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中国側の宣伝工作

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中国国民党中央宣伝部国際宣伝処処長「曾虚白」自伝


『曾虚白自伝』(聯経出版社、1988年)より(抜粋)


「ティンパーリーは都合のよいことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に、上海の「抗戦委員会」に参加した3人の重要人物のうちの1人であった。オーストラリア人である.(中略)そして彼に香港から飛行機で漢口(南京陥落直後の国民政府所在地)に来てもらい、直接に会って全てを相談した。

 我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。
我々は目下の国際宣伝においては
中国人は絶対に顔をだすべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。

ティンパーリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、 日本軍の南京大虐殺の目撃記録として2冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した (中略)このあとティンパーリィはそのとおりにやり、(中略)2つの書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的を達した。 」

ティンパーリーと曾虚白は1937年11月に漢口で宣伝工作に関する計画を決定、外国人によえう宣伝活動する方針の下、ティンパーリーとティンパーリー経由でスマイスに金を使い「南京大虐殺」目撃記録の本を書いてもった。 (『「南京事件」の探究』p.43-4)

この虐殺本とは、ティンパーリーが編集した「戦争とは何か―中国における日本軍の暴虐」1938年、スマイスが著した「   南京地区における戦争被害 1937年 12月―1938年3月 都市および農村調査」1939年である。

台北の国民党史館所蔵の工作宣伝に関する機密文書


「国民党中央宣伝部国際宣伝処工作概要」(1938年〜1941年)


「戦争とは何か―中国における日本軍の暴虐」は中国国民党が編集印刷した「対敵宣伝本」と記録されている。

(東中野修道『南京「虐殺」研究の最前線・平成十五年版』p.265-6)

*「南京事件 増補版」2007年 秦郁彦 中公新書 p10

「この本には、知られているだけで、ロンドン、ニューヨーク、パリ、カルカッタ、漢口版があり、かなり広く読まれたことがわかるが、もっとも早いロンドン版が出たのは、南京事件から半年ばかりのちの1938年7月で、同じ月に、漢口の国民出版社から楊名訳「外国人目睹中之日軍暴行」と題した中国語訳も出た。」

「中央宣伝部半年中心工作計画」


編集者のティンパリーが、国際宣伝処英国支部(ロンドン)の「責任者」と記録されている。

「確認された史料は「中央宣伝部半年中心工作計画」。39年3〜8月の党中央宣伝部の活動方針を記したもので、表紙に「秘密」の押印がある。宣伝部の下部組織、国際宣伝処英国支部(ロンドン)の「責任者」のトップにティンパリーを挙げている。」

「37年、ティンパリーが国民党側から月額1千ドルの活動費を得ていたことも、産経新聞が入手した米コーネル大図書館所蔵の史料から分かった。」

米海軍の情報将校や武官として上海や重慶に駐在したジェームズ・M・マクヒューの報告によれば

「国民政府が37年11月に漢口(湖北省)に移転する前、ティンパリーは、中国・国民政府のトップである蒋介石夫妻の私的顧問だった同じオーストラリア人ジャーナリストのウィリアム・ヘンリー・ドナルドから宣伝工作に参加するよう勧誘された。
 いったんは断ったが、国民政府側に宣伝工作の監督や調整への関与を自ら働きかけ、国民政府の元財政部長、宋子文から月額1000ドルを受け取ることで合意した。」

2015年4月16日 産経新聞(抜粋)

▼北村稔『「南京事件」の探求』(文藝春秋)P32

『近代来華外国人名辞典』中国社会科学院近代史研究所翻訳室編(中国社会科学出版、1981年)よりティンパリーは「一九三七年盧溝橋事件後、国民党政府により欧米に派遣され宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任した」と記載されている。

 ティンパリーと連絡をとっていたベイツの身分

表向きは南京大学の政治・歴史学の教授であったが、実は中国国民党の顧問であり宣伝活動に従事していた。

アイオワ州キャロル郡の地方紙「Carroll Daily Herald」1937年12月30日付特集"FIRST PICTURES OF THE PANAY SINKING"(パナイ号沈没の写真第一報)の左上に、、"professor of history at Nanking University and adviser to the Chinese central government"(「南京大学の歴史教授および中国中央政府の顧問」)として紹介されている。


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ティンパリーとベイツの間に交わされた往復書簡


イエール大学神学部図書館に所蔵されていた中国国民党の顧問で南京安全区国際委員会の委員であり財政実務や南京日本大使館への抗議交渉を担当、中国国民党の顧問でもあった「ベイツ」と中国のスパイである「ティンパリー」の往復書簡。


ベイツの回状 「中国における日本軍の暴虐」の出版予告 1938年4月12日

親愛なる友へ
・・・いま、H.J.ティンパレー氏(『マンチェスター・ガーディアン』紙のベテラン記者)の編集になる一冊の本の出版が、イギリスとアメリカにおいて実際に進められています。本のタイトルはたぶん『中国における日本軍の暴虐(戦争とは何か)』になるでしょう。
・・・
さらに言うならば、その本には12月15日に、当日南京を離れようとしていた個々の特派員に利用してもらおうと、私が準備した声明が掲載されています

「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」(青木書店 1992年)377頁

ベイツからティンパレーへ 1938年3月21日 南京

「ミルズ(北部長老伝導団)、スマイス(金陵大学教授)と私(ベイツ)の三人は考えうる善悪とを比較して検討した結果、責任を持って本(戦争とは何か)の刊行を進めることを了承しました。急いで仕事を進めることによって、この紛争の今後の行方を大きく支配することを願ってやみません――もちろん、西側諸国各国の特殊な状況と全ての軍事ゲームの持つ残虐性の両方に、注視することを願っています。しかし、このことは、フィッチや私、そしておそらくスマイス等にとっても、深く関わってきたライフワークのおわりとなるかもしれません。

「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」(青木書店 1992年)367頁

ベイツからティンパレーへ 1938年3月3日 中国 南京 金陵大学

「ここにいる外国人のグループのある者は、全ての伝導団が南京から追放されないように、当局(日本側)に対して徹底的に報告を行ったり、抵抗したり、あるいは間接的に宣伝することはやめるよう懇願し続けています。それはスマイスやミルズに対してもある程度行われ、フィッチがここにいた時は彼に対しても行われました。以上のことは、しばらくの間、用心深くする必要があることを示唆するために触れました。」

「南京事件資料集 アメリカ関係資料編」(青木書店 1992年)358頁

南京特務機関の報告書

井上久士編・解説 『華中宣撫工作資料』(不二出版)152p(抜粋)

南京特務機関 南京班第二回報告(二月中状況)

二、難民区の解散  
(一)国際委員会に対する措置

「国際委員会は十一月下旬我当局の明確なる否誌にも不拘南京難民区を設立して残留難民を全部該区域に収容し皇軍入城後と雖施療施米其の他難民に対する各般の救恤を続行する一方、難民区に於ける皇軍の行動を監視して活発且つ害意ある対外宣撫を試みたり」

 

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