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北緯37度付近の中世城郭
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パンプキン爆弾

昨年、ぼっちゃんかぼちゃを1株植えたら2つ実がなり美味かった。
この種類、小さくて扱いやすく、美味いので今年は種1袋を買って育ててみた。

6株ほど植え込み、発芽して少し育ったら、例のごとく、コンポストの生ごみ発酵肥料を大量散布して育てたら、できるわ、できるわ、合計60個ほど。
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小さいと言っても直径10㎝ほどあるので予想より大きい。
硬い皮で覆われているので保存性も良くありがたい。

でも切るのが大変、我が家ではノコギリで切断する。
採ってから半月ほど熟成させて食べる。

ポテトサラダのじゃがいもをかぼちゃに代えて・・。
甘煮。パンプキンスープ、てんぷら・・・。
でも、かぼちゃってそんなに食べれない。

結局、あげまくることになる。
家に来る人、職場で。
まだ、処理できません。
どなたか欲しい方取りに来ていただければ幸いですわ。

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102日から1118日に茨城県常陸太田市の国指定文化財「梅津会館」こと常陸太田市郷土資料館で常陸太田市教育委員会と常陸佐竹研究会の共催で企画展「小野崎一族と薩都神社」が開催されます。

小野崎氏は佐竹氏重臣ですが、家臣団の中では最大の実力を持っていたと言われます。山尾小野崎家、石神小野崎家、額田小野崎家3家があり、いずれも万石級の領地を有し、石神城や額田城などの巨大城郭を居城にしていました。
額田城の巨大さからその実力は察することができると思います。
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特に額田小野崎氏は、小野崎3家の中で特に独立志向が強かったと言われます。
戦国末期、伊達政宗から届いた佐竹氏からの離反を誘う「額田密書」あるいは「伊達密書」で有名です。そのため、戦国末期に佐竹氏に滅ぼされます。

小野崎氏は佐竹一族とは関係なく、藤原秀郷の子孫とされます。
佐竹氏が常陸に根を下ろす前に常陸北部を領していた一族です。
結城氏、小山氏、佐野氏、江戸氏と同族ということになりますが、管理人は本当か?と思っています。
小野崎氏とは、金砂大祭礼等で知られる古代氏族の末裔だったのではないかと思います。

ある部族が入ってくれば、在地の人達と摩擦、軋轢が生じ、それが伝承、伝説、資料に何等かの痕跡が残るはずですが、それらしいものがここにはないのです。
養子のような形で秀郷系の人が入った可能性もありますが、古代氏族が小野崎氏に変貌したとすれば、摩擦は起こりえないことが納得できます。
 
その小野崎氏の崇拝した神社が「薩都神社」です。
変わった名前の神社です。
「殺屠」が本当か?邪悪を成敗する、あるいは蝦夷を成敗するという意味が隠れているようにも感じます。その使命は古代氏族の役目だったはずです。

既に名前は「常陸風土記」にも出てきますので古い歴史があります。
あのパワースポット「御岩神社」の里宮でもあります。
「御岩神社」は御岩山山頂の巨石が御神体であり、そこからは縄文時代の遺物が発見されており、縄文信仰の流れを汲んでいると言われます。

現在も両神社の宮司さんは小野崎氏の子孫が務めています。
この事実は何を意味するか?
これらも小野崎氏、古代氏族説の傍証になるかと思います。

そんな謎に満ちた小野崎氏、この地にはいません。
佐竹氏とともに秋田に行ってしまったようです。
小野崎姓は本家筋のみが名乗っていたようです。

しかし、この地には小野崎氏から分かれた氏族がたくさんいます。
根本さん、助川さん、滑川さん、茅根さん、小貫さん、大森さん、赤津さん、赤須さんなどです。
管理人の職場にも、近所にもたくさんいます。

この企画展では管理人は小野崎氏とその氏族の居城、居館に係るイラスト等の資料を提供しています。
刀剣や甲冑、模型、城址からの発掘品も展示されるそうです。

機会があれば、この企画展、ご覧下さい。

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日立市と言えば、海岸沿いに工場が林立する工業都市である・・・けど、少し西の山中に入れば・・どこの田舎にも共通な過疎の山村地帯が展開する。
この館もそんな過疎の山間にある。

今の市立十王中学校の地にあった佐竹氏重臣山尾小野崎氏の拠点、山尾城の西方面の警戒と街道監視用の城である。
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十王の西の多賀山地からは十王川が流れ出し、街道が山地を横断するように西に延びる。今の県道60号線である。

この街道を西に向かうと常陸太田市の里美地区の南部に至り、さらに棚倉方面、水府方面、大子方面、常陸太田方面に通じる。

戦国時代の「塩の道」の1つであり、塩や海産物が内陸部に運ばれ、佐竹氏や小野崎氏に莫大な利益をもたらしたという。

城は山尾城の西約5㎞、北に街道を見下ろす標高291m、比高約80mの山にある。
城跡には「妙見社」が建つが、社殿は廃墟となり、参道もなくなっている。
物見の城のため規模は小さく、西方向を望む主郭は25m×15mの楕円型をしており、東側以外を高さ1mの土塁が覆う。

虎口が南側にあり、登城路が下り、下に4段ほどの腰曲輪が展開する。
それだけのものである。
山尾城が西を警戒しなくてはならない時期としては山入の乱のころが考えられる。
戦国末期、佐竹氏の支配が安定したころには使っていたとは思えない。

では HP http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/
http://yaminabe36.tuzigiri.com/ibaraki_kita/takahara.htm
にて

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危機管理

台風21号の被害、そして北海道東部地震、被災者には心よりお見舞い申し上げます、以外の言葉は見つからない。
何かしてやりたくてもせいぜい、会社や自治体などが取りまとめる義援金くらいしか支援できそうにもない。 

振り返って見て、我が家の防災対策はどうだ?
3.11の後、防災用品を整備した。
しかし、あれから7年、残念ながら管理はおざなりになってきている。喉元過ぎれば・・というやつである。

あの時の我が家付近の状況、TV映像で見る今の札幌と同じような感じではなかったかと思う。

そこで夜にも関わらず点検を開始した。
災害に会った場合、これは自己防衛しかない。
その準備に油断はできない。

備蓄している非常食、一部の缶詰等は賞味期限が切れたのもあるが、ほとんどはまだ大丈夫だった。米は確認するまでもない。
水は100ℓほどある。
保存期限を見ながら買い替えしていたのでこれも大丈夫。
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なくなっていたのはカセットボンベ、冬場の鍋料理で使い込んだ。在庫がない。
ガソリンは缶容量が40ℓ分あり、一部は保存期間が2年となるスタビライザーを添加していたが、これがもうすぐ切れる。

また農作業用に使いながら補充しているが、少なくなってきているので追加購入が必要。
今度、車に給油する時、買うことにする。

ガソリン発電機はしばらく稼働させていないので実負荷運転を行い動くことを確認する必要がある。
それから操作方法を子供達に教えておく必要がある。
これさえあれば、PCTVもスマホ充電も問題ない。
井戸ポンプにつなげれば水も確保できる。
冬場は石油ファンヒータも動かせる。
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キャンプ用品は土日に点検しようか。
油圧ジャッキ、チェーンソーは問題ない。

北海道東部地震の知見として小銭が必要なのだそうな。
確かに停電じゃ、CDは動かず、プリペイドカードも役に立たない。
もちろんスマホ決済など当然できない。
その場合は現金である。
多額の現金を置いておくのはリスクがあるが、一定量のお金は現金で持っておく必要があるようだ。

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高萩市立松岡小学校周辺とその北側の山一帯が竜子山城、別名「松岡城」、「手綱城」の跡です。
どちらかというと「松岡陣屋」と言った方が知られているでしょう。
多くの人が訪れるのは城下町の雰囲気を残す江戸時代の陣屋のあった松岡小学校周辺でしょう。
この地区は竜子山城の山麓部にあたり、慶長7年(1602)、佐竹氏の秋田に去った後、入れ替わりに秋田からこの地に入った戸沢政盛が整備したと言われます。
20年後、戸沢氏が出羽新庄に移り水戸藩領となると水戸徳川家の家老中山備前守信正が今の小学校の地に陣屋を置き、周囲には家臣団の屋敷が置かれました。
明治元年(1868)中山氏を藩主に石高2万石の松岡藩として独立しますが、わずか3年後、明治4年(1871)廃藩置県で廃藩となります。
遺構としては小学校の校庭に土蔵が現存し、土塁の一部が残る程度です。

江戸時代の歴史や遺構に焦点が当てられがちですが、竜子山城は平安時代から明治初期まで900年近い歴史を持ち、江戸時代以前にも波乱の歴史があります。
築城は平安中期の天徳3年(959)平盛員によるとも言われます。
その後、今の北茨城市にある菅股城からこの地の土豪大塚氏が入ります。
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大塚氏は南北朝時代には南朝に味方し、北朝方の佐竹氏に対抗します。
応永23年(1416)に起きた上杉禅秀の乱で勝者側となった大塚貞成の時代に最盛期を迎え、城も拡張整備されますが、岩城氏の勢力が大きくなると一時、岩城氏に従い、戦国時代後半、佐竹氏の力が強大になると、その配下に組み込まれてしまいます。そして慶長元年(1596)、知行替えにより折木城に移り、小田城から梶原政景が入りますが、6年後、梶原氏は佐竹氏とともに秋田に去ります。

大塚氏時代は現在の小学校付近には家臣団の屋敷や城下町にあたる根小屋があったと思われます。
小学校の北の山に山城がありました。現在、この山は藪化が進み行く人はそれほどいません。山城は江戸時代には使われず、ほぼ戦国時代の姿のままで残っています。
標高57mの山頂部に本郭を置き、尾根に多くの曲輪が造られる大規模な城です。
北側斜面には大規模な横堀が残り、西に延びる尾根は大規模な岩盤を削った堀切で遮断されています。
これほどの規模の戦国時代の山城跡がそのままの状態で残っている例は非常に稀です。
松岡に来られましたら、山城部分にも足を延ばしていただき、戦国時代の山城を堪能していただければと思います。
それでは江戸時代は無視し、戦国時代の竜子山城を中心にリバイス。


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