北方領土問題解決をにおわすプーチンの真意は何か?(2)第2次世界大戦(大東亜戦争)とヤルタ会談 ソ連(スターリン首相)は、欧州正面を主戦場としていたが、アジアで新たな戦いが始まって東西2正面作戦を強いられることは何としても避けたかったので、日本の動向には重大な関心と注意を払っていた。
一方、日本は、昭和11(1936)年11月25日、ドイツとの間で、共産「インターナショナル」(いわゆるコミンテルン)による共産主義的破壊に対する防衛協力を目的に「日独防共協定」に調印した。
本協定は、その後、イタリアが参加して「日独伊防共協定」になったが、1939年、「独ソ不可侵条約」が締結されたため、事実上、失効した。しかし、日本とドイツは再び接近し、「日独伊三国軍事同盟」の締結に発展した。
その上で、日本とソ連は、昭和16(1941)年4月、「日ソ中立条約」を締結したのであった。
日本は、昭和16(1941)年12月に真珠湾を攻撃してアメリカとの間で戦端をひらき、大戦はアジア太平洋にまで戦域を拡大した。
下斗米伸夫著『アジア冷戦史』(中公新書)によると、ソ連は、すでにこの時点で、連合国側の勝利を予測して戦後秩序の構想作りに着手している。
同(1941)年、英国のイーデン外相は、ソ連の対日参戦を含む同盟協議のためソ連を訪問した。その際、ソ連は、対日参戦は頑なに拒絶したが、日独がもたらした犠牲への賠償と国境線の問題を取り上げた。
その中で、特に、アジア太平洋において、日本の軍艦が宗谷海峡、クリル(千島)列島、津軽海峡、対馬海峡を封鎖してソ連艦の自由航行を妨げるのは問題であると指摘している。
翌1942年に入って、ソ連は、欧州・アジアなどの戦後体制に関する外交資料を準備する委員会を設置した。そのアジア構想の中で、対日関係については、南サハリン(樺太)を返還させ、ソ連を太平洋から隔てている千島列島を引き渡すべきことを主張している。
ソ連は、1943年10月の米英ソ3国外相によるモスクワ会談、11月末の同首脳によるテヘラン会談などを通じて、米国と対日参戦問題を協議し始めていた。そして、1944年12月半ば、ルーズベルト米国大統領からの参戦要請に対し、スターリン首相は、ポーツマス条約で日本領となった南サハリン(樺太)と千島列島を代償として要求した。
このような過程を経てソ連の対日参戦が決まり、米英ソの3首脳が集まったヤルタ会談で、ソ連の要求が確認されるに至ったのである。
ヤルタ秘密協定におけるソ連の諸要求は、日本が敗北した後に確実に実行されるとの合意の下、ソ連は対日参戦することになった。
ソ連は、1945年4月5日、日ソ中立条約の破棄を通告した。本条約は、翌年4月に期限切れを迎えることになったが、この時期、我が国は、連合国との和平交渉の仲介をソ連に依頼した。
ソ連は、これを逆手に取って、曖昧な態度を取りつつ対日参戦の機会を窺った。そして、8月7日、ソ連極東軍最高司令部は軍事行動を命じた。翌8日、ソ連のモロトフ外相は、戦争状態に入ることを日本政府に通告した。
スターリンの別荘だった大邸宅内に併設された博物館のスターリン等身大蝋人形〔AFPBB News〕
スターリン首相は、主作戦正面である満州方面での作戦が予期以上に進捗したので、朝鮮半島と並んで樺太および千島列島方面の作戦を急がせた。
そして、米国のトルーマン大統領に対して、ソ連軍の占領地域に千島列島全部を含めること、さらに、北海道の釧路と留萌を結ぶ線(いわゆる「スターリン・ライン」)以北の地域を含めることを繰り返し求めた。
その際、北海道占領を求める根拠は、日本のシベリア出兵に対する代償であると主張した。
トルーマン大統領は、ヤルタ協定で取り決めた以上、全千島列島の占領は認めざるを得なかった。しかし、北海道占領は拒否した。
では、なぜ、スターリン首相は、全千島列島の占領に加え、北海道占領を求めたのか。
ソ連が、北海道の東北部を領有すれば、千島列島と相まってオホーツク海を内海化(聖域化)し、他国の侵入や干渉を完全に遮断できる。同時に、宗谷海峡の航行の自由を確保するとともに、他国艦の通峡を阻止できる。
そして、万一、日本によって津軽海峡と対馬海峡が封鎖されたとしても、ウラジオストクの太平洋艦隊は、日本海〜宗谷海峡〜オホーツク海を経て太平洋への自由なアクセスが可能となるからである。
社会主義国となったソ連ではあったが、イデオロギー的要求は隠れ、軍事的・地政学的要求が第一義的に前面に押し出されている。つまり、これが、政権のいかんにかかわらずロシア(ソ連)が推進してきた対外政策・対外行動の基本姿勢であり、歴史が実証するロシアの本質である。
したがって、今日まで未解決になっている北方領土問題については、改めてこの核心的事実に焦点を当て、最大の関心を払い、具体的に軍事的・地政学的対応策を練って、現実的な展開を巻き起こす解決の道筋を作らなければならない。
戦後処理の不完全さと冷戦による現状の固定化 第2次世界大戦は、1941年6月22日のドイツによるソ連への電撃侵攻によって新たな段階に突入した。この時点では、米国はまだ大戦に参戦していなかった。
英国のチャーチル首相は、米国の対日参戦への期待等をもって米国のルーズベルト大統領と大西洋上で会談した。そこで調印されたのが「大西洋憲章」(1941.8.14公表)である。
本憲章は、両国による戦後世界に関する基本原則を述べたものであり、その第1項では領土の拡大を行わないこと、第2項では領土の変更は行わないことを固く定めている。
ソ連は、同年9月24日、「大西洋憲章への参加に関するソ連邦政府宣言」によって、英米が宣言した基本原則に同意することを表明し、大西洋憲章に参加した。
問題は、大西洋憲章に参加したソ連が、ヤルタ会談において領土の拡大変更を求め、英米がこれを容認したことである。
明らかに、大西洋憲章とヤルタ協定との間には、重大な矛盾が存在するが、これが米ソなど欧米流の冷酷なリアリズムであり、戦後処理に厄介な問題を残すことになった。
ソ連は、前述のとおり、日ソ中立条約を一方的に破棄し、条約の有効性を無視して日本に宣戦布告した。日本は、昭和20(1945)年8月14日、米英中ソの共同宣言である「ポツダム宣言」を受諾した。
ソ連は、我が国のポツダム宣言受諾後の8月18日から千島列島へ侵攻し、引き続いて北方4島を占領した。
日本は、昭和27(1952)年、サンフランシスコ講和条約(平和条約)の発効によって主権を回復したが、南樺太および千島列島の領有権を放棄した。
日本政府は、講和会議後の国会で、いったんは放棄した千島列島の範囲に国後島および択捉島が含まれると説明したが、昭和31(1956)年2月、その解釈を変更した。
ソ連は、サンフランシスコ講和条約に調印しなかった。改めて行われた日ソの平和条約締結交渉では、日本の北方4島の全面返還要求とソ連の歯舞群島・色丹島の2島返還論が真っ向から対立し、合意に至らなかった。
そこで、平和条約に代えて、戦争状態の終了、外交関係の回復等を定め、平和条約の締結後、ソ連が歯舞群島および色丹島を日本に引き渡すことに同意するという条文を盛り込んだ日ソ共同宣言に署名した。
結局、日ソ平和条約は締結されることなく今日に至っており、日露間における戦後諸問題の最終的な解決には至っていない。
日本の立場は、当初、混乱したが、北方4島はいまだかつて一度も外国の領土となったことがない我が国固有の領土であるとの絶対的な根拠を下に、あくまで4島の全面返還である。
一方、ロシア(ソ連)は、戦争で勝ち取ったものは渡さないというのが基本的姿勢だ。サンフランシスコ講和条約起草国のうち、アメリカは日本の立場を支持している。しかし、イギリスおよびフランスは、日本の立場に必ずしも好意的ではなく、この問題への関与に消極的である。
カムチャツカ西岸とオホーツク海の衛星写真〔AFPBB News〕
このように、戦後処理は、矛盾に満ち、曖昧さを残したまま一貫性を欠き、いまだに不完全・不徹底である。
戦後間もなくして、東西冷戦が勃発した。冷戦の厳しい対立は、ヨーロッパ正面と極東正面において顕著であった。
特に、オホーツク海は、優れた生残性を持ち、第2撃以降の報復攻撃兵器として対米戦略核戦力の中心的役割を持つソ連のSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)搭載原子力潜水艦(SSBN)の潜伏海域となり、北極のバレンツ海と対極をなす極めて重要な位置づけにあった。
また、当時は、ソ連地上部隊による北海道・北日本への着上陸侵攻、そして宗谷、津軽、対馬の3海峡を打通してなされる日本の海上交通路(シーレーン)に対する攻撃など、ソ連の脅威が現実味を帯びていた。その抑止が、我が国防衛の焦点となり、同時に、日米同盟における共同防衛の最重要課題であった。
北方領土には1個師団、樺太に2個師団、カムチャツカ半島に2個師団そして沿海州に約10個師団(1個海軍歩兵師団、9個師団)、合わせて15個師団に及ぶ大規模な地上戦力がソ連極東軍管区内に配置されていた。北海道・北日本は、3方向から求心的に攻撃を受ける不利な態勢の下、大きな脅威に晒され続けた。
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ヤルタ協定(1945年2月)
1945年2月に署名されたヤルタ協定では、樺太の南部及びこれに隣接するすべての島はソ連に「返還する」こと、及び千島列島はソ連に「引き渡す」ことが書かれています。
ソ連は従来から、北方領土問題についてヤルタ協定を引き合いに出していました。
しかし、ヤルタ協定は、当時の連合国の首脳者の間で戦後の処理方針を述べたに過ぎず、日本はヤルタ協定に参加していないため、この協定に拘束されることはありません。
また、そもそも同協定の内容はカイロ宣言に反しており、また米国政府も1956年9月7日のこの問題に関する同政府の公式見解において、この協定に関する法的効果を否定しています。
2013/1/1(火) 午前 11:09 [ 高砂のPCB汚泥の盛立地浄化 ]
がれき受入反対は反日と思う正月さん
戦後処理には数々の矛盾があり、それが今までの紛争の原因です。
ヤルタは連合国の間で相談されたもので、実際の日本との条約ではありません。
2013/1/3(木) 午後 8:22
北方領土におけるロシア軍
旧ソ連時代の78(昭和53)年以来、ロシアは、わが国固有の領土である北方領土のうち国後島、択捉島と色丹島に地上軍部隊を再配備してきた。
その規模は、1個師団が駐留しており、戦車、装甲車、各種火砲、対空ミサイルなどが配備されている。
10(平成22)年11月のメドヴェージェフ大統領(当時)による元首として初めての国後島訪問後3、ロシアは、「クリル」諸島の安全の保障を目的とした装備の更新に着手している。
11(同23)年2月にセルジュコフ国防相は、国後島および択捉島に師団を残す意向を示すとともに、部隊削減の可能性を示唆したうえで、最新の通信システム、電子戦システム、レーダーにより部隊を強化する意向を明らかにした。
北方領土の部隊が95(同7)年までに3,500人に削減されたことを明らかにした。
わが国固有の領土である北方領土へのロシア軍の駐留は依然として継続しており、早期の北方領土問題の解決が望まれる。
2013/7/15(月) 午前 9:29 [ アジアや世界の歴史や環境を学ぶ ]