南紀州新巡礼の旅

神や仏にすがりたい気持ちにさせたのは?

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       ?H1>熊野巡礼の旅の終了と回顧と御礼

  このたび熊野地方を繰り返し訪れてもらおうと、白浜町のNPO法人」「熊野曼荼羅]
(長谷川明理事長)が、熊野古道沿いの社寺の協力を得て、巡礼コース[熊野曼荼羅三十三ヵ所めぐり]を企画しました。
熊野の歴史や文化を全国に発信し、地域振興や学術、文化の交流につなげることを目的に熊野古道沿いの社寺など三十三カ所を選んだそうです。

 私もこの企画に賛同し、できれば1から33箇所の各社寺を回り各々の神社仏閣の歴史を勉強しその時代を少しでも想像できたらと思い挑戦してみたいと思いつきNPOさんの発行した〈熊野曼荼羅〉を参考に写真と書物、NETで調べた歴史をブログに投稿し今日で神社13、お寺20の計三十三箇所巡りを終えることになりました。
 南紀神社仏閣の歴史を辿りどのような歴史を持った神社、寺なのか、少しでも勉強できればと思ってはじめたのですが5月18日。

 もともと宗教に関しては無関心でした、正月、盆、を除いては神仏に参拝して祖先の霊を祀るとか念仏を唱えたりなどという行為とは縁遠い生活を送っていいましたが、年とともに暇も出来 デジカメ、にも興味を持ったのを糧としてそれではと巡礼の旅が始まりました、といっては格好はいいですが
もちろん文明の利器、自動車による巡礼。

昔流に言えば熊野古道 大辺路街道、中辺路街道、の旅、現代では国道42号から311号、168号、ともに路は整備され、ドライブ方々神社、仏閣に立ち寄るという感じだが、それがまた逆に、平安時代の昔より今に伝わる 熊野信仰の道 なのだとすれば昔の道はどのようなものであったかを想像するだけもよい勉強になる。
如何に強い信仰心の持ち主でなければ敢行できないことか、まして私のような意志薄弱者には到底不可能なことだったと、現代の文明の力に感謝し参拝を終えたことに満足しているしだいです。

 [人間が宇宙旅行できる時代に神様、仏様でもあるまいに]と思う反面 正月、お盆になると神社、お寺さん、お墓参りをして一家の繁栄、家内安全、商売繁盛、諸願成就を願い心の安らぎを覚えます。

日本の神様は神話の時代から続く我々日本人の祖先であり日本の宗教風土は仏と神が混然一体となった歴史を持ち、遠い先祖を神様と崇(あが)め、近い先祖を仏様と尊び、現代にいたるまでその習慣は続いています。
巡礼を終えて感じたことは神社と仏閣の参拝客の大小、熊野曼荼羅 13箇所ある神社、特に有名な神社は平日にもかかわらず、観光バス、マイカーによる参拝客で賑わいをみせているが、
お寺20箇所、で私と同じ参拝した客に出くわせしませんでした。2箇所ほど法要中のお寺がいました、

また住職不在、または留守中のお寺が6箇所ほど、そのような所では朱印料300円をおき自分で押印してきます。
お参りしてお願いをするには神様も仏様も同じように思われるが、、、、そうか! 叶わぬときの神頼み?仏様は神様の後か、神様、仏様、稲尾様、その稲尾投手も亡くなったなぁ。

思うが侭に次に妙心寺派のお寺に参拝し朱印をお願いすると住職さん喜んでくれ、いろいろと話し合いました、
住職 曰く 観光スポットとして賑わいを見せる神社とこんな片田舎の寺では経営面に大きな開きがあります。それには問題が多くあると思うのですがその一つには一般の人々のお寺離れです。

お寺は葬式や法事のときにはお世話になるがそれ以外には期待していないということが通念となっています。
現代人に求められるお寺に変わっていくには企画力ではなく、一人でも二人でもいいから悩みを聞いてあげることです、そこから現代社会へとつながります。

いま日本には年間の自殺者は3万人、ひきこもりやニート、親子殺害などの事件に見られるように、現代人は大いに心の悩みを抱えています、

これからのお坊さんの役割というのは、地域における結び目だと思っています。

江戸時代の檀家制度が国家主義だとすれば、これからは地域主義です。お坊さんが地域の結び目になれば、人々は何かあるごとにお寺を訪ねることになり、お寺は地域のコミュニティとして人々が集まる場所になる。

仏教には生きる知恵が膨大に詰まっています,人々の生きる苦しみに応えてくれるでしょう。“頑張ってください住職さん”。

〇 またあるお寺で参拝の目的を話すと[それはそれはと、 旅の安全の祈祷をサービスしますからおあがりください]といわれ、「いいですとも言えず」じゃ、お言葉に甘えてと、本堂に上がりご祈祷を受け退散しました。(もちろんお布施をおきましたよ) おかげ?でシルバーマーク貼り付け近い年齢ながら無事故無違反で完参。

こうして巡礼終えて省みれば勉強が足りないことや近辺の写真をもっときれいに撮れなかったのかとかページをリピートして反省している次第です。

楽しみは朱印帳です、朱印帳が完成すれば自分の宝とし各々の神社仏閣を思い出し自己の思い出、孫との語らいの材料になればと思っています。

  皆さんありがとうございました、5月18日の投稿してから今日まで10740のアクセスがありまた大勢の方からコメントを頂き誠に有難うございました。
この励ましを真摯に受け止め今後の人生の励みとし頑張りたいと思います。
これにてブログ投稿は終了します。長い間有難うございました、皆様のご多幸とご健康、ご発展をお祈りいたします。

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                 ★臨済宗妙心寺派
    ?H2>松尾山聖福寺   ご本尊  千手観音菩薩
★御歌
 ?H1>まつのおの やまのあらしも さむからで かねのひびきも よそにきこえて 住所 和歌山県西牟婁郡白浜町堅田1211
TEL  0739 45 0162

今から370年ほど前の寛永初期。諸国行脚の一人の青年僧が足を留めたのが堅田の地。

「此処こそわが修行と布教の地」と心に定め、庵に投宿して修行に入りました。

 当初は無関心だった里人たちも、仏の無辺の教えを説く青年僧の敬虔な姿と、他人のために身を挺(てい)して尽くす真心の明け暮れに、心がほぐれ信頼が増し、修行の場「法雲庵」と青年僧がかけがえのない宝、心の拠り所となっていきました。

 この青年僧こそ、延宝5年(1677)8月15日に生涯を閉じるまで、栄達を求めず、堅田の里人の中にあって墨染めの衣で通し「偉くてやさしい和尚さん」として慕われた、聖福寺草創『一株祖典(いっちゅうそてん)禅師』だったのです。

 伽藍を整備し、法雲庵の後進となる聖福寺を創建するも、自分は開山とならず、師匠の夾山東寛(かっさんとうかん)禅師(1639年寂)を開山として請うているのも一株禅師の人柄が偲ばれます。
また、世界遺産にも登録された熊野古道の大辺路ルートが2本(富田坂・仏坂)通っており、こちらも観光の対象となっている。

〇徳雲庭」は、仏道の究極として尊ばれている次の句に由来します。

  徳雲の閑古錐、幾たびか妙峰頂を下り、他の聖人を雇って、雪を担って共に井を埋む

「徳雲」はお坊さんの名前で、徳雲尊者のことです。「閑古錐(かんこすい)」は使い込んで先が丸くなった錐(きり)で、尊者の枯れきった高い老境地をあらわします。

 その老尊者が、来る日も来る日も自分の住む妙峰山(みょうぶせん)を下っては他の人々と共に雪を担いで古井戸を埋めようとする、というのです。

 雪をいくら古井戸の中に入れても、井戸が埋まるわけではありません。全くの無駄事とも言えます。

 同様に、どんなに修業をつんで悟りを開いても、この世に生きている限り、迷える心を持つ人々の苦しみ、悲しみがすべて消えてなくなることはありえません。

 しかし、それでもなお、人々と手をとってこの世を修していくというのです。人々が苦しい時は共に苦しみます。楽しい時は共に楽しみます。
 自分自身は悟りを開いて安心を得ているにもかかわらず、あえて迷える心を持つ人々のもとに降りたって、この世を生きる人々が生死の苦しみからときはなたれることを願い、やがて力尽きるその日まで苦楽を共にするのです。止むことなき菩薩の慈悲行といえましょう。

 その徳雲尊者の住む場所が、この庭であるというのです。地理的にも高台にあるところから、松尾山を妙峰山に見立て、この山を訪れた人々は皆、徳雲尊者となって、人々のもとに帰っていくのです。
 すべての人々が救われるその日まで、この庭は徳雲尊者の修行道場となるのでありましょう。


《 人間、死んだら何処へいくのですか 》

 「死んだらどうなるか」という命題は私たちにとって一番知りたいことです。しかし、その命題についてあれこれ思いをめぐらすことは、執着の種にもなります。

 基本的には、死んで焼かれて灰になってしまえば、「おおいなるいのち」に還っていくのみ、というのが私たちの宗旨です。たった一度きりの人生なのですから、精進せずにはおられません。

 しかし、やがて骨が土に還り、その土が作物を育て、生物を育て、やがて縁あって新たな命を授かると考えることもできます。

 又、遺族が思いを寄せることにより、遺族の心中に永遠に生き続ける、と考えることも大切な私たちの心のはたらきといえます。

 いずれにせよ、私たちはまだこの世のことについてもすべて知り終えることはできません。ましてやあの世について知ることは時期尚早といえます。

 お釈迦様は、このような、解決不能な形而上学的問題については、黙して語られなかったといいます。私たちは、「今、ここ」を生きています。
死んだ先のことをあれこれ思いめぐらせるのではなく、自分の足もとを見つめて、今、このかけがえのない一瞬一瞬を生きることこそが肝要だとお釈迦様は示されました.

聖福寺 HP より



聖福寺 住職 関守研悟 
プロフィール
1972年、和歌山県 白浜町に生まれる。1991年、智辨学園和歌山高等学校卒業。1995年、早稲田大学法学部を卒業後、神戸の祥福寺専門道場に掛搭。河野太通老大師・木村太邦老大師の鉗鎚を受ける。2004年、花園大学大学院博士後期課程修了。2005年、当山住職就任、現在に至る。























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            ★長沢芦雪ゆかりの襖絵

             臨済宗東福寺派

          ?H1>南昌山 草堂寺 ★ご本尊 阿弥陀如来

御歌 

?H2>圓通殿 ちんざまします 地蔵尊 刻みあげげたる おのおのかたむら 住所 和歌山県西牟婁郡白浜町富田
TEL 0739 45 0004

 江戸時代初期慶安元年(1648年)に再興された臨済宗東福寺虎関派の禅寺で、

境内が世界遺産になっています。現存 する本堂、庫裡は、天明4年(1784年)に 完成し、内廻り、外廻りが出来て、棟札を揚げたのは、天明6年(1786年)9月です。

九条家、一条家(五摂家)の祈願所として明治7年(1874年)まで祈祷料を賜っていました。

当寺には、天明6年絵師長澤蘆雪が円山應挙の代理として来寺し、70点を越える障壁画を描いており、また、應挙の障壁画『雪梅図』、蘆雪の『牛図』『虎図』『群猿図』、若沖の『鸚図』、岸駒の『関羽図』等を所有し、『蘆雪寺』と呼ばれています。これらの作品は現在、県立博物館に保管されています。

     ★白浜町
和歌山県南西部の海岸沿いに位置し、観光と農業を主たる産業としている。特に観光業は、夏の海では小さな熱帯魚と共に泳ぐこともできるなど年中を通じて温暖な気候で知られるほか、南紀白浜温泉(白浜温泉)や、椿温泉(古くから白浜温泉の奥座敷として知られる)など温泉が多くあり(旧日置川町内にもある)、年間を通じての集客を行っている。白良浜などの海水浴場付近を中心にリゾート施設や、企業や各種団体などの別荘・保養所が多数集まっている。
また、世界遺産にも登録された熊野古道の大辺路ルートが2本(富田坂・仏坂)通っており、こちらも観光の対象となっている。

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             ★ 臨済宗妙心寺派

   ?H2>安養山 萬福寺  ★御歌
   ?H1>安養の 山に萬(よろづ)の 福(さいわい)を 大慈大悲と 仰ぐうれしさ



住所 和歌山県西牟婁郡すさみ町すさみ4280
TEL 0739 55 2159
本尊は、阿弥陀如来

周参見の堀池にあり、臨済宗妙心寺派、本尊は阿弥陀如来です。「紀伊続風土記」には、「萬福寺、安養山、禅宗臨済派、京都妙心寺末寺、本堂7間半、5間。僧坊9間、6間、鐘楼、東庵観音谷より、寺内に移すという、村内にあり末寺あり、」と記載されている。
また「周参見村郷土誌」には、寛永14年(1637年)京都、高峰和尚が開基し、享保年間に火災により消失、第八世寛道和尚が、天明元年(1781年)本堂を再建し寛政4年(1792年)長沢芦雪、障壁画16本に画す。と記載されていますが、現在は行方が知れません、東泉庵(後庵)山本家に子犬の絵が、1枚残るのみです。


長沢芦雪が串本の無量寺へ師円山応挙の絵を届けそこで自分も多くの絵を書いて帰路周参見の東泉庵に泊り、萬福寺の十六枚の襖に絵を書いたという記録が萬福寺に残っている。
 時は天明7年(1787年)のことである。
 しかしその襖絵は明治中期以後全く行方が解らなくなっており、わずかに東泉庵(後庵)山本家に子犬の絵が一幅残っているだけであった。

   芦雪の梅月図と虎



熊野古道大辺路(おおへち)街道は、田辺を起点として富田坂(とんだざか)、安居(あご)、仏坂を越して周参見、海岸筋を串本、古座から色川〜本宮へ通じる熊野詣りの最初の幹線で、皇室の熊野御幸道とされ、多くの修験道も修行のために通りました。
 現在では、大辺路街道の大部分は、国道や県道の建設工事により、古道跡の多くは残されていません。
 しかし、その中でも、白浜町富田(とんだ)から日置川町安居(あご)への「富田坂」、安居の渡し場跡からすさみ町周参見への「仏坂」、すさみ町和深川から見老津への「長井坂」は、旧街道の名残りをとどめており、この三つの坂は2004年7月7日に世界遺産に登録されています。
 大辺路街道がいつの時代から開通されていたかは記録もなく不明です。皇室の熊野参詣の最初の記録は、宇多法皇の延喜7年(西暦907年)ですが、それも通行路が大辺路か中辺路か不明であり、たとえ大辺路を通ったとしても海路であったか陸路であったかもまた定かではありません。

「熊野年代記」には、天智天皇が667年に、また天武天皇が683年にそれぞれ大辺路を通って熊野へ行幸したと記録されているそうですが、史実としては認められていないところです。しかしこれらの事柄は、大辺路が古くからあったことを物語っています。

★海中郵便ポストのいきさつ

南紀熊野体験博(平成11年4月から9月まで開催)を契機にすさみ町マリンスポーツフェスティバル実行委員会が設置。2002年にはギネスブックに「世界一深いところにあるポスト」として認定、掲載されました。
 



 

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        ★熊野修験道ゆかりの聖地 熊野本宮大社 奥の院 

       ?H1>玉置神社(奥熊野)    〇神楽歌
 ?H2>熊野城 玉置宮の 弓神楽 弦音須礼波 悪魔退久

住所 奈良県吉野郡十津川村玉置川1番地
TEL 0746 64 0500

玉置神社は、3000年杉の巨樹群に覆われ、霊峰 玉置山の標高1,076mの所にあります。

紀元前37世紀祟神天皇がお立てになりました。『日本書紀』で天地が誕生したときに全部で八柱の神が生まれたと示しています。
国常立尊主神が1番はじめに現れたとしています。日本で祀られている神社は、玉置神社とそして岐阜
の位山、木曽の御嶽山(里宮)、伊勢外宮など極めて重要なところに祀られています。

日本最古の神社が玉置神社にあたります。そして八柱の神の1神である 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
神も玉置神社に祀られています。そして・伊弉諾尊神と夫婦神になられた伊弉册尊(いざなみのみこと)
神もおいでになります。伊弉諾尊・伊弉册尊の二柱神が今の日本の国をお創りになりました。

霊峰玉置山は、世界遺産に認定され、玉置神社の台所・社務所は国宝(重要文化財)になっており由緒ある神社です。

玉置神社
 は神武東征で皇軍が熊野上陸後、ここで兵を休め、その頂上近くに鎮座する総欅(ケヤキ)造の「玉置神社」は紀元前33年(崇神天皇65年)第10代崇神天皇が王城火防鎮護と悪神退散のために創建された古社で、平安時代は大峰修験道の本拠地であり、熊野三山権現の奥の院として栄え、皇族方の多くが参拝された記録が残っています。後に1727年(享保12年)京都聖護院門跡派に属し、七坊十五カ寺が境内に点在し、僧侶も数百人を擁したが、明治維新の神仏分離により、現在の「玉置神社」に改称され、祭神は国常立尊と他3柱です。
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 県天然「神代杉(しんだいすぎ)」

 推定樹齢3000年、幹周り8.4m、樹高20m、直立した主幹はまるで大きな岩石ですが、幹の内部は空洞で、樹皮は殆ど無く地肌を見せ、宿り木が群生して、枝先は天に向かって伸び、その名にふさわしい風格を湛えています。その他「玉置神社」の境内一円には、幹周り8.5m、樹高25mの「夫婦杉」、そして又幹周り10m、樹高38mの「常立(とこたち)杉」や、幹周り8.7m、樹高が40mにも達する「盤余(いわれ)杉」、幹周り7.0m、樹高28mの「浦(うら)杉」など、幹周りが8〜10m、樹高30〜50mに達する巨杉群がごろごろと植わっています。なお、日本特産のスギは、スギ科の常緑針葉高木で、全国各地に自生し、植林も広くなされて来ましたが、古代より建築用材として多く利用された為、全国的に巨樹・老木がほとんど無くなりつつあるのに、「玉置神社」境内には、今でもスギの巨樹が多数あります。
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〇 北海道の新十津川町は1889年(明治22年)8月に十津川村を襲った豪雨を機に村民が集団移住、開拓した町。 十津川村と新十津川町は同じ村(町)章を用いている。人口及び人口密度はいずれも新十津川町の方が上回っている


• 野猿 - 十津川村は紀伊山地の深い山奥に位置し、急峻な峡谷と急流により、古来河川両岸の相互交通が非常に困難であった。 そのため河川の両側に綱を渡し、野猿(やえん)を設置する事で独自の交通事情を形成してきた歴史がある
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十津川村は、和歌山・三重両県に接する奈良県の最南端、紀伊半島のほぼ中央に位 置し、森林と水資源に恵まれた村です。北方領土を除けば日本一広い面積を持つ村として知られている。奈良県内において実質公債費比率が最も低い市町村である。

★ 現在の社務所は旧高牟婁院で、文化元年(1805)の建造、部屋を仕切る60枚の襖は杉の一枚板で、狩野派の橘保春らの筆により華麗な花鳥図が描かれており,国の文化財に指定されています。

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