ちけん坊のブログ

日頃の仏事での出来事や感じた事などを綴っています。写真は花や虫を中心に自然の風景を掲載しています。

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私の護摩の遍歴

私は僧侶になったのはいいが、長く生活の苦しい時期があった。まだ先代の父親が住職をしていたのであるが、ボチボチ後を継いでやらないといけないと思ってサラリーマンを辞め僧侶になったものだ。しかしながら、父親は年老いて病気で入院したのもつかの間で、再び復活してなかなか住職を譲ってもらえずにいた。

そんな中で護摩に活路を見出そうとしたのであるが、今から思えばそれも決して成功したとは言えない。都会の知っている信者さん宅を回って何軒か線香護摩を修法させてもらったが、材料費や交通費を差し引くと何をしているのかわからない日々が続いた。田舎の知り合いには、ふろしき護摩を何度か修法したことがある。

線香護摩に比べて材料費か安いので試してみたが、煙がすごいので焚ける家は限られるうえ、修法前の準備と終わった後のかたずけが大変であった。寺では柴燈護摩を三回焚いたが、一人では焚けないので手伝いの役僧さんにお礼をすると赤字である。勿論準備も大変で結局行きつく先は、壇護摩ということになった。

壇護摩は先代も毎月焚いていたが、私が代わって焚かせて欲しいというとこれはすんなり受け入れてくれた。当時、七十歳になったばかりであったが、体力的にきつかったのだろう。月例の護摩では、添え護摩木が多すぎて祈念が行き届かないもどかしさがあった。添え護摩と切り離して、個々の祈願をする護摩に辿り着いたのが現在の専願護摩だ。

一般の方に気軽に護摩を焚いて欲しいと始めたが、当初は添え護摩木を献納する護摩と勘違いされたものだ。本山や大寺院で一本三百円から千円ぐらいまでの安価で焚けるからだ。私の所も月例護摩は同じであるが、専願護摩となると、施主さんと修法者の一対一の護摩で所用時間も一時間かかる。修法で使う支具代や護摩木にも費用がかかるので数千円ではできない。

かといって高額になれば焚いてもらえないので、「お気持ちで」ということにしていたが、わからない方も多く布施の目安を水子供養並みにして現在に至っている。少しでも若い方に興味を持って頂きたいからだ。「真言行者は護摩を焚くべし」と言われてきたが、私も還暦を過ぎていつまで焚けるか新たな挑戦が始まる・・・(^▽^)/

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私たちは何の為に働くのだろう。それは、少しでも多くのお金を得て良い暮らしをしたいからではないだろうか。人によって多少の違いはあるが、生まれてから二十五才ぐらいまでは学修期である。高卒で働き出しても数年は様々な知識を吸収しなければならないからだ。そしてその学修期を過ぎると、人生の大半を労働に費やすことになる。

この世はお金で何とかなると言っても過言ではない。地位や名誉もお金に連動しているし、お金があればたくさんの財産を築けて立派な家にも住めるだろう。只残念なことに、お金や財産がいくらあってもあの世へは持って行けないのだ。持って行けるのは、人生の中で培った徳の心だけである。

その想いは臨終間際に残心となってこの世に留まり、その一部はあの世に持ち越される。だからこそ、この世で徳を積む必要があるのだ。地位や名誉や財産をたくさん得た人は、それらを困っている人や善意の為に使うことで徳を得るのである。それがあの世にもって行ける唯一のものだ。

故人に祈りを捧げ読経する時、必ず最後に「回向文」を言う。「願わくは、この功徳をもって・・・」と唱えるのは、この世だけでなくあの世にもこの功徳が及び仏道を成就せんことを願うものである。故人がこの世に残した功徳が大きければ大きいほど成仏は早く、良い輪廻が起きるのだろう。

◆誤解しないで欲しいが、貧しくてお金のない人は徳を積めないということではない。無財の施しができるし立派に徳を積むことができるということを申し述べておきたい。

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ブッディストネーム

ブッディストネームというと何だろうと思う方もいるに違いない。キリスト教のクリスチャンネームに対しての呼び名で、いわゆる生前戒名のことである。宗派や寺によってもまちまちであるが、仏教徒で生前戒名をもらっている多くの人は連れ合いが亡くなってからか、高齢になられてからだ。

根本的な信仰心の問題だけでなく、日本仏教の成立ちとその変遷にも問題があるのだろう。宗派だけでなく地方や寺や住職によっても戒名に対する考え方がかなり違う。また、高額な戒名料の規定を設けている寺もあり、そうした様々な要因が障害となっているようだ。

キリスト教やイスラム教などは、まだ子供の頃から洗礼を受けて新しいネームを頂くのが当たり前であるが、それだけ宗教が日常生活の中に溶け込み、神々への礼拝が習慣となっているからだろう。仏教徒の大半は、死んでからお葬式の時に戒名を授かるが、その中にはお葬式の中で受戒や灌頂の儀式を行って戒名を授けていることすら知らない人もいる。危機感を持ってもっと布教活動をしないと法灯は消えゆくだろう。

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位牌の処分

一昨日、携帯電話に聞き慣れない方から電話がかかってきた。私自身は全く記憶になかったのであるが、二十数年前にホームページからのメール相談でアドバイスをしていたようだ。随分と昔の事であるが、電話で施主さんは私に対して妙に親しそうに感謝の気持ちを伝えて来られる。

その電話の内容を要約すると、本人も妻も年老いてせっかく作った先祖代々の位牌のお祀りが難しくなってきたので、その位牌を処分したいというものだった。仏壇は本家にあるので、位牌だけを作って祀っておられたようだ。性根抜きをして処分するのは簡単であるが、まだ本人達は生きておられる。分家としてのお祀りはこれからなので、それまで私が預かる事にした。

昨日、早速に息子夫婦の運転で先祖代々の位牌を持って来寺されたが、奥さんの方は杖をついて歩くのが大変な様子である。息子夫婦は四十代ぐらいに見えたが、別々に住んでおられるようだ。しかし、どちらかでも親が亡くなれば仏段も必要になるし、位牌も当然いるだろう。その旨のお話を少しさせて頂いたが、息子夫婦は全く仏事に関心がないようにみえる。

息子夫婦に迷惑をかけたくないからだろうか、老夫婦は、「私らが死んだらお葬式はいらんからと言うてますんや・・・」と私に話された。息子夫婦は黙って聞いていたが、本来なら位牌は息子夫婦が引き継ぐべきものである。おそらくその気もないので、こうして寺へ持って来られたのだろう。その内に性根抜きをして処分する時が来るかも知れないが、せっかくのご縁なので暫くは預かるしかない・・・

田舎でも昨年ぐらいから仏壇屋さんに頼まれて、仏壇や位牌の処分の依頼が増えている。お墓や仏壇の継承が難しくなってきているのだ。しかし若い世代の仏教離れが進んでいるからというわけでもない。私の寺の水子霊園には、土日になると若いカップルが参って来られるし、御朱印で来られる若い方も多い。若い世代に応じた仏事のスタイルを模索しながら布教していかなければいけないのだろう。

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七回忌までは単独で

三回忌を大祥忌というのに対して、七回忌を別名で休広忌と呼んでいる。字の如く、御霊が広く休らうからだろう。故人の法事もこの七回忌までは親族が集まって供養することが多かった。故人が亡くなって満六年という年数であるが、遺族の心の中で故人への想いが薄くなり、少しずつ離れて行く故人を追いかけて行くような時である。

現実的に私の寺でも、七回忌すら単独でされない檀家様が近年出てき始めた。すでに故人への想いは離れてしまっているのかも知れない。ある詩人が、「少しづつ離るるごとく、少しづつ追ひゆくごとく、ありし七年」と云われているが、当に少しづつ変化していく気持ちに想いを致す節目の時であるからこそ、この七回忌までは遺族の務めではないだろうか。

年数が経つというのは、それだけその時の事が私たちの記憶から薄くなり、故人も遠くなって行く。仏教では、三という数字は吉祥の数で七は物事が成就する数と云われている。三と七のつく数が年忌法要になっているのはその要因が強いようだ。先代の時は、七回忌までは単独で法事をするという暗黙の掟があったが、私の代になってその掟も崩壊してきている。住職としての何か無力さを感じるが、これも時代の流れなのだろうか・・・(T_T)

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