとも言う。

 当然だが、水中でのハードな仕事を続けるほど生命の危険も高くなる。

 そのうちの一つが鮫である。船上では貝を割って肉を海中に捨てる作業があるのだが、この肉を目当てに鮫がやってくる。

 また一日の最後のダイブが終わると、夕食のために海上の船からモリが降ろされ、ダイバーは魚を捕る。瀕死の魚を体に巻き付けて浮上するとき、鮫は一気に人間を襲った。
 
 次に潜水病。浅いところにいる貝は限られているので、どうしても深く深く潜って行かざるを得ない

10メートル以上の潜水後に急浮上すると、血液中に窒素の気泡が発生し、足が不随になったり、最悪、死亡してしまう。

 予防はゆっくり段階的に浮上するしかないのだが、当時、減圧の知識はなかったし、仮にあってもそれを守ろうとする人間はいなかった。
 トレス海峡にはダンレイ・デープスと呼ばれる30尋(およそ55m)以上の深海があり、ここで多くの人間が死亡したという。

 潜水夫にとってもっとも注意を要したのは、実は窒息の危険だった。当時、もちろん酸素ボンベはなく、ホースでつながれたダイバーのヘルメットに直接船上からポンプで空気を送った。手動だから、船上の人間がちょっとでも油断すると空気が途絶えてしまう(1913年に自動ポンプが開発されるとこの問題は解消)。
 最悪なのが、船のスクリューでホースが切断されてしまうことだ。当然、ダイバーはパニックになり、一気に水面に出ようとして潜水病になることもあった。
 もちろんこうした事故を防ぐために、ダイバーとテンダー(船上の補助夫)は密接に連絡を取り合うのだが、それはたった一本のロープのみに依存した。一本のロープで、ダイバーはあらゆる意志を船上に伝える必要があった。 、
 この島に最初に来た日本人は島根県の野波小次郎という漁師だった。その後、数人が渡航し、1883年(明治16年)にイギリスのジョン・ミラーの手引きで37人が団体移民している。
串本地方では明治17年(1884) 潮岬の人が当時潮岬灯台守に来ていたイギリス人に連れられて渡ったのが最初といわれる。
  日本人は雇い主が驚くほど熱心に働いたから、次第にダイバー職を独占し始めた。
 この時代、なんと島の人口の3割が日本人だったという。
 日本人は、どうしてこのように熱心に働いたのだろう。司馬遼太郎はこの理由について「金への執着」と書いている。
紀南地方も江戸時代の鎖国から解放されたが 自給自足の生活が貧困でまともに食えるような状態ではなかった。ところが木曜島に行けば百万長者になれるうわさが流れ我もわれも渡航。

 当時、農村で働いたとして、1年の賃金が15円20円程度、大工賃が一日35銭米一升14銭ところが移民の場合、3年間でおおよそ350円稼げたという。若い日本人が命を懸けてまで潜る理由は、明解だったのだ。若い衆は何とか人間らしい生活に目だめ、親兄弟のことを思い、杉皮ぶきの家を瓦葺の家に立ち変えようを先人たちが命をなげうって賢明に働き現代の礎となた。

 
          = 開戦で全員逮捕、強制送還 =!

 1920年代まで好調につぐ好調を続けてきた真珠採取だが、1931年の世界恐慌で、市場は一気に衰退してしまう。多くの日本人もこのとき解雇された。

 ★そして1941年、太平洋戦争が始まると、オーストラリア政府は敵国人である日本人を全員逮捕してしまう。
 司馬遼太郎はこのときの様子を藤井翁のインタビューとして、次のように書いている。

「濠州政府は、(中略)軍艦を派遣してきて、日本人三百人を虜囚にし、小さな汽船の船底に押しこめた。暑いころで、船底に風が来ず、たちまち病人が続出した。

濠州政府は木曜島の日本人を人間として見る余裕がなかったのか、豚よりもひどいあつかいだった」
(「木曜島の夜会」)

 戦後、ほとんどの日本人は強制送還されたが、オーストラリア人と結婚している日本人は木曜島に戻ることができた。藤井翁も島に戻り、再び真珠産業を復活させた。

 だが、戦後これからいうときに、世の中にプラスチックが出回り始める。もはや高価な天然ボタンの需要はほとんどなくなっていたのである。

 こうして、木曜島の真珠産業は、戦後まもなく衰退していく。

 藤井翁はそれでも最後まで真珠産業にかかわり、地元では「真珠の父」として広く尊敬を集めた。悲惨な時代の真珠ダイブを知る、最後の人間だった。

そして1986年、鬼籍に入る。翌年、地元有志によりトレス海峡を見下ろす高台に、翁の銅像が建てられた。現在、島に日本人の活躍を示す遺物は、慰霊碑と日本人墓地とこの銅像くらいしかない。

不幸にして敵対国としては先人たちの偉業を敬う気配も薄れがちになっていましたが、戦後ようやく生活にゆとり を持ちその基を築いてくれた 先人達の霊を慰め日豪の親善を計ろうと、

      ★木曜島やブルーム渡航者 慰霊祭 串本町 

 串本町潮岬の木曜島顕彰碑前で豪州北部の木曜島やブルームへ真珠貝採取のために渡航し、現地で命を落とした地元の先人を慰霊する式典があった。関係者や遺族ら約150人が参列。古里を思い、命を懸けて事業に従事した人の霊を慰めた。
 家族の暮らしを楽にするため、貝ボタンや貝細工の材料として重宝された真珠貝を採取しようと、明治中期から昭和初期にかけ、串本町などから多く渡航した。15、16歳の若者ら、最盛期には1000人超の人が事業に従事したが、潜水病などで多くの人が亡くなった串本地方で300人)わが叔父もその一人。

 ★日本人が現地の経済発展に貢献したとたたえられ、木曜島やブルームに約1500基の日本人墓地が建てられた。
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 串本町では1998年、豪州につながる太平洋を臨む潮岬望楼の芝に、有志によって顕彰碑が建てられたが、これまで1度も式典が開かれなかったため、有志で式典を企画した。
今月串本町主催の墓参団出発の運びになりおそまきながら一層の日豪親善に一翼を担う運びなりました。
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