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北緯37度付近の中世城郭
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最近確認された城である。
「大宮のむかし話」に大酒飲みの殿様として横山氏と大越氏の2人が登場する。
そこに横山氏の居城として北塩子館が出て来る。

横山氏の城として北塩子館は日本城郭大系にも記載がある。
その北塩子館がどこか分からなかった。

北塩子地区では一番まともそうな城なので、とりあえずここを「北塩子館」としたが、実際は違うかもしれない。

上小屋館が北塩子館なのかもしれないが、あれは簡素すぎてどうかな?
イメージ 1

城のある場所は常陸大宮市中心部から馬頭方面に国道293号線を約5㎞北上した北塩子地区。

この先は茨城のチベットと呼ばれる緒川、美和地区である。

地名の「塩子」、この地名はおそらくここが「塩の道」であったことを示していると思われる。
太平洋沿岸の塩田で採れた塩がここを通って、内陸部に送られたのであろう。
戦国時代、塩は佐竹氏が独占していたようであり、内陸部の領主住民からぼったくりをしていたのだろう。

この北塩子の横山、大越という2名の領主は塩の運搬(売上金の送金も?)や宿場などの権益を持ち、収入を得ていたのではないかと思われる。

常陸大宮市文書館(旧塩田小学校)の南東、北塩子簡易郵便局の東の山が城である。
例に違わず、この城も藪である。

遺構も弱点である尾根筋はちゃんとしているのだが、主郭部は曖昧、あまり整地されていない。
しかし、山からの眺望は良い。
物見台としては絶好である。
山が険しいので防御性もよさそうである。

本格的な戦闘を想定した城ではなく南に位置するこの地区の拠点城郭、東野城の出城だろう。

城主としては横山氏が想定されるが、この城には居住性はない。
居館があったとすれば約700m南東の小割地区ではないだろうか。

この記事に

常陸太田市、旧水府村の東連地町という田舎にある神社である。
ここの宮司さん、俺の友人である。
行く方、くれぐれも日本刀で切りつけないようにお願いする。

神社というと八幡、諏訪、愛宕、住吉、鹿島、香取、日吉、稲荷、伊勢、春日、熊野、吉田、羽黒、秋葉が多い。これらは全国チェーンである。

地名を神社名にしたものもある。
中には古代にまで遡る神社もある。
うちの方では長幡部、薩都、天白羽、天志良波、東金砂、西金砂、静、御岩・・なんて風土記等にも登場するような古社もある。

この神社名「嵯峨」というと、連想するのは京都の嵯峨野、嵯峨天皇・・けっこう高貴な響きがある。
この田舎とはイメージが全く合わない。
イメージ 1

右は神社参道入り口部

同名の神社、多いような気がするが、ネットで検索しても熊本県産山村に同名の神社があることがヒットしただけである。

神社の由緒にはこう書かれる。
「祭神:八千戈神(やちほこのかみ)、大己貴命(おおなむちのみこと)の別称
 天喜5年(1057)陸奥守鎮守府将軍源頼義が阿部貞任・宗任兄弟征討のため奥州へおもむく途中、この地に露営し、戦勝を祈願して嵯峨神社を大石沢山に創建したと伝えられる。

その後、100年余を経た治承4年(1108)右兵衛佐源頼朝が、西金砂神社に籠もる佐竹秀義を攻めた時、佐竹の武将千葉忠常が前線防備のため、沿道の人家に火を放って焼いた。
その余火をうけ、社は礎を残すのみとなったという。

信仰厚き地元民が社を再建し、祭祀を続けてきたが、元禄9年(1696)、徳川光圀が、源氏ゆかりの地、面影山に遷座して、東連地・芦間の鎮守とした。」

頼義は義家の親父であるこの地に多くある義家伝説に通じる。
その時の宿営地というものである。
イメージ 2

次に登場するのが金砂合戦である。
なお、千葉忠常が起こした長元の乱は将門の乱と前九年の役の間、1028−1030年のことなので金砂合戦と70年以上の違いがある。

そしてここでも光圀が出て来る。
この付近の神社の由緒はかなり改竄されているという。
首謀者は光圀である。この地は佐竹氏の故地であり、旧家臣の末裔が多く住んでいる。
イメージ 3
←訪れたのは4月1日、参道には桜が満開だった。

水戸徳川家にとっては反乱の要因を含む要注意地帯である。
そのため、彼は隠居後、西山荘というところに住んだ。
反乱の可能性のある地を抑えるためである。

佐竹旧臣を懐柔してとかいうが本当かどうか分からない。
間違いなくやったことは佐竹の残した文化の破壊である。

多くの寺社は廃止し、旧家臣の持っている記録は提出させ没収破棄したという。そうやって佐竹の影の消去を図ったという。

寺社の由緒も改竄しという。
佐竹の名は抹消し、自分(徳川家が源氏というのはおそらく捏造だろう。)と佐竹の先祖である頼義、義家に置き換えたという。
やたらと多い義家伝説は、だいたいは佐竹のいつかの時期の当主の名を置き換えたものらしい。

この神社に関わっているのは佐竹だろう。
神社の名前「嵯峨」は佐竹氏の先祖、義光が都を偲んで付けたものではないかと思われる。
この地、北西から派生した尾根末端が盛り上がった場所である。
極めて眺望もよい。城を築くには最適な地形である。
尾根続き部に堀切があるのか探したが、見つからなかった。
金砂合戦で陣所に使われた可能性もあるが、ここは山入の乱の山入一族の本拠地、山入城と佐竹宗家側の久米城の中間点、戦略上の重要地点である。
両者の睨み合いの時にどちらかが砦として使ったのではなかったかと思われる。
本当の由来はどうなんだろうか?

この記事に

先日、アメリカ軍ジェット機を4機掲載したので、ライバルとなるロシア軍のジェット戦闘機を。
スホーイ Su33「シーフランカー」です。
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Su27を空母艦載機に改造したのがSu33である。
空母「アドミラル・クズネツォフ」に搭載した。
シリア紛争にも登場した。
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非常に美人な機であり、おそらく世界最高の美人じゃないかと思う。
なお、この機を独自開発と称し無断コピーしたのが中国の中古空母に搭載している機である。

確かに形だけはほとんど同じである。
さすが3Dコピー技術は凄い。
さすがエンジンなどの性能に係る材質等の部分はコピーはできなかったようであり、性能はかなり劣ると言われる。
イメージ 3

そして黄色に塗装した色彩センスのなさ!
あれじゃあ、美人台無しである。

この記事に

福島県古殿町は阿武隈山地南部にある(失礼だけど)田舎!
何かで有名か?と聞かれても思いつかない。

でもこんな田舎にもちゃんと城がある。

この地は戦国時代、小さな戦国大名石川氏の勢力範囲。
石川氏は近隣の大勢力、佐竹氏や伊達氏等の間で翻弄され、最後はこの地を離れざるを得なくなった。
その家臣も同じ道を辿ったり、帰農したりした。

石川氏家臣の仙石氏もその一人、この地を通る「塩の道」での運送業で暮らしていたらしい。

その居城が仙石館、居館の裏山に逃げ込み城を配置した小さい城である。
でも田舎なので完存なのがうれしい。
(田舎、田舎としつこいねえ。でも、本当のことだけど・・)

この城、HP等で取り上げているのはないか?
と検索してみたら俺だけだった。
この山間の田舎を訪れる城マニアも余りいないだろう。

ここに行ったのは4年前、城を訪れる時はおおよその縄張をスケッチした。
それを基に鳥観図を描いてみた。
その時の縄張スケッチを地図に描きこんで行くとおおよその縄張図ができる。
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多分、この城の縄張図なんてないのではないかと思う。

でも、見逃し部もあると思われる。

本当は現地で再検証が必要なのだが、遠い!

そのままほおっておくのもなんだし・・せっかくなんで暫定図としてHPにアップ。
どこかに暇な方、おられたら検証をお願いしますわ。

この記事に

最近50storm氏により確認された物件である。
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まだ、山には城が眠っているのである。

城がある茨城県大子町はかつては陸奥の国だった。

ここで金が採れたことから常陸守護の佐竹氏がまず力ずくで実効支配下に置き、さらに朝廷を買収し、無理やり常陸国に編入して金山は名目ともに自分のものだと主張したという。

まるで南シナ海、東シナ海における某国とそっくりのやり方である。

城はそんな大子町の北西端部、栃木県境近くの左貫地区にある。

左貫地区から北の上野宮方面に向かう途中、八溝山系の戸屋山から南に派生する尾根の末端部にある。

城は簡素なもので、尾根を2つの堀切(⇓の写真)で分断した長さ110mほどの単純構造の尾根城である。
小さいけど、間違いなく本物の城である。
マニア、いやビョーニンにはそれで十分満足なのである。
普通の人はまず行くことはない。
イメージ 2

この尾根筋を古道が通っており、古道を抑えるとともに物見の役目があったものと思われる。

城の歴史は不明である。
不明で十分!

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