南紀州新巡礼の旅

神や仏にすがりたい気持ちにさせたのは?

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熊野曼荼羅 番外編

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 三重県鈴鹿市、オールマスターズ           ?H1>水泳大会終わる

  ★大会初日(17日)午後2,30スタートの25M自由形競泳出場

今年は3回目なので雰囲気にば慣れを感じたがやはりどきどきわくわく、我輩2コース5コースには同僚の優勝候補がいる、
ピ、ピ、ピーでスター台へ、よーい、どん、スタートはうまくくいった、水深も気にせず顎を引いて懸命に泳いだ、ゴール寸前タッチ板を見てしまいタッチの失敗は自分でもわかった、

すぐ電光掲示板を見ると4位、でも良いや昨年を上回ったのだから自分を慰めながら観覧席に行くと、

別の同僚が{欲しいことをしたなあ、ゴール寸前まで1位だしこれじゃメダルは確実と思ったのに、もっとタッチを練習しないと} 25Mは接戦だからタッチの差が大きい.

  でもいいや記録は自己ベストだしいつも練習では大きく水を開けられていた同僚に接戦にまでもちこんだのだから。

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        == 大会2日目 ==  ★思わぬエピソート

50M自由形0930時スタート

1組4コースでスタート、昨夜の精進(ノービール)が聞いたのか、実力か?、、、、

ゴール後すぐ電光掲示板を見るとなんと1位ではないか、もう一度確かめようと見るとすぐに消え次ぎの結果を示した。
他組のレースがあるので昨年の6位を上回るのではないかと思いながら観覧席に来ると、なんと岐阜県に嫁いでいる親戚同様の付き合いの娘さんが高校2年生の息子さんと来ていまの私のレースを見たという、”おいちゃんってすごい”の連発

どうして?ここへ ? 昨夜母から電話で聞き2時間かけて来たという、偶然にも会場でわがクラブの事を聞いたのは昨夜同宿ホテルで食事をともにし、いろいろ話合った人で偶然にも娘さんのお母さんと同郷人
もし娘さんがその人に聞かなかったら私の 勇姿?も見られなかったし、私の出場時間もわからなかったのに会場到着が丁度競技開始直前で、よくど偶然に偶然が重なったものです。

観覧席で息子さんと近況を話し合いこれから叔母さんがこの近くにいるのでよって帰りますということでわかれました。
帰ってみると息子さんから早速電話がありコース1位が優勝と勘違い近所の人から祝いの言葉
 ”いやそうじゃない”とすぐに説明できない自分にジレンマを感じている次第。

 ★競技結果は8位  25M、50Mとも自己ベストなのでまた来年を目出して頑張ろうと思っています。
       私の獲得した★メダル(銀メダル2個)の説明
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このメダルはエントリータイムと実際の競技記録が一致の場合は金、銀、銅、となります。
この競技場独特の物です。

わがクラブの成績
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 キャプテン  三種目出場 3つの金(内2個は大会新記録)
同僚一人(25m金50m銀、1500m800m銅
同僚一人200平銀
初出場の女性さん 200平、銀
私  来年までオワズケ、

1500m競泳時サブプールでのショー
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   ★ 藤原秀衝ゆかりの桜 野中の清水 一方杉の大木 とがの木茶屋 

          = 継桜王子(近野神社)=

   〇御歌
 ?H2>いにしへの すめらみかども中辺路を 越えたまひたり のこる真清水

住所 和歌山県田辺市中辺路町野中
TEL 0739 65 0012

                  〇 継桜王子

   野中地区の氏神でもある継桜王子社。南方熊楠の嘆願により伐採を免れた杉の大木が9本残る。
これらは総て同じ方向に枝を伸ばしているため一方杉という。

社殿は石段を上った少し高い所に鎮座するが、石段の左手に王子の石碑が建つ

 接桜、次桜との記載もある。中御門宗忠(なかみかどむねただ)の『中右記』に記載があり、

桧の株に桜が継がれ生えている珍しい現象を、当時すでに接桜樹の名で呼ばれていたらしい。

 藤原秀衡(ひでひら)が熊野参詣の折、乳岩においてきた子を案じ、杖にしていた桜の枝で

「産所の子死すべくはこの桜も枯るべし、神明仏陀の擁護ありてもし命あらば桜も枯れまじ」

といって側の異木にさして行きすぎた。参拝を終えここに至るとその桜の色香は盛りの如くなり、いそいで乳岩の巌へいってみると幼子は孤狼によって守られ、すくすく太っていた。

 夫婦は喜んで奥州へ帰ったという話が伝わる。みちのく中尊寺にもこの桜の挿穂が移植されたという。

ちなみに宗忠は秀衡の没年より78年速くこの桜を見たことになり、時代が合わないが、この話は東北地方に熊野信仰が広まっていったことに関わる挿話として、みちのくの王者秀衡の名がつけられたと考えられる。
近くに奥州藤原秀衡が植えたと伝わる継桜が道路の左側にあり、秀衡桜は場所が変わって三代目となり、今も花を咲かせている。
 この辺りは古道の中でも最も古道らしい雰囲気を残す。標高506m。継桜王子の石段の隣にある「とがのき茶屋」は江戸時代からの旅篭跡。萱葺きの屋根に赤い毛氈の縁側のある風景は、江戸時代にタイムスリップしたようで郷愁をさそう。

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この道端の崖下よりこんこんと湧出する岩清水は、太古の昔から熊野街道を往来する大勢の旅人の疲れを癒し、心の安らぎを与えてきた名水で、1705年(宝永2)5月この地を訪れた、芭蕉門下10哲の1人として有名な「服部嵐雪」もこの岩清水を見て、

    ?H2>すみかねて 道まで出るか 山清水

 と詠んだ名句を残しており、古くから名水として世に知られていたもので、1971年(昭和46)中辺路町文化財として指定され、1985年(昭和60)には「日本名水100選」に選ばれている」
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         ★ 藤原秀衡 ゆかりの地 熊野詣 五体王子

            = 滝尻王子宮 (十郷神社) =
 〇御歌

   == おもひやる かものうはげ いかならむ しもさえわたる 山河の水 ==
住所 和歌山県田辺市中辺路町栗栖川1223
TEL 0739、64、0614

  滝尻王子(たきじりおうじ)は和歌山県田辺市にある神社。九十九王子の一社で、五体王子のひとつに数えられる。
滝尻王子は、熊野の神域への入り口として古くから重んじられてきた。

滝尻王子は、富田川(岩田川)と石船川(いしぶりがわ)の合流する地点に位置し、「滝尻」の名も、2つの急流がぶつかりあって滝のように音高く流れたことに由来すると言う。

古来の参詣道を精確に推定することは困難だが、参詣者が初めて富田川に出会う稲葉根王子から滝尻王子まで、参詣者は何度となく、岩田川を徒渉しなければならず、一種の難所であった。

藤原定家は1201年(建仁元年)の『熊野道之間愚記』の10月13日の条で、この間の道中について、幾度も川を渡り山を越さなければならないと述べると同時に、紅葉が川面に映るさまを見事であると称えている。
滝尻王子に至った参詣者たちは、奉弊を行い、王子の目の前の流れに身を浸して垢離の儀礼を行った。

滝尻王子における垢離について、仁和寺蔵の『熊野縁起』には興味深い記述が見られる。すなわち、
滝尻で水浴する事は、右河は観音を念じて浴す、左河は薬師を念じて沐す。

とあり、右の川(岩田川)は観音菩薩の補陀落浄土から落ちてくる水であり、左の川(石船川)は薬師如来の浄瑠璃浄土から落ちてくる水であると念じて水浴せよ、と滝尻でとる垢離の意義を説いている。

中世熊野詣においては、しばしば里神楽や経供養が行われことが、1174年(承安4年)の藤原経房の参詣記『吉記』や『熊野道之間愚記』に見られる。

また、ときには後鳥羽院の参詣の際の様に歌会が開かれることもあった(『熊野道之間愚記』)

その歌会の参加者が自らの詠んだ歌を書き付けた懐紙を熊野懐紙(くまのかいし)が、30数葉現存し、そのうち11葉が、1200年(正治2年)12月6日の滝尻王子での歌会のものである。熊野懐紙は、当時の歌人に珍重され、都で高値で売買されて、後鳥羽院政の収入にもなったという。

            ★盛衰
しかし、1221年(承久3年)の承久の乱以後、都の皇族・貴紳の熊野参詣が途絶えると、荒廃がすすんだ。
承久の乱からわずか8年後の1229年(寛喜元年)の藤原経光参詣記は、王子が軒並み破壊転倒している様を伝えている。
その中で、滝尻王子は、破壊転倒こそ免れているものの、目に余る荒廃の様相を呈していたと伝えられている。
その後、室町時代頃までには、富田川を何度も渡渉しなければならない難路であることが嫌われて、参詣道が潮見峠越えに移行し、滝尻王子を経由しなくなったため、滝尻王子は近隣の住人のための叢社の地位に戻ったと考えられている。

明治期には、栗栖川村内の10の集落の神社を合祀したことから十郷神社(とごうじんじゃ)と称され、社殿の改築も行われた。
しかし戦後には、各集落が御神体を持ち帰ったために、旧状に復すとともに、滝尻王子宮十郷神社と呼ばれるようになった。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


              〇 乳岩
      奥州平泉の豪族 藤原秀衡まつわる伝説 
藤原秀衡が熊野詣での途中、夫人がここで産気づいて男子を出産しました。神のお告げにより、この岩穴に子供を残して参詣を済まし、戻ってみると子供は、狼の護られ、岩から滴る乳を飲んで成長していたと伝えられています。

熊野曼荼羅 番外編

     

オールマスターズスイミング 大会迫る


三重県、三重県教育会、社団法人日本スイミング協会主催の大会が11月17,18日三重県鈴鹿市で行われます。
私所属する(熊野スイミングクラブ)は毎月1回親睦を兼ね練習を行っていますが、さる8日13,30時より最後の練習を行いました。

会長はじめ他の人は何度も出場しておりメダル獲得の常連者です。いろいろと指導を受け練習終わり頃

タイムを計ってもらい25mで約1秒近く短縮しました、これではメダルは無理だが昨年より成績をあげ

られそうだ(昨年は6位)その後地元のプールで死に物狂いで練習(もう遅い(^−^))。

応援してくれているプールのお友達、飛び込みが禁止されているが特別に許してくれている、プール職員
の方々、それらを思うと憂鬱さを感じるが、そこは ケセラセラ 頑張るのみ

 そうだ私には強い味方がいる 熊野曼荼羅三十三ヵ所の神仏さん どうか私に失敗なく大会を終わらせて、出来ればメダルを、、、、、、それは無理。

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               ★臨済宗妙心寺派

         ?H1>雪峰山 福巌寺(通称一願寺)      御歌 
    〇福巌寺の御詠歌

 ?H2>雪の峰 福の巌と とこしえに 仏の姿 仰ぎ見るかな

〇一願寺蔵尊の御詠歌

 ?H2>ありがたや 一つの願い 叶ふてふ 菩薩のめぐみ あらたなりけり

住所 和歌山県田辺市中辺路町西谷575
TEL 0739 64 1045

(由緒
万治以前より、当字菴尾に福徳菴があり、真言宗の僧、太初守元和尚が菴主をしていました。

真砂には漬入山萬福禅寺がありましたが、大水害のために流失。

寛文二年二月に、再建不能の萬福禅寺と福徳菴が合併し、開山に海蔵寺第五世の桃源長茂大和尚を懇請して、寺名も雪峰山福巖寺と改め、清姫とその一族、並びに檀信徒各家の先祖の菩提を弔うために現在地に建立されました。
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             ?H1>一願寺

清姫の墓近くから北ヘ、西谷川にそって2kmほど行くと福巌寺(一願寺)があります。

 この境内に、「一つの願いを必ず叶えてくれる」という地蔵尊が祀られていることから「一願寺」と呼称されています。

 このお地蔵さんは、文政六年(一八二三)、八十三歳で亡くなった第六世住職、鉄凌道桟和尚をまつったものと言われ、地元では、「一願地蔵」や、「からし地蔵」と呼んでいます。

 自らの臨終を悟った和尚が、死の三日前、村人一同を集めて別れのあいさつをし「わしの死後、地蔵をつくって人通りの多いところへまつってほしい。まつってくれれば、一人に一願は必ず叶えて進ぜよう」と約束。

 「ながながと如来のまねも今日限り」

との辞世の句を残し、本堂で坐死したといいます。
 和尚が好んだと言われる、からしとお酒を供えれば、願い事が一つ必ず叶うといわれ、「からし地蔵」とも呼ばれているようです。
地元だけでなく、遠方からも多くの信仰者を集めています。
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= 安珍清姫物語 = 

真砂荘司藤原左衛門之尉清重と清重が 黒蛇 から助けた「白蛇の化身」の間に誕生した清姫。

清姫が十三才の年、熊野三山へ参拝の途中ここを宿としていた奥州(福島県)白河在萱根の里安兵衛の子安珍十六才、御互いひそかに惹かれ合っていた。

ある夜、安珍は蛇身の清姫の姿を偶然見てしまい、恐れをなした。

それとは知らずに清姫は思いつめた末、遂に胸のうちを語った。突然の申し入れに、なんとかして逃れようと思い「自分は今熊野参拝の途中なので、帰りには必ず奥州へ一緒に連れて帰る。」
とその場逃れの申しわけをして旅立った。

その真意を知らずに 安珍の帰りを指折り待ちわびる清姫。しかしあまりにも安珍の帰りが遅いので、旅人に尋ねると「その僧なら先程通っていかれた。」と聞いて、さては約束を破って別の道を行ったのだとあまりの悔しさに道に伏して泣き叫んだ。

やがて、気を取り直して汐見峠まで後を追い、杉の大木によじ登り(現在の捻木)はるかに望めば、すでに田辺の会津橋を渡り逃げる安珍を見て怒りに燃え狂い「生きてこの世でそえぬなら死して思いをとげん。」と、立ち帰り荘司ヶ渕に身を投げた。

その一念が怨霊となり、道成寺まで蛇身となって後を追い、鐘に隠れた安珍を七巻半して火炎を出し焼死させた。
時、延長六年八月二十三日。
里人達は、この渕を清姫渕と呼び、霊を慰めるため碑を建立し、毎年四月二十三日に供養を続けている。
鐘を七巻半したというのを一部では、奥州からの熊野参拝の日数が七十五日かかったからだと言う説もある。
清姫という女性は、たいへん情熱的な人だったようである。
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