北方領土問題解決をにおわすプーチンの真意は何か?(1)軍事的・地政学的対応策を確立して、返還交渉に当れプーチン大統領の真意を見抜け プーチン首相は、北方領土問題について「互いに受け入れ可能な妥協点を探りたい」、また「我々は、大胆に前進しなければならない」と述べ、北方領土問題の最終解決を目指す意向を示した。
そして、「領土問題の解決が、(日本との関係において)本質的なものではなく、二次的なものになるような状況を作らなければならない」と述べ、日本との経済関係の発展を重視する姿勢を示した。
なお、氏は、2000年から2008年の大統領在任中、北方領土問題について、1956年の「日ソ共同宣言」が基本との考えを繰り返し、「2島引き渡しで最終決着」とする方針を示していた。
限られた情報ではあるが、プーチン大統領(5月7日就任予定、以下同じ)の真意は、明らかに「2島返還」である。
我が国にとって、北方領土問題は、今なお領土ならびに主権侵害にかかわる極めて本質的な問題である。
しかし、ロシアにとってはすでに解決済みの問題、2次的な問題であるので、早急にごたごたを解消し、自国にとって優先度の高い、しかし自国だけでは成し遂げられない極東ロシアの経済開発を日本の力(資金と技術)を利用して推進したいとの思惑が見え見えである。
北方領土問題は、歴史を振り返ると、ロシア(ソ連)の不凍港を求めた南下政策と飽くなき領土拡張政策の帰結である。
直接的には、第2次世界大戦の連合国のうち、米英露3国が戦後処理について秘密協定を結んだヤルタ会談の産物であり、またそれに基づく戦後処理の不完全・不徹底によるものである。さらには、戦後の米ソ対立がもたらした冷戦による現状(ヤルタ体制)の固定化が招いた結果であるとも言えよう。
そして、ソ連による北方領土の軍事占領と引き続く不法占拠には、後で述べるように、軍事的また地政学的な意図や要求が最大の動機となっていた事実は明白だ。それが、ロシアがあくまで「2島返還」にこだわる理由である。
ロシアにとって、安全保障は死活的かつ最優先の問題であるので、北方領土の返還については、はなから譲歩する気など毛頭ない。
しかし、「2島返還」であれば、4島占領によって獲得した軍事的・地政学的利益を失わずに維持できるので、部分的な妥協は可能ということなのである。つまり、ロシアの意図は、4島占領当時から、基本的に変わっておらず、終始一貫しているのである。
我が国は、この度のプーチン大統領による北方領土返還への言及に対して、決して安易な期待を抱いてはならない。
我が国が、プーチン大統領の真意を見誤り、ロシアの意図に対する具体的な対応策を欠いて、外交努力や経済支援のみに依存する従来の手法から脱却できなければ、北方4島全部を取り戻すことは不可能とは言えないまでも、極めて困難であると言わざるを得ない。
そして、プーチン大統領の下で北方領土返還交渉が始められたとしても、これまで日ソ・日露間で行った不毛の交渉の歴史を繰り返すことは、火を見るよりも明らかである。
ロシア(ソ連)の南下・拡張政策と日本 ロシアが、ウラル山脈を越え、シベリアを踏破して極東(カムチャツカ半島から千島列島)まで進出したのは18世紀の半ばから後半である。不凍港を求め、また領土拡張のため東進を続け、ものすごい勢いで沿海州まで侵出した。
そして、日本海に面した要衝に、軍事・商業の中心都市であり東方政策の拠点となるウラジオストク(港)を開基した。1860年の北京条約によって沿海州一帯を清国(中国)から獲得したからである。
以来、「東方を征服(支配)せよ」の言葉どおり、隙あらば付け入ろうと機会をうかがってきた。
http://jbpress.ismedia.jp/mwimgs/2/3/198/img_23590957a7df38ee596cbf196e71c7c113117.jpgヴァーシリー・ゴローニンの肖像(ウィキペディアより)
我が国周辺では、江戸中・後期ころから、ロシア船が千島列島そして北海道近海へ出没するようになった。
ロシア人の択捉島上陸(1797年)、ロシア使節の長崎来航と貿易要求、これを幕府が拒否したことに対する樺太・利尻島などへの侵入と幕府船の焼き討ち(1804年)、測量のため千島列島で活動していたロシア艦ディアナ号の国後島での拿捕と艦長ゴローニン中佐らの抑留(ゴローニン事件、1811年)など、日露間では交易を行いつつ、小競り合いや衝突が続いた。
徳川幕府は、蝦夷地への関心と注意を一段と喚起され、大規模な北方調査を開始した。
1798年には、幕臣で探検家でもある近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てた。また、伊能忠敬は東蝦夷地の海岸測量を行い、間宮林蔵は樺太を探検して間宮海峡を発見した。
日本は、米使ペリーの来航(1853年)を機に、開国に踏み切った。そして、1855年(安政元年)2月7日、日露両国は伊豆の下田で日露通好条約(いわゆる下田条約)を締結し、初めて択捉島とウルップ島の中間線を国境とすることを確認した。
国境線以南は日本領土となり、樺太は日露両国民の雑居地とされた。
明治の初期、我が国は、米国の元廈門(アモイ)領事で極東情勢に精通していたリゼンドル(フランス系米国人、退役少将)を外務省顧問に登用した。
彼は、「北は樺太から南は台湾に至る一連の列島を領有して、支那大陸を半月形に包囲し、さらに朝鮮と満州に足場を持つにあらざれば、帝国(日本)の安全を保障し、東亜の時局を制御することはできぬ」と建言した。
この地政学的な安全保障観が、以降、我が国の北方政策および大陸政策を展開する基本となっていった。
我が国は、明治2(1869)年、北海道開拓使を設置するとともに、明治7(1874)年には、ロシアの侵攻に備えた北辺の守りと北海道の開拓を図るため、屯田兵例則を定めて本格的に足場固めを開始した。翌(1875)年には、樺太千島交換条約を締結し、千島列島全島が日本領土に、また樺太全島がロシア領土になった。
以後、日露(ソ)間には、さまざまな問題や紛争が生起し、両国関係に影響と変化を与えてきた。そのうち、主要なものは、日清戦争と三国干渉、日露戦争と樺太南半分の獲得、第1次世界大戦とシベリア出兵、満州事変などである。
これらの細部説明は省略するが、以下、北方領土問題の直接原因となった第2次世界大戦(大東亜戦争)以降の展開について振り返ってみよう。
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