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なんとなく単細胞生物と信仰というわけのわからない組み合わせの話。 人類の歴史上、多くの人々が死を恐れ、それを回避するために様々な方法を駆使してきました。 ある人は不死の妙薬と言って有害な重金属を飲み込み、あるものは思想と哲学を残すことで、自分の思想≒自分自身を後世に残そうとしました。 また現代に残る不死への取り組みの最たるものと言えば医学でしょう。普通に考えて、同族の生き物が同族の生き物の腹を、食べる目的以外で切り裂くなどということは考えられないことです。 生物としてはありえないような常軌を逸した行動をするほどに、人は生を渇望し死にたくないと念じて生きてきたわけです。 他方、生物の存在目的は自身の遺伝子のコピー、言い換えれば子孫を後世に残すことにあります。 自分にはない遺伝情報を持った相手と遺伝子を半分ずつかけ合わせることにより、生き物は自分のコピーの一部を後の世界に残します。 なるべく強い子孫に自分の方割れを託し、自分の一部がさらに後世へと残るように祈るわけです。 このプロセスも、自分自身の情報をいつまでも後世に残すことが目的であるという側面から見れば、不死を願うこと、あるいは永遠を願うことと同じといえるかもしれません。 そのように考えると、人類の最大の目標である不死、不老を持つものは信仰の対象になりえるでしょう。 不死鳥、ファニックスなどはわかりやすい例です。老いれば灰に帰り、新たに生まれ変わる。まさしく不老不死に対する渇望を表した神獣と言えるでしょう。 しかし、現実にはまさしく不死鳥のように、死する間際によみがえる生物がいるのです。これが、大腸菌や酵母に代表される単細胞の生物です。 大腸菌も酵母も、分裂や出芽という方法により無性生殖を行います。無性生殖とは他との交配なしに、自分とそっくり同じ遺伝情報を持ったコピーを作る増殖法です。 仮に遺伝子の持つ情報がその生き物の本体であると仮定すると、元の体が消失し、新しいコピーが2つできるというプロセスは、まさしく不死鳥の若返りと同義であると考えられます。 そうした意味で、不死を求める人間にとって、不死の象徴ともいえる生活サイクルを持つ微生物が信仰の対象となっていないのは極めて不思議なことのように感じられます。 これらが信仰の対象となっていないのは、やはり目で見て観測できないことが大きいと思います。宗教、信仰、思想の基礎が出来上がった時代には、微生物を見ることはできず、当然コピー複製を繰り返して増殖する微生物の営みを観測することはできませんでした。そうした意味で、哲学創始の時代にこれらの生物が見つかっていなかったことは非常に大きな理由となるでしょう。 また、それらが人間に対して位の低い生物であるという思想にも由来するでしょう。 様々な宗教において神の使いなど、信仰の対象となる生物を見てみると、牛、ゾウ、サル、ツルetcなど、ある程度体の大きさがあるものばかりです。 一方で観測できる生物の中で、最も小さいと考えられる昆虫類に関しては、 「一寸の虫にも五分の魂」 などと言われる始末です。この言葉は、裏を返せば虫などの小さな生き物の命は、大きさがあり人間に近い動物に対して、軽んじられていることを表しています。 目に見える虫ですら人間の下の生物という認識なのですから、目に見えない微生物はさらに下の存在であり、人間の信仰の対象になりえることはないと言えるでしょう。 まあ、なんやかんやと語ってきましたが、人が死なないことを求め続ければ、いずれ微生物のように、自分のコピーを作り出すことで、死を回避するという方法をとることになるだろうと思います。 実際問題、人を構成している元素は、炭素や水素、窒素といったありふれた元素が大半なので、体を作る方法さえ生み出すことができれば、材料は簡単に供給することができるのです。 事実、iPS細胞や、ES細胞を利用した、自分の臓器の完璧なコピーを作る方法なども確立されつつありますし、これらはまったくの夢物語というわけではありません。 そうした意味で将来的に人間が死なない時代が来た場合、死のない生き物の先輩として、微生物に焦点が当てられ、信仰の対象となる日が来るかもしれません。 ちなみに私個人としては、不死にも不老にも興味はないんで、普通に生きて、普通に死にたいと思います。コピー作ってまで長生きするとかもう勘弁。本体が死んでから後まで生き恥を重ねようなんて思いもしませんことですよ。 ……私みたいなサバサバした若者って、今の時代結構多い気がするんで、そうした意味では微生物が信仰の対象となる日は、やっぱりこない……かも?
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グダグダした頭ん中。
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物の価値はその物に対する需要と供給の割合により、おおよその部分が決まると言っていい。 希少なものであり、かつそれを求める人が多数いるとするならば、そのものの価値は跳ねあがる。 一方でありふれたものであり、それを求める人数が少なければ、そのものの価値はどんどん下がっていく。供給過多というやつだ。 物の価値と同等の概念が人間に当てはまるとするならば、人間についてもその存在密度が高ければ高いほど、相対的に人の価値は下がると言えるだろう。 人のほとんどいない田舎、あるいは極端な例をあげてしまえば、ジャングルの少数民族。そうしたコミュニティの中における人の価値というのは圧倒的に高い。 何せ一人でもかけてしまえば生活が成り立たないのだ。 稲刈りをする若者一人、狩猟をする男一人、食事を作る母親一人、家で子守りを変わる老婆一人欠けるだけで生活が立ち行かなくなる。 そうした意味で、これらの人間の価値はコミュニティ内において非常に高いのだ。 これに対して現代社会、特に東京のような都会を見てみよう。 この町は言うまでもなく人だらけだ。どこを歩いても人、ひと、ヒト。 これだけ人があふれていれば、相対的に見て人の価値も下がるだろう。 電車の中にはあふれんばかりに人がいる。 田舎ならば一人欠ければ成り立たなくなる生活も、都会ならば変えいくらでもいる。 アルバイト、派遣社員etc…。 つまり、あふれんばかりにいる、相対的に見て価値の低くなっている人的資源を無尽蔵に使うことが許されるのだ。 だから、その人が自殺するほど強引に使っても、摩耗するほどに激しく消費しても、変えの人員は掃いて捨てるほどいるから問題がないのだ。 それならば、仕事を早めるために使いつぶしてしまおうというのが経済主義の根本である。 言ってみれば働く人は商材であり、消費物なのだ。 そういう意味で、現代経済における人は、人ではなく、ただのもの、商品として扱われているに等しいといえるのではないだろうか。 私は経済原理による豊かさを享受している人間なので、こうした経済原理を全否定するつもりはない。 効率を考え、早く、安く、様々なことを回転させるのは誤りだとも思わない。 しかし、経済主義の行きすぎに伴い、人は人でなくなり商材となる。人格などは関係なく人はもののように消費されていく。そうした観点に立ってしまうと、恐ろしさを感じる。 事実、東京という町に行くと気分が悪くなるのだ。 満員電車の中にいる人間、一人一人に意識があり家族があり思想があるなどと考えるだけで気持ちが悪くなる。 車窓から見える建物ひとつひとつに人間の営みがあると想像するだけで気が遠くなる。 まるで、実験動物か何かのようじゃないか。 そんな錯覚すら覚える。 あまりに人があふれるあまりに、人が人として感じられなくなる。 人が人として感じられないのだから、人を物のように、擦り切れるほどに使っても良心が痛まない。 そういう感覚は確かに少なからず存在しているようにも思える。 それでは相対的に低くなった人の価値を高めるにはどうすればいいのか少し考えてみた。 ない頭で考えたその2つの方法が、コミュニティの形成と、自身に付加価値をつけることだ。 まず簡単な方から考えよう。付加価値をつける方だ。 市場経済で考えれば、供給が過多であるから価値が下がるのだ。 それならば他とは一味違う、価値のあるものになればいいというのがこの考えである。 技術がある、体力がある、経験がある、思考力がある。 このどれでもいい。これ以外でもいい。求められるものを持った何かに特化した人間になればいい。変えが効かない人間になればいい。 そうすれば供給過多により人の価値は下がっても、その人の持つ能力がその人の価値になる。 なんでもいい。他にはなかなかない、役に立つものを持つ。 これが一つの考え方。 その次に考えたのがコミュニティを作ること。 東京という大きな単位、町の単位でみた場合、人は明らかに供給過多で価値が低い。どこにでも人がいるのだから当然だ。 しかし、ここでコミュニティという仕切りを設けてみる。 家族、会社、友達etc… こうした区切られたコミュニティの中において、その人の価値と存在の意味は東京全体をみた場合に対して遙かに大きくなる。 東京で人一人が消えようが、東京という街全体にとってはひどく些末なことだが、その人が属するコミュニティには大きな影響が出る。 家族というコミュニティ、友達というコミュニティ、会社というコミュニティそれぞれにおいてその人が欠けた場合のダメージは甚大なのである。 想像してみてほしい。 ニュースで知らない誰かが死んだというニュースと、恋人が失踪したというニュースなら、後者の方がはるかに心理的影響は大きい。 つまり、コミュニティ内で特別な存在となれば、その中においては相対的に見てその人の価値が高いと言えるだろう。 まあ、人の価値だの何だの小難しい話をしてみたい気分だったんだけど、結局まとまらん感じになった。 でも、今の世の中の人の過剰によって、人に関心がなくなったり、個人の価値が低下しているっていうのは事実だと思うんで、こういうことをたまには考えるのもいいのかなあって。 まぁ、結論としては自分の属するコミュニティ、家族や友達を大切にして、なおかつ人に誇れる技術や能力を身につけなさいっていうありがちな結論にしかならないっていうのが、今回の議論の悲しいところなのでした。
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手の指の本数は10本。 だから人間は10進数を採用したのだろう。 指折り数えることができる、それすなわち、数字という概念を視覚化しやすいということ。 そういう意味で人間の体のつくりが概念の形成に与える影響は大きい。 だからこそ奇形で指の本数が片手6本だったり、4本だったりする人が、宗教によっては悪魔のように忌み嫌われるというのも理解できるかもしれない。 指の本数が違うというのは、それだけで10進数という人間の作った概念、哲学に対する反逆になるからだ。 しかし、自分自身が作った概念の枠におさまらないものを「悪」とみなす考え方は、なんというか自分で自分の世界を狭めているように感じるね。 まあ、なんかそんなどーでもいいことを考えた。
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人間を人間たらしめるものは何か。 哲学にありそうな議題ではあるが、たまにそんなことを考える。 尊厳であるとか、知恵であるとか、いろんな考え方があると思う。 そして、人間を人間たらしめている重要な要素の一つが、記憶であり、経験であり、なによりそれを用いた未来の推定だと思う。 人間は未来を案じて生きる動物だ。 確かに動物も、少し先の冬を見据えて脂肪を蓄えたり、あるいは地面に木の実をうずめたりする。 しかし、人間以外の動物は、5年後、10年後の将来を案じることはない。 それゆえ、人は遠い未来の死を恐れて、不老長寿を求めたりする。 動物はそれが近くに迫るまで、死を意識することはないのだろう。 動物は今と、少し先の未来を見て生きている。 人間は、過去と今と見えない遠い未来までみようとしながら生きている。 結局何が言いたいかというと、人間は今も昔も先の心配をしすぎているってこと。 もっと動物的でもいいんじゃないか? 今やりたいことをやること。楽しみたいことを楽しむこと。今を生きることに全力になればいいんじゃないか? 先読みしすぎて胃を痛めるより、そのほうがいいんじゃないか? っていうこと。先を考えすぎなければ、きっと今よりストレスなく生きていけるだろう。 ……んで、就活中の俺にこの内容を当てはめると、今やりたいことは自分の研究を目処がつくまでやりきることなので、ドクター進学が正しい選択になる。 はてさて、長々とえらそうな文章を書いたくせに、結局まだ選択できないのだ。 安定した職(から得られる賃金)と、自身の研究の価値を天秤にかけて、見えない未来を前に、うんうんと唸るのだ。 でも、それでいいのだと思う。 未来を案じて悩むのは人間の証。 だって人間だもの。
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なんとなく変なテンションなまま、昔の恋バナでも書いてみようかなぁなんて思う。 小学校低学年のころ、多分はじめて恋らしい恋をした気がする。 どんな子を好きになったか。 その子の名前は覚えてるけど、どんなやり取りがあったかはイマイチ覚えていない。 でも、はっきりと覚えている記憶が一つある。 彼女は比較的運動もできて勉強もできる万能タイプの子だった。 それに引き換えボクはどんくさくて、よく泣いていて、「泣き虫○○」と友達どころか、親御さんの間でも話になるほどの泣きむしっぷりだった。 はっきり言って真逆のタイプの人間である。 そんなある日。 持久走大会か何かがあって、ボクと彼女がゴール近くで並んだのだ。 運動万能の女の子と、泣き虫のボクの勝負の結果がどうなったのかは覚えていないのだが、後日、彼女が持久走について書いた作文の内容の一文が、 「○○君なんかに負けないぞ。とおもって走りました」 と書いてあった。 そう、なぜかそれだけ強烈に覚えている。 「なんか」って言われたこととか、特に。 気が強い子だったなぁと思う。 そして、その「なんか」にやたらと引っかかって覚えているあたり、きっと持久走の段階ではボクは彼女のことを意識していたんだろうな、なんて思う。 ボクは2年後、その学校を転校することになるのだが、ボクが転校する1年前に、彼女はすでに転校してしまっていたので、今となっては彼女が何処で何をしているのやら、まったくもってわからない。 なんとなくそんな昔のことを思い出したので書いてみた。 彼女は彼女でボクのことをどう思っていたんだろうか? 作文に出てくるぐらいだから、多少は気にしてくれてたのかもしれないなぁ。 いい意味か悪い意味かは知らないけれどw しかし、今の彼女は、遠い昔に好きだったあの子とも、もちろんボクとも、まるっきり似ても似つかないけれど、その時の好きだなと感じた気持ちが、今になってもなくならないというのは不思議な気がしますね。 まぁ、今の気持ちが一番大切なのは間違いないのですがね。
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