先週「ブレードランナー2049」を観てきました。圧倒的な映像美に、長尺にもかかわらず「もっと観ていたい……」と、エンディングがくるのが惜しかったです。映画館を出た後も、頭の中に静寂さがしばらくの間、残ってました。
帰りに本屋さんで「ブレードランナー究極読本」を購入。そして帰宅してから「ブレードランナー(ディレクターズカット版)」を久々に鑑賞と、その日の午後はブレラン漬けでした。午前中の草刈りで疲れた体が癒される……
新旧2作品を観て感じたことなどを少々……(若干ネタばれ有り)
旧ブレランは公開当時、全くヒットしなかったそうです。斬新すぎる映像美と、SFにハードボイルド(というかノワール)要素を加味したストーリーは、時代に先駆け過ぎたようです(とはいえ、サイバーパンク小説などはこの時代に生まれているんですが)。
そんな旧ブレランですが、ビデオやレーザーディスクの普及によってファン層が広がり、カルト的な人気を得ていきます。確かに観直すたびに新たな発見がある(要するに情報量が多い)映画です。
熱狂的なファンを生んだ背景には、時代を先駆け過ぎた映像の美しさはもちろんですが、脚本や編集の甘さが怪我の功名的な良い効果をもたらしているような気がします。
シャーロックホームズではないですが、ある程度ストーリーにツッコミどころがあった方が、ファンはあれこれ想像して楽しめるもんです。
ところで、ファンの中で熱い論争になっているのが「デッカード(ハリソン・フォード)」は人間なのか、レプリカントなのか?」ではないでしょうか。
劇場公開版だのディレクターズカット版だのファイナルカット版とか、各バージョンによっていろいろ解釈の余地があるようです。
「デッカード=レプリカント」というアイデアは、監督のリドリー・スコットさんが推していたようです(そのために思わせぶりなシーンを幾つも撮っていました)。
ハリソン・フォードは「その設定だと観客が主人公に感情移入できなくなる」という理由で、強く反対していたようです。なんか映画中のVK検査みたいな話ですが。
私個人の考えは「デッカード=人間」です。まあ異論もあるでしょうが。
原作の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を読むと、主人公のデッカードは人間であることがわかります。映画ではバツイチの設定ですが、原作は既婚者です。ただし結婚生活はマンネリを通り過ぎて破綻寸前ですが。
原作もレプリカント(アンドロイド)から「あなたは自分がアンドロイドじゃないと言い切れるの?」と迫られるシーンが出てきます。主人公も一瞬言い返せません。ただし人間しか使えない感情共有装置(マーサー教という宗教の重要なアイテム)を使ってるんで、やっぱり人間です。
「離婚歴あり。かつて凄腕のブレードランナーだったが、現在は無職で、もっか求職中」という記憶を植えつけられたレプリカントなんじゃないかという説もあるようですが、どうなんでしょうかね。それにしてはそんなに凄い能力があるようでもないし(射撃の腕前は凄いですが)、30年後に生きているってことは年齢制限(4年の寿命)が無いんでしょうが、レイチェルのように大事にされているわけじゃないようだし。
新ブレランではデッカードが「すべては仕組まれていたんだ」と言っていましたが、本当なんでしょうかね? 旧ブレランでは最終的にレイチェルとくっつきましたが、話の途中で何度も死にかけていて、下手をすると殉職しかねない状況だったハズですが。
そう考えていくと、旧ブレラン公開から時が経って「偉大な作品」として扱うしかなくなったために、それに見合う世界観が必要になったので、「ブレードランナー2049」はあんなに重厚な作品になってしまったのでは?。まあ、かえって一本の映画として申し分のない出来になってますが。
……なんて与太話ができるのもブレランの世界がとても魅力的だからですね。もう一回観に行きたい……