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学生時代に、大学構内でい1つの掲示が目に留まった。
「吉本隆明をめぐるシンポジウム」
パネリストに加藤典洋・竹田青嗣・大澤真幸。
司会は橋爪大三郎という豪華(?)な顔ぶれだった。
http://www.valdes.titech.ac.jp/sympo/s1.htm
それ以来、ずっと読もう読もうと思いながら、
先延ばしにしていたのだけど、
先日、近所の図書館でようやく読む機会を得た。
いくつかの講演会の内容を活字化したもので、
とても読みやすい。
吉本自身は「浄土」の存在を信じていない。
現代は末法の末法にあると言う。
そんな吉本が、
親鸞の思想を描こうと、一つ一つ言葉を重ねていく。
いくつかの講演を通じて、、
吉本がいったい何にこだわっているのか、
吉本自身のあとがきによれば、
ひと口にいえば〈信〉ということをめぐる意識と無意識のあり方、
人間的な理解と行為と、人間の輪郭より大きい理解と行為の規模を比類すること、
また、
人間の生とそれより大きい死のあり方などについて、
親鸞がたどりついたところを、的確に照らし出そうとして、
何遍もくり返し言葉を費やしてきた気がしている。
そのつど最後のところで的確さをそれて落胆してはまた、
今度こそと試みを仕なおすことになっていった。
読まれるひとが、すこしずつ視覚をずらしては同じところ
(いいかえれば親鸞の考え方の集約点)
に近づこうとした試みのあとを汲みとってくれたら、
もって瞑すべきだと考えている。
吉本はあくまでも、
宗教としてではなく、思想として、
親鸞に近づこうとする。
「なんとなくわかるでしょ?」
なんてことは言わない。
踏みとどまって、何もごまかさずに、
すこしずつ、すこしずつ、
自分の言葉を一つ一つ選びながら語っていく。
親鸞は、理論必然的に極楽浄土があると言う。
誰もが、念仏を唱えた瞬間に、
もう、浄土のとなりにいる。
不思議な話で、
キリスト教でも「神の国はそこある」
と言っていたような記憶がある。
末法の末法に生きる私にとっては、
浄土があると言われても、
だから何?
って気分になってしまう。
悪人でも念仏を唱えれば浄土にいける。
生きるのがつらくても、浄土がある。
そんなことをいわれても、何も救われない。
どんな生き方でも、
生きたからにはそれで良い。
「浄土」があろうと無かろうと、
ひとはみんなすでに許されている気がする。
でも、誰から許されているのか?
神様が許してくれても、
自分自身が許せないのだからどうにもならない。
隣人に神様を投影しても解決されるものではない気がする。
そうはいっても、
最後の最後は説明がつかなくて、
神様としかいえない。
結局、私も救いを信じているのかもしれない。
意味の無い世界を心に描くことはできないのだから。
なんだかんだいっても、日々生き続けているのだから。
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この前、手にとった雑誌に「空が美しいわけじゃなくて、今ここが美しいのだ」と書いてあって、いつも空ばかり崇拝するように美しいと思っている私は、何か肝心なことを見ないようにしているように思いました。親鸞の教えについて、一冊の本も読んでいないので、いつか読んでみたいです。真逆の思想(宗教)の本も合わせて読んでみたい。
2006/10/10(火) 午後 9:05 [ ama**risu*ire ]
◎スミレ様◎雑誌の一言から、そこまで思いが致るというのは、スミレさんらしいステキなエピソードですね♪私ももうしばらく親鸞の世界を眺めてから、他の世界をみたいです☆
2006/10/10(火) 午後 11:09 [ 泣き虫姫 ]
間違っていたらすいません。スミレさんの「・・・今ここが美しいのだ」は、言い替えれば、「空を見て美しいと思える心が美しい」で、誰に教わった訳でもないのに、何故か涙が出るくらい美しいと思える気持ち、これは無意識の(信)だと思うのです。反対に、1+1=2を絶対正解だと思える理性、これは意識の(信)じゃないでしょうか。全くトンチンカンなことを言っているかもしれません。でも私の中の、空が美しく、子猫が可愛く、子供が愛おしく思える感情は、神(世の中で言う)の存在を否定出来ないのです。
2006/10/11(水) 午前 2:44 [ touchup1954 ]
↑スミレさんの言葉は、いつも何か心を揺さぶってくれます。スミレ様。お時間あったら、コメントお願いします♪
2006/10/11(水) 午後 0:32 [ 泣き虫姫 ]