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現在、Yahooの意識調査でも「日本の政治教育で重要なことは?」というアンケートをしているそうです。
さて、この意識調査の選択肢ですが、
1.教員の指導力の向上
2.政治的中立性に配慮すること
3.効果的なカリキュラムの策定
4.政治や選挙についての基本的な理解を深めること
5.現実に賛否のある具体的な政治課題を扱うこと
6.家庭や地域などと連携・協力すること
とあります。
不満を申し上げます。
まず、「政治教育」という響きはどうも好きません。確かに政治についての理解を深めるという目的でやるものですから「政治教育」で間違いはないかもしれませんが、なんとなく国家が押し付けるような印象を抱いてしまいます。
ここはやはり、「主権者教育」がふさわしいでしょう。主権者として自発的に・批判的に物事を捉え、考えることが出来るようになることが最大の目的なのですから。(一部の既得権者は「主権者」を嫌がりますが・・・・・・)
次に選択肢。
1・3・6はあくまで運営(文部省・各教員)の方法であって、「教育」の根っこではありませんよね。それに、どれも当たり前のことです。議論が分かれるようなものはありません。
2はもちろん大事なことですが、そもそも「中立」なんて各人によって微妙に違うわけですし、規定の仕様がありません。「おいしい食べ物を食べるように」と云っているようなものです。
唯一まっとうな選択肢と云えるのが5です。具体的な事柄を織り交ぜながらやっていくべきかどうか、これには色々な意見があるでしょう。
しかし、主権者教育(政治教育)において大切なことなど実は考えるまでもなく、明瞭なのです。
それは「国民主権」・「立憲主義」・「基本的人権の尊重」の説明。この三つを正確に理解していることが「主権者」への第一歩だと思います。
別に法学部並みの知識を有せと云っているわけではありません。ごくごく基本的な、でも肝要なところさえ知っていればいいのです。
「国民主権」は読んで字の如く、この国の主権者が他でもない国民一人一人なのだぞ、ということです。
そんな主権者である我々国民が国家に差し出した要求書が憲法です。憲法に書かれている事柄の範囲内では国家が税金をとったり、犯罪者と思われる人を逮捕するなど、統治をすることができます。しかし国家は憲法で認められていないことはできません。憲法は国家(権力)の上位に位置して、その暴走を抑制するのが「立憲主義」の最も重要な役割です。
そんな重要な役目を果たしている憲法ですが、日本国の憲法の中身を読んでいくとその中心にある考え方は「基本的人権の尊重」であることがわかります。その中でも特に重要な部分は憲法13条です。
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の 権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の 尊重を必要とする」
文系だった皆さんは高校の社会科で「信教の自由は○条」、「学問の自由は○条」といった具合に暗記させられた方も多いと思いますが、そのような○○の自由・権利はすべて憲法13条に規定されていることの特別法的な概念です。特別法というのは、総まとめ的な法律(一般法)を補助するもので、特別法と一般法の両方に触れることの場合、特別法が優先されます。公共の福祉というのは、ある人の権利を抑制できるのは、その人の権利が他の誰かの権利を大きく阻害しうる時だけ、とう考え方です。
つまり13条は、
考え得るありとあらゆる人権を、他の誰かの人権を大きく阻害しない限り守りますし、国家は最大に尊重しなければなりません。なぜならば、すべての国民は個人として尊重されなければならないからです。
という条文なのです。
言い換えれば、この13条こそが日本国憲法の神髄と云えるでしょう。
主権者として知っていて当然のことです。
ですが、学生時代に文系だったとしてもそのことを知らない方は結構いらっしゃるのではないかと思います。
それは別にその方が悪いのではなく、13条の大切さを学校は「教えない」からです。
憲法というのは今こうして私たちが自由に語り、普通に暮らしている、その「根拠」です。ただ第○条は〜〜と云った具合に暗記するだけでほとんど意味がありません。その意味を理解することが重要です。むしろ多くの方にとって、肝要な部分の意味さえ理解しているのならば、わざわざ残りを暗記などする必要などないものでしょう。
若者は政治に無関心な者が多い!
お偉方はよくそのようなことを仰りますが、天に唾するとはそういう姿をいうのでしょうね。滑稽です。
日本国憲法の神髄を教えないで何が「無関心な者が多い」ですか。
立憲主義について基本的な理解をしている若者はそう多くはないですよ。それもきちんと教えないからです。国民主権を知らずに「主権者」として行動できますか?
すべての元凶は教育にあります。
「国民主権」・「立憲主義」・「基本的人権の尊重」、この三つの意味をきちんと教えていれば今日のような低投票率と低レベルな議会政治にはならなかったことでしょう。
しかしそれだけでは足りません。
「国民主権」・「立憲主義」・「基本的人権の尊重」の三つは主権者に必要不可欠なものではありますが、それはあくまでも知識。
もうふたつ、
現状を・この社会を批判的に観察し、自分の考えを練り上げていく能力
それと、
その考えをもとに他者と議論を行い、より良い策を練り上げていく能力
このふたつが必要です。
「必要です」とか云ってる本人もまだ会得してはいません。つまり、この二つの能力、とくに後者の能力は非常に高度なものです。
幼い頃から「自分の考え」を練り上げ、議論していくような訓練を積み重ねば、そうそう出来るものではありません。まあ、マスターする必要はありませんが、ある程度以上の能力が主権者として必要となるでしょう。
議論するという事は、討論する事とは異なります。討論は自他の意見を以て優劣を競いますが、議論は「各個の意見に貴賎なし」が大前提となります。どんなに「的外れ」に聞こえる意見でも、よくよく注意して聞けば新たな発見があるものです。そして
、誰かの意見を押し通すのではなく、議論の過程で自己の意見に修正を重ねながら、最終的な妥協点を何とか見出していくのが議論という作業です。
民主主義とは議論主義です。
議論によって物事を決する。めんどくさい仕組みです。でもその煩わしい作業が結果として、少数派の弾圧を抑制したり、無謀な政治を止めたりする原動力となることでしょう。
日本でもきちんとした「議論」が行える日がくることを願っています。
そのためにはまず、主権者教育で「国民主権」・「立憲主義」・「基本的人権の尊重
」の三つに対する理解と、自己の考えを練り上げる能力・議論を通じて自己の意見をより良いものに練り上げていく能力の二つの能力、それを根付かせることが必要でしょう。
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「沖縄戦と基地問題は別の出来事 」 以前、そういう声を何度か見聞きしたことがある。 確かに沖縄戦と現在の基地問題に直接の関係はない。だが、それはあくまでも「今」しか考慮していない暴論だ。 物事には必ず歴史がある。歴史を振り返れば、沖縄戦と基地問題というのは切っても切れない関係にあることがわかる。 そして歴史を紐解けば、沖縄の基地問題が左派が時々云うような「為政者(アメリカ・日本)が人々に押し付けた」というような単純な形式ではなく、 利権とカネが多分に絡んだ「生々しい」問題であることがよくわかる。 それ故に沖縄が日本国領となってから40年以上たった今でも基地問題はその重さ・複雑さを全く失うことなく、在り続ける。 原発問題と相通ずるところがあるように思える。理想論で賄いきれない圧倒的な現実が圧し掛かり、押し潰す。 現在、辺野古の基地拡張で政府と沖縄県はドロドロの争いを続けている。もうすぐ争いの舞台は法廷にうつるだろう。 裁判となれば、一審では建設中止を認めるような判決が出るかもしれないが、 最高裁ではおそらく政府の意向に沿った判決が出るだろう。 翁長知事だって政界に長くいた人間なのだから最終的に勝ち目が薄いことは理解している筈だ。おそらくは時間稼ぎ。最高裁判決が出るころに自民タカ派の政権が後退し、ハト派の政権が出来ていること、問題が大きくなって国民世論が大きなムーブメントを起こすことを期待しているのだろう。 たぶん翁長知事にも優秀な策士が附いているだろうから、私が考えた以上の「あて」があるのだろうが、 いずれにせよ自民党内でタカ派をハト派が抑え込むことはよほど楽観しない限り期待できないという結論になる。政権交代も同様に難しいだろうし、大きな国民運動がおこることなど望むべくもない。 翁長氏が知事に就任してから約一年経つが、その間に野党は一度も積極的に政府と沖縄県の仲介役を務めようとはしなかった。 自民党内でも仲介をするような動きはなく、「政府に丸投げ」である。 辺野古基地拡張は政府が行政の長として権限を行使して推し進めているもので、国会法案審議がなされて決定した事柄ではない。 「辺野古基地反対」で翁長知事が誕生した後も国会は具体的なアクションを起こそうとしない。 憲法95条では「一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない」とある。 熟議の上の住民投票。残された解決策はこれしかない。 まがいなりにも国会は「国権の最高機関」であるはずだ。 その国会が、「国家の重要問題」に全く関与しようとしない。 現状、衆参両院で与党が過半数を握っているから無駄だと野党議員の方々は仰るだろうが、仮に野党議員がそろい踏みで辺野古基地拡張を地方特別法として法文化せよという運動を始めたら、それなりに効果はあるはずだ。 ましてや来年は参院選がある。選挙の重要な争点にもなり得る。 この文章を読んでくださった皆さんは気づいてるとは思うが、私は安倍政権の方針に反対のスタンスをとっている。 それは辺野古問題だけではなく、安保関連法や経済政策などにも大いに不満がある。 しかし安倍政権が辺野古にしても普段の言動にしても、私からしてみれば「傍若無人」なわけだが、彼らがそんな態度で事に臨んでしまうことは致し方ないと思うのである。 国会がこれほどまでに無能で、報道にあまりにも気概がなく、国民が呆れるほどに無関心なこの国では、辺野古で機動隊が暴力的な方法を用いて抗議者を排除しても(機動隊員の方々は忠実に職務を行っているだけである)さほど大きな問題にはならない。 閣僚が現役の国会議員に対して「国賊」と暴言を吐いてもほとんど報道されない、問題にならない。 別にこれは「安倍政権だから」ではない。 そういうことが「許される」国においてはたとえ人道主義を掲げる左派リベラル政権が出てきたとしても、どうように反発する者に対しては傍若無人な仕打ちがなされ、それを社会は容認する。 かつて伊丹万作は、 「国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである」と云った。 はたして日本国民は敗戦から70年間、伊丹万作の云う「自己を改造する努力」をしてきたのだろうか? 私は若者なので若者の視点でしか考えることが出来ないが、今の「若者」を見るとき、「だまされるような脆弱な自分」を真剣に考え、もがこうとする人は少ないように思う。 それは若年層の投票率の低さにも見て取れる。 辺野古の問題は別に沖縄だけの問題ではない。 政府の方針に反対している住民もいれば賛成している住民もいる。ところがその声がなかなか「本土」には届かない。 テレビ局は「中立」やら「公平」やらをぶちあげて、結局たどり着いたのは中身のない報道。そもそも人間が完全なる中立など達成できるはずもない。そのかわりに「伝えない」ことによって中立性を担保しようとしているのだから本末転倒過ぎて失笑も出来ない。 もちろん「中立」というのはテレビ局が勝手に目指しているわけではない。裏にあるのは世論の幻想だ。 政治的な中立・公平がさも良いことであるように思い込んでいるこの霧中の国は、結果として思考停止に陥る。確かに思考停止すれば「中立」であるかもしれないが、それは「端に寄る程度の思考さえしていない」からであって、誇れることではない。 これが「だまされた」ことを悔い、その脆弱性を徹底的に改造しようと努力した国の姿と云えるだろうか? 伊丹万作の言葉は今も重くのしかかる。先日、NHKスペシャルで山崎豊子を特集していた、その中で 「日本と日本人にとって沖縄は何だったかというところに突き当たる。自分たち本土の人間の恥と悔いの問題なんだ」 という言葉があった。 あのとき沖縄を捨て石にしてしまった恥。今もなお沖縄に多くの基地を負担させている恥。そしてそのことと正面から向き合おうとしないこと。 多くの「恥」を犯しながらも、それを「恥」として認識できず(意識的に「恥」と思うことを避けているのかもしれない)、いつまでも傍観者でいようとする「本土」の人間。 それは沖縄だけではない。「あの戦争」で被害者であることを悲しみ、加害者であったことを直視しようとしない。そういう意識が日本国民の根底にあるように思えてしまう。 今年、戦後70年をうけてアジア太平洋戦争を振り返る特番がたくさん放送された。しかし9割がたは「日本」という国の無謀によって国民が傷ついていったという、「日本国民」を被害者として捉えたものだった。 その「日本国民」は例え「だまされていた」といたとしても戦争を支持していた訳であるし、アジアの各地でその地に住まう人々を大量に殺害したことは云うまでもない。 「日本国民」は連合国軍や国家の無謀に傷つけられた被害者であると同時に、各地で侵略を行いながら住民を殺すこともあった加害者でもある。なぜテレビはその本質にふれようとしない? 別に加害者の側面を強調しろと云っているわけではない。 事実として、本質として、それが戦争であることを伝えてほしいと云っているだけだ。 被害の面を重視した歪んだものばかりを放送していくと、日本国民の戦争観はいつの間にか自己の痛みには敏感であっても他者の痛みには鈍感なものになってしまいそうでおそろしい。 そして、「あの戦争」が起こった背景には日本国民の存在ももちろんあるの だという事、国家の無謀を支持してしまったという事、 どちらも日本国民が永代まで恥ずべき・悔やむべきことであろう。 その悔やみがあれば、今日この国で進行しつつある諸問題に対しても国民として強い怒りと恥の意識が湧いてくるはずである。 例えば安全保障関連法案が参院特別委員会で採決された時のあの呆れようもないドタバタ劇。速記が為されていない中での採決。法案への賛否はともかく、あの採決が「正常」とされてしまう国ならば北朝鮮や中国とそう変わりはない。 例えば辺野古での警察隊の暴力的排除。抗議者を「豚」と呼ぶ機動隊員。別に抗議者は拳銃などで武装しているわけではない。警官隊に死傷者が出るようなことをしているわけでもない。圧倒的な実力手段を辺野古で行使する国の姿。同じことを国には永田町でやるだろうか? 参院特別委員会は「中央」の話で、辺野古は「地方」の話である。 「中央」ではまだドタバタ劇で済んでいるようだが、「地方」ではすでに実力が使われている。これは単に「地方」での行いが目につきにくいからで、このまま国民の無関心が増大すれば「中央」でもきっといつの日か実力が使われる日が来るだろう。 辺野古は辺野古だからこそ起こっている問題ではなく、たまたま辺野古だったというだけだと思う。 辺野古問題はいつでもどこでも起こりうる。その時、主権者として恥ずかしくない姿勢を日本国民がとれるかどうか。 その時、国民の「チカラ」が試される。 |
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これは私の物の見方であって、極論かもしれないが、
2003年3月のイラク戦争から、いやもっとさかのぼれば2001年9月11日のアメリカ同時多発テロから、世界はずっと大規模な戦争状態にあると思う。
第二次世界大戦が終わった後、45年あまりにわたって「冷たい戦争」cold warが続ていていた。
21世紀が始まると途端に今度は「熱い戦争」が始まったのである。
アフガン侵攻、イラク戦争、エトセトラ・・・・・・。
それぞれ単一の地域紛争として見ることもできるが、やはり大きな流れの中でみるべきだろう。
そう考えると現在行われている「熱い戦争」は、なにも21世紀に生まれたものではないことがわかる。イスラエルとアラブ諸国の戦争は第二次世界大戦の直後から始まった事象であるし、アルカイダの勢力拡大は1980年代にまでさかのぼる。
いずれも「冷たい戦争」、ひいては第二次世界大戦にそのルーツがある事象だ。第二次世界大戦のルーツと世界恐慌と、さらに第一次世界大戦にあると考えると、第一次世界大戦のルーツは・・・・・・。と云った具合に話は聖書で云うところのアダムとイブ、日本神話で云うところの天地開闢にまで遡ることだろう。気が遠くなるような話である。
そういう具合に種の誕生の瞬間から戦争をしてきたような人類であるが、20世紀半ば以降の技術の急速な進歩によって戦争の意味合いが随分と変わっている。つまり、今の「戦争」はややもすれば種の生存自体を脅かしかねない、人類を滅ぼしかねない存在だ。
戦争をすること自体に生物学的な危機がある。にも拘らず、現在の人類、とくに各国のリーダーや権力者たちの中には戦争を未だにマキャヴェッリが如く感覚を以て政を行い、クラウゼヴィッツが如し論理で戦争を行おうとする者が少なくない。
戦争は既に外交の一手段という枠組みから大きく外れている。人類という種を滅ぼすことも外交の一手段だと云う猛者はいるまい。
であるからに、現代においてしきりに反戦を訴える人がいるのは、人間が内包した生物としての危機感、種の持続という極めて原始的な欲求なのだろう。
左派的イデオロギーだとか云う人もいるが、ならばなぜアメリカとソビエトは核を以て直接衝突しなかったのか。。一旦始まれば、あとは死屍累々、核弾頭が尽きるその時まで野放図に打ちまくっていたに違いないからである。
戦争に生物学的な危険性が生じてきたとなれば、当然、国家にとっても戦争は以前ほど軽はずみにできる存在ではなくなった。
しかしこれはあくまでもそれまで大戦争を何度も繰り返してきた主要国同士の戦争に当てはまることであって、今この時も行われているであろう世界各地の地域紛争は止めどなく大規模化している。
パリで同時多発テロが発生したのと同じころ、レバノンの首都ベイルートで200人以上が死傷する大規模テロが起きた。イラクでは毎日のように自爆テロが起こっている。ISISと連合国の戦闘で中東では毎日血が流れている。ガザでは今でもなお定期的な空爆があり、その都度街は瓦礫の山となる。
癪な云い方かもしれないが、今回のパリのテロはたまたま場所がパリであったから注目されているだけで、週に一回は同じような規模の、或いはもっと大規模なテロが世界のどこかで起きている。
世間知らずな私でさえもそのくらいはわかる。日本という相対的に見るとありえないほど平和な国にいて、戦争状態にある地域に関心はあるものの実感がない、絵に描いたような典型的日本人である私。それでもパリのテロが特別なことではないことぐらいわかる。
だからそんな平和な日本にいて、戦乱のスパイラルから抜け出せないでいる地域の人々に上から目線で平和を訴えるのは何とも欺瞞に思える。
先日、NHKで岡本喜八を扱った番組をやっていた。確か、クローズアップ現代だったような気がする。
最近、岡本喜八の映画に親しみを持つ若者が増えているのだと云う。
若者の代表として云わせてもらうと、実際そのようなことはない。あっても、ほんの一部の動きだろう。
しかし別にNHKはそこでつまらぬ嘘をついていたわけではないと思う。こと「岡本喜八」となると0.01が0.02になったから「増えた」と云っているような感じだが、若者の間ではぼんやりと戦争への危機感というようなものが増しているような気がする。
もちろん、基本的に若者は「戦争を知らない」ので、現実的なものとして危機感を抱くことはないだろうが、時代がそういう方向に進みかけているのではないかという「臭い」或いは「囁き」を一部の人達が感じている。例えば、パリのテロの後、すぐにオランド大統領が「ISISの犯行だ」と断定したこと。相乗りするような形でプーチン大統領がロシア旅客機墜落をISISの犯行であるから報復すると宣言したこと。ここ2・3日、世界はあまりにも都合よく速断を繰り返している。それが真実かはったりかは知る由もないが、なんとなくきな臭いものを感じる。
到底論理的なものではない。岡本喜八を見た若者が抱く感情も同様に、「感じる」ものであって論理ではない。
ビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』でアナが聞いた微かなる音。論理ではない。
映画『ゴジラ』では冒頭にどこからともなくゴジラの足音が聞こえてくる。無論、その段階ではその音の正体が何であるか観客は知らない。ただ、なんとなく不吉な、恐ろしいものが 密やかに、形なく、少しずつ近づいてくることを感じるのだ。
火種は沢山あるし、火薬もごまんとある。
かつて「バルカンはヨーロッパの火薬庫」なんて言葉があったが、今や「火薬庫は世界中どこにでもある」時代だ。一度爆発してしまえば、1914年をはるかにしのぐ勢いで炎は広がるだろう。
岡本喜八を見て若者はゴジラの足音を感じるのか?
私もまた若者で、岡本喜八を見たことはないが、ゴジラの足音は聞こえている。そういう人は多いのではないかと思う。
それはおそらくは空耳で、思い込みなのだろう。
しかし、このまま世界が突き進むのならば、いつかは本当の足音が聞こえてくるはずだ。
今はただ、この足音が空耳であることを願うばかりだ。
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●時代錯誤の悪法
世には悪法が数多ありますが、小生はその一つに放送法をあげたいと思います。
放送法の中には公平・中立の原則というものがあります。
公平とはいったい何なんですかね?
中立とは、一体どこにあるのでしょう?
もちろん、テレビ局が好き勝手にやるようではこまりますが、公平やら中立やら、そんなあやふやなものは「心得」に留めておくべきことであって、法律として記せしことではないでしょう。
ましてや放送事業の許認可権というたいへん具体的な、テレビ局から見てみれば手綱とも云える実行力を有している法律の中に、条文として公平・中立なんて、正気の沙汰ではありませぬ。
放送法ができた当初、テレビの他にあったメディアと云えば新聞、ラジオ、映画等でしょう。いずれも一方通行的なメディア。
しかし今日、インターネットの普及によってそれまでただただ受容していただけの人々が、その気になればその情報の真偽と確かめることもできるようになりました。
さらに、放送法が出来た時よりもテレビのチャンネル数は増え、BS放送や有料放送もその気になれば視聴できる環境にあります。
情報を得る手段は立法当初よりも増加、分散しております。
そんな今日、法律の条文として公平や中立などという規制をかけることは報道の画一化、
さらには我々のメディアリテラシーを育成する上でも重大な障壁となっております。
民主主義の生命線は言論の場の広さ。言論、報道が委縮してしまってはやがてその国は滅びます。
●民主主義の二大要素
先日、神奈川新聞が「お前らは偏っている」という批判に対し、「ええ、偏っています」という記事を書いたといいます。
記事の本意はこうでしょう。
この世には「中立」などという地点はなく、各人がそれぞれが「偏っている」。そのそれぞれの「偏った」考えを主張できることが民主主義にとって大切なこと。
そのとおりでしょう。
中立、そんなものは存在しません。仮にあったとしても、「中立」が正しいとは限りません。
我々日本人はよく各人の思想信条を指して右だの左だのと区別したがるものです。
これほど空虚な言葉はありません。
確かに思想信条を大まかにわけることはできます。しかしその行為になんの意味がある?
重要なのは、「右」だろうが「左」だろうが、各人が自らの考えを主張できること、そして話し合うこと。難しく言えば、言論の場の確保、議論。
民主主義の二大要素です。
なぜ小生が悪法の代表として放送法をあげるのか、
それは放送法が我が国のいびつな「民主主義モドキ」の象徴のような存在であるからです。
●民主主義の条件
残念ながら、日本は民主主義国家ではありません。
制度の面ではかなり整えられています。ですが、本当の民主主義国家になるには国民が「主権者」にならねばなりません。国政選挙の投票率が50%程度、そんな国民が「主権者」なわけはないでしょ。
国民が「主権者」になる大切な条件として、言論の場の確保、議論の二つがあります。さきほど挙げた二つです。つまり、「民主主義の条件」です。
まず条件1、言論の場の確保。
放送法のような前時代的な法律が未だに跋扈する、そんな国に望むべくもありません。
条件2、議論。
今日の国会の状況を見てください。あれが「議論」をしている国の姿ですか? 議論をなめないでもらいたい。最初から結論ありきの話し合いはただの口喧嘩、某テレビ番組のように互いの論の優劣を競うだけのものは討論。
議論をなめないでもらいたい。
議論というのは互いの話をきちんと聞き、自らの論を絶対とせず、妥協を探っていくという極めて高度なテクニックが要求される話し合いです。
結論、わが国は民主主義の条件となる言論の場の確保と議論を二つとも満たせず。
結論、我々日本国民は主権者の条件である言論の場の拡張保持と議論への参画を両方とも満足に行えず。
何も放送法という法律だけが悪いわけではありません。
そんな法律を未だに生かしている社会にそもそも根源的な弱点があるのですよ。
●「民主主義とは、意見が通らなかった少数派が、それでも、『ありがとう』ということのできるシステム」(高橋源一郎著『ぼくらの民主主義なんだぜ』より)
誰だって、聖人ではありませんから、相手の意見を拒絶してしまうことはあります。もちろん小生も。
でも、拒絶してしまっては民主主義は刹那に壊れてしまう、民主主義は案外脆いものだと感じてもいます。
「左」の中には(小生を含め)、安保関連法などの成立劇により「民主主義が死んだ」とか、悲壮感に打ちひしがれている方も多いと存じます。
ですが、民主主義はそもそも生きていたのでしょうか?
仮初の、偶像。日本の民主主義はその程度のものだったのではありませんか? そのまま放っておいたらいつかはこうなる定めだったのでしょう。
日本国民は、人前で政治の話をすることを忌み、右とか左とかの無意味な分類に束縛され、まともに議論が出来ず、国民一人一人が政治をする「政治家」であることを忘却した、そんな「主権者」になっていました。
本当の民主主義は法律一つで吹き飛ぶようなものでありません。国民各々の心の中に自らが主権者であることへの高貴なる責任がありさえすれば、如何なる状況におかれていても保ち続けることのできる、そういう性質のものだと小生は思います。
そのかわりといっては難ですが、心に高貴なる責任を抱き続けることは並大抵のことではありません。
歴史を振り返れば、これまで人類は様々な政治方法を経験してきました。そんな中、民主主義はこれまでの方法とはその難易度において次元が違う、小生はそう思います。はっきり申し上げますと、数名の有能なる者が政治を動かしたほうが楽です。片や民主主義とは、1億を超える人々が議論すること。衆愚に陥らないで、各人が主権者としての条件・高貴なる責任を抱き続けること。
それでも小生は日本で民主主義を実現させたいと考えております。
今のところ、民主主義は最高の政治方法だと思うからです。‘数名の有能なる者‘が完璧な、いわば神のような人格を有し、いつでも最善の決定をするような存在であるのならば、小難しい民主主義さんには退場していただくことといたしましょう。ですが、そのようなエリートが歴史上存在した例はありません。だったら、エリートor庶民・多数派or少数派関係なく参加できるグラウンドを設けたほうが、より「誰もが納得できる」方向を実現できるのではいだろうか、そう思うわけです。
高橋源一郎さんの新書『ぼくらの民主主義なんだぜ』に次の記述があります。
「民主主義とは、意見が通らなかった少数派が、それでも、『ありがとう』ということのできるシステム」
こんな凄い言葉を我々に投げかける本がやっとこの国に現れました。
小生の民主主義を求める思考の旅はまだ始まったばかりです。
日本が本当の民主主義を手にする旅ももた、始まったばかりなのでしょう。
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●時代錯誤の悪法
世には悪法が数多ありますが、小生はその一つに放送法をあげたいと思います。
放送法の中には公平・中立の原則というものがあります。
公平とはいったい何なんですかね?
中立とは、一体どこにあるのでしょう?
もちろん、テレビ局が好き勝手にやるようではこまりますが、公平やら中立やら、そんなあやふやなものは「心得」に留めておくべきことであって、法律として記せしことではないでしょう。
ましてや放送事業の許認可権というたいへん具体的な、テレビ局から見てみれば手綱とも云える実行力を有している法律の中に、条文として公平・中立なんて、正気の沙汰ではありませぬ。
放送法ができた当初、テレビの他にあったメディアと云えば新聞、ラジオ、映画等でしょう。いずれも一方通行的なメディア。
しかし今日、インターネットの普及によってそれまでただただ受容していただけの人々が、その気になればその情報の真偽と確かめることもできるようになりました。
さらに、放送法が出来た時よりもテレビのチャンネル数は増え、BS放送や有料放送もその気になれば視聴できる環境にあります。
情報を得る手段は立法当初よりも増加、分散しております。
そんな今日、法律の条文として公平や中立などという規制をかけることは報道の画一化、
さらには我々のメディアリテラシーを育成する上でも重大な障壁となっております。
民主主義の生命線は言論の場の広さ。言論、報道が委縮してしまってはやがてその国は滅びます。
●民主主義の二大要素
先日、神奈川新聞が「お前らは偏っている」という批判に対し、「ええ、偏っています」という記事を書いたといいます。
記事の本意はこうでしょう。
この世には「中立」などという地点はなく、各人がそれぞれが「偏っている」。そのそれぞれの「偏った」考えを主張できることが民主主義にとって大切なこと。
そのとおりでしょう。
中立、そんなものは存在しません。仮にあったとしても、「中立」が正しいとは限りません。
我々日本人はよく各人の思想信条を指して右だの左だのと区別したがるものです。
これほど空虚な言葉はありません。
確かに思想信条を大まかにわけることはできます。しかしその行為になんの意味がある?
重要なのは、「右」だろうが「左」だろうが、各人が自らの考えを主張できること、そして話し合うこと。難しく言えば、言論の場の確保、議論。
民主主義の二大要素です。
なぜ小生が悪法の代表として放送法をあげるのか、
それは放送法が我が国のいびつな「民主主義モドキ」の象徴のような存在であるからです。
●民主主義の条件
残念ながら、日本は民主主義国家ではありません。
制度の面ではかなり整えられています。ですが、本当の民主主義国家になるには国民が「主権者」にならねばなりません。国政選挙の投票率が50%程度、そんな国民が「主権者」なわけはないでしょ。
国民が「主権者」になる大切な条件として、言論の場の確保、議論の二つがあります。さきほど挙げた二つです。つまり、「民主主義の条件」です。
まず条件1、言論の場の確保。
放送法のような前時代的な法律が未だに跋扈する、そんな国に望むべくもありません。
条件2、議論。
今日の国会の状況を見てください。あれが「議論」をしている国の姿ですか? 議論をなめないでもらいたい。最初から結論ありきの話し合いはただの口喧嘩、某テレビ番組のように互いの論の優劣を競うだけのものは討論。
議論をなめないでもらいたい。
議論というのは互いの話をきちんと聞き、自らの論を絶対とせず、妥協を探っていくという極めて高度なテクニックが要求される話し合いです。
結論、わが国は民主主義の条件となる言論の場の確保と議論を二つとも満たせず。
結論、我々日本国民は主権者の条件である言論の場の拡張保持と議論への参画を両方とも満足に行えず。
何も放送法という法律だけが悪いわけではありません。
そんな法律を未だに生かしている社会にそもそも根源的な弱点があるのですよ。
●「民主主義とは、意見が通らなかった少数派が、それでも、『ありがとう』ということのできるシステム」(高橋源一郎著『ぼくらの民主主義なんだぜ』より)
誰だって、聖人ではありませんから、相手の意見を拒絶してしまうことはあります。もちろん小生も。
でも、拒絶してしまっては民主主義は刹那に壊れてしまう、民主主義は案外脆いものだと感じてもいます。
「左」の中には(小生を含め)、安保関連法などの成立劇により「民主主義が死んだ」とか、悲壮感に打ちひしがれている方も多いと存じます。
ですが、民主主義はそもそも生きていたのでしょうか?
仮初の、偶像。日本の民主主義はその程度のものだったのではありませんか? そのまま放っておいたらいつかはこうなる定めだったのでしょう。
日本国民は、人前で政治の話をすることを忌み、右とか左とかの無意味な分類に束縛され、まともに議論が出来ず、国民一人一人が政治をする「政治家」であることを忘却した、そんな「主権者」になっていました。
本当の民主主義は法律一つで吹き飛ぶようなものでありません。国民各々の心の中に自らが主権者であることへの高貴なる責任がありさえすれば、如何なる状況におかれていても保ち続けることのできる、そういう性質のものだと小生は思います。
そのかわりといっては難ですが、心に高貴なる責任を抱き続けることは並大抵のことではありません。
歴史を振り返れば、これまで人類は様々な政治方法を経験してきました。そんな中、民主主義はこれまでの方法とはその難易度において次元が違う、小生はそう思います。はっきり申し上げますと、数名の有能なる者が政治を動かしたほうが楽です。片や民主主義とは、1億を超える人々が議論すること。衆愚に陥らないで、各人が主権者としての条件・高貴なる責任を抱き続けること。
それでも小生は日本で民主主義を実現させたいと考えております。
今のところ、民主主義は最高の政治方法だと思うからです。‘数名の有能なる者‘が完璧な、いわば神のような人格を有し、いつでも最善の決定をするような存在であるのならば、小難しい民主主義さんには退場していただくことといたしましょう。ですが、そのようなエリートが歴史上存在した例はありません。だったら、エリートor庶民・多数派or少数派関係なく参加できるグラウンドを設けたほうが、より「誰もが納得できる」方向を実現できるのではいだろうか、そう思うわけです。
高橋源一郎さんの新書『ぼくらの民主主義なんだぜ』に次の記述があります。
「民主主義とは、意見が通らなかった少数派が、それでも、『ありがとう』ということのできるシステム」
こんな凄い言葉を我々に投げかける本がやっとこの国に現れました。
小生の民主主義を求める思考の旅はまだ始まったばかりです。
日本が本当の民主主義を手にする旅ももた、始まったばかりなのでしょう。
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