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イメージ 9『最近朝鮮事情』とは、日韓併合前夜に朝鮮半島を視察した当時の衆議院議員荒川五郎によって書かれたルポルタージュである。1906(明治39年/日露戦争直後)に清水書店から刊行された。20世紀初頭の朝鮮半島の人々の様子や文化が忌憚ない筆致で描かれており、当時を伝える貴重な資料となっている。
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 この朝鮮では、事業を含めて日本人が手伝うべき仕事が限りなく多いのみでなく、将来隣国としての関係は非常に大切で、特にこの半島ではまだまだ改善、開発できる事が多過ぎることを知らなくてはならない、朝鮮の実情を誰にも理解できるよう紹介するべく、政治、経済、産業、人文に至って、日露戦争終了後の明治38年(1905)に朝鮮を視察、繊細に見聞し観察した内容を「最近朝鮮事情」としてまとめたものです。

河川と耕地・・朝鮮の河川はまだ治水という概念がないらしい。
 全国一帯に河は多いが洪水に成れば流れに任すばかりで田畑も流失、少し手を入れて堤防でも造れば水流が定まって立派な農地ができ、安心して稲や麦が作れるところでもなす術も無く放置している。朝鮮では三豊一凶という言葉が有り3年に一度は田畑が洪水に流されるものだと諦めている。
 朝鮮100年の経営を思えば姑息な考えをせずに、まず堤防を造り河流を固定し、運輸の便利を十分にして農民が安心して作物を作れるようにするべきだ。

●山麓・・朝鮮の山という山は殆んど禿山で、朝鮮には山が無いと云っても過言ではない。
 朝鮮の山には虎が多かったから、人の安全を害するのみか入山することが出来ず、山裾から木を伐り払って薪にして被害を除いたのである。伐採しては炊飯の燃料に焚き、如何に禿げようが植林など考えず我先に薪用に切り取って顧みなかったから、現在の様に哀れな姿となったのだ。
 朝鮮人はまだその知識が無いに等しいが、大雨があると禿山では水源が保てず川水はすぐに氾濫して田畑を害することになるのが理解できないのだ。

●首府京城・・京城の城門は東西南北に4大門があり他に4小門があり、最も大きいのが大南門である。 どの府城でも石を築き揚げて高い郭壁を築き、外からよじ登ることは出来ない。
 城内は大方人家で充たされ市街となっているが、城外でも便利なところは大きな市街を作っている。南大門の外では京釜鉄道の大停車場が出来てから一層賑やかになった。
 京城は朝鮮の首府で漢城と云い北には北漢山、鷹峰が聳え、西北に仁王山、東に駱駝山が連なり、また南には南山の外を漢江の長流が巡っている。この四方の山にかけて高さ10尺(33m)から20尺の城壁を築きその周囲5里(約20km)ばかり、城内の広さは東西30余町、南北20町もあって戸数は4万5千戸、人口203千人、李朝500年代々の国王が住まわれた三王宮もこの城内に在る。京城の地勢は我が京都に似ていて市街を5区に分けている。
 街路はいたって平坦で、殊に景福宮の前から慶運宮のあった貞洞の辺や東大門から西大門に通ずる本街路と、南大門から鐘路に至る道路は道幅何れも10間〜20間もあるが、その他の小路になると極めて狭く、市中に便所やゴミ捨て場の設備が無いから、糞尿だらけで非常に不潔、気持ち悪くなる処が非常に多い。
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                京城・鐘路通り

 市街には人力車も所々に客待ちしているが、米人の事業している電気鉄道も有り便利だ。本社は鐘路にあって明治32年(1899)の開業で、電車は東京より京城が早く開けた。
 京城には特に外国人のための居留地域と云うものは無くて、域内至る処でも自由に雑居できる。
 この雑居制は支那のやり方で、もともと朝鮮を属国扱いしておりその名残である。
 条約国は朝鮮に行使を置いて居るにも拘わらず、支那は行使も置かず欽差大臣というような名義だったのである。
 京城の井戸水は殆んど不良で塩気を含み飲料に適していなく、良質な井戸は23ケしか無いが現地の人々は殆んど頓着していない。
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              井戸と水汲み夫


●朝鮮の王宮・・朝鮮の王様は立派な美しい御殿が在り乍ら、それを放棄して手軽な新王宮にお住まいになり、大宮殿は庭など荒れ果て、瓦ぶきの屋根上にまで長い雑草が生え、御殿中には鳥の糞などで汚れ放題、それは酷い有様であるのはどう申したらよいだろうか。
 京城には景運宮、景福宮、昌徳宮と王宮が三つあるが、その正門、今は硬く閉ざされ警番の役人も居ない。その横の通用門らしいのを入ると門警の役人が名刺を取り次いで詰所に至り、帯剣いかめしくやってきて案内してくれた。
 景福宮の立派で宏大な建物も今は瓦がずれ落ちたところがあり、壁は落ち雨漏りなどでいやはや荒廃極まっている。
 国王御座の間を錦福軒と称えて周辺の壁面の装飾等も、荒廃の中にも昔の名残を見ることは出来るが、悲しい事に朝鮮には古社寺院保存法どころか古宮殿保存の技術伝承も無いらしい。
 宮殿は、どれも荒れていて見る影もない。
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 朝鮮歴代王の神位を祀った「宗廟」も保善のため日本の技術で改修された
      今でも外郭石垣に残る「昭和8年3月改築」の文字

●古都平壌・・朝鮮で最も古い城府であり、今も5千ばかりの家と3万ほどの人が居て京城に次ぐ大都会である。日清戦争には支那の葉士超らの軍が占拠していたのを、野津将軍ら広島師団が包囲して攻め落とした地である。
 平壌第一の名物は美人で、京城の宮中に勢力の有る官妓は殆んど平壌から出るので、官妓養成学校まで在るのは奇態ではないか。
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          大同江に臨む平壌妓生学校の麗観


●朝鮮の政治・・朝鮮政府の官制は唐や明の制を斟酌折衷したもので、専制政治としては、やや発達した組織で宮中も府中も二重組織となり宮中にあるのは中枢院と承政院とで、中枢院は諮詢の府で、承政院は国王の命を伝え行う部署である。組織はこうであるが王権は振るわず規律は乱れているのであるから、只表面の組織が良いのみで内面は全く秩序も無く、国を外国に開いてからは外務省に当たる外衙門(がいがもん)を置き、次いで内務省に当たる内務衙門も、空名となるありさまで何が何やら判らないのである。 法典でも六典条例や大典会通という成文律があって、これを誠実に実行したなら、世運の進歩に伴って文明の政治に進むことが出来るのに、国王の意のままに無規律の政治を行い、国王の一言が法典という有様で、この成文律は全く死文となっている。
 ことに王言、即ち法典と云ってもその実、奸細の徒が賄賂を以て国王の歓心を買うなどするので、真実は王言もその精神ではないのである。
 こういう実情だから根本的に政務の組織を改める他にないと言える。 ところが中央政府が腐敗するものだから、地方官はただ人民の膏血を絞る道具となり賄賂贅沢が大いに行われ、官職は公然と売買される有様で、その幣害を受ける人民こそ天に向かって号泣するほか訴える道も無く、哀れな有様に陥っているのだ。
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京城・幅をきかす両班の男性(1903年)

●朝鮮の教育・・日本での維新前の寺子屋教育を見たような有様だ。
 朝鮮では新式の教育が開けてないだけ骨折り甲斐がある。各居留地とも日本の師範学校卒業生を採用する方針をとっているし、日本の教育家が身を捧げて朝鮮子息の教育に務め、朝鮮を開発して日本の経営に資する努力が為されている。

●朝鮮の人々・・容貌は日本人と殆んど変わりがない。
 よく見ると、どことなくボンヤリした所があって、口を開け眼がどんよりして何かが足らぬ様な表情をしているが、日本語も早く覚え一通りの事務も出来るが、ただ面倒な勘定や難題に出くわすととても耐えられない様子だ。
 雨の日や寒い日は自分の仕事はせず、終日家の中で遊惰にふけり雑談して、人としての責任、勤労、時間の大切さなど全く観念が無い。
 だから傘などの雨具は殆んど用意が無く発達もしていない。
 朝鮮人を雨の日に働かそうとすれば、雨の関係を極めねばならない。雨が降っても田畑や道路が水没しないよう治水、河川の改修をして、彼らの柔惰さ、無気力さを改善してゆく必要がある。
 女性の顔は何処となく無頓着な性格に見えて、衛生だの病気に付いて無頓着千万だ。
 悪く言えば人間と云うより獣類に近いと云ってもよい。歩くときも目的を持って歩くのでなく、牛が道草を食いながら歩くに似て、牛に近いと云いたい。
 朝鮮人の不潔さはヒドイもので、てんで清潔とか衛生とかの考えが無いから、如何に不潔な家でも場所でも一向に平気で、濁った水でも小便や大便のある周辺の水でも、頓着せずにこれを飲む。実に味噌も糞も一緒の様相だ。 更に驚くべき信じがたきことは、小便で顔を洗うと肌がキメが細かくなると信じており、小便は腎虚や肺結核や解熱に有効だと云ってこれを用い、強壮剤だと云って健康な者でも飲んでいる。
 夏など穴の様な家の中は蒸し暑いので、大方は屋外に露宿しているが、その枕元には糞や小便が流れており、悪臭ぷんぷんとして鼻をついても彼等は何も感じないらしい。また小便壺は室内に置いてあって大人、子供関係なく客の前であろうが誰であっても平気で小便をし、便器に口を寄せて唾を吐きこむのが慣習のようだ。見るからにたまったもので無い。
 朝鮮人は概して勤勉貯蓄の思想が極めて乏しい。一見したところでは仕事をする者は居ないと思われるほど、長いキセルを持ってぶらりぶらりしている姿を至る所で見るのだ。


●朝鮮の家屋、家庭・・朝鮮で家を建てるのは至って造作も無いことであるから、一般に大工左官の職人を頼むことも無く、大抵は隣近所寄り合って建ててしまうので、低くて汚くて僅かに雨や風を凌ぐに足るくらいのものだ。その四方を土や石瓦で塞ぎ、且つ稲藁の屋根も低い有様は全く防寒的で、家と云うものは寒ささえ凌げばよいと思っているらしい。
 一般の家は荒壁のままで、天井も無くクモの巣だらけ、蠅だらけ、ビンデーという南京虫も沢山いて、他にも虫が這いまわっており、所かまわず唾や痰を吐き何ともひどい状態だ。
 家屋は雨風を凌ぐだけのものだから、家庭団欒を得られる仕組みが無く、親子が相親しみ夫婦相愛して団欒を感じ得る機会もない。「男女席を同じゅうせず」との儒学の教えであるが、一家の男女夫婦までも一緒に居ることが出来ないという程、窮屈には及ぶまいから、せめて夫婦愛携え、親子相い語り愛睦みて苦楽の中に家庭の営みが有るべきなのに、朝鮮では表面上その隔てが厳重であるから、一家全員で楽しむ家庭団欒の愉快は、到底得られよう筈がない。


●食物・・朝鮮の食物は日本風と支那風とを折衷したような料理で、ずいぶん凝ったものもある。
 朝鮮では辛味を加えることを好み、唐辛子、胡椒、生姜などが必ず添えられどんな料理にもかけて食べている。大いに閉口するのは何を煮るにもニラやニンニクを煮込むことで、その臭気と云えば耐えられるものではない。肉類は牛、豚、羊、鶏であるが、犬の肉を食し食用に犬を飼っている者まで居る。牛は肉ばかりではなくその頭を大釜で煮込んで、その汁に唐辛子をまぶしてすすったり、牛の臓腑を蒸して塩を付けて食べている。
 朝鮮では食中、食後に茶を飲む習慣は無いが、米のとぎ汁を沸かして飲む、又は砂糖湯を飲む習慣がある。
 朝鮮の食事が心地悪いのは釜の萬用である。飯を炊いたり汁を煮たりする釜で、垢で汚れた衣服も煮て洗うのだ。不潔の観念の無い現地人は平気でも、日本人にはたまったものでない。


●朝鮮の病葬・・朝鮮人の病気は家の造りや不潔と大食いから来るのが主で、最も多いのが胃腸病であるが、これは大食い大飲みする上に、唐辛子を沢山接取するからと言ってよい。
 夏など土間も同様の冷えた所に寝るから朝鮮熱と云う一種の風土病にかかる。大方の病気は平気で放置し、重病になると怪しい巫女や呪師に頼んで、鐘や太鼓で病人の枕元で大きな音を出しながら呪文を唱える。 それも夜通し喧しく騒がれるのだ。そして病死者が出ると隣近所、親戚友人が寄り集まって大声を上げて泣いて悲しむ、参加者は号泣するのが礼儀なのである。
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              葬 式 の 御 輿


 葬式も同じように声を上げて号泣し、神輿の様に棺を担いで、それに付いて行くのが会葬者の礼なので、声色を使って泣いているのが分かり、神輿を担いだお祭り騒ぎのようだ。
 死体を葬るのは黄海道や平安道では空地に土葬して土饅頭を作る風習で、京幾道、三南地方では山の麓などに祭壇を設け、そこへ死体を置き藁で周囲を包んで雨ざらしにして、白骨にしてから埋葬するのである。墓は土饅頭だけで墓標は全く無い。
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            墓参り・周辺の土饅頭が墓


●朝鮮の社会風俗・・朝鮮には上層部と下層部が有るのみでその中等社会が無い。下層部は家庭も教育も殆んど無いので、子供らは裸のままで放置の状態だから総じて感が鈍く、棒などでヒドく打たれてもさして痛そうにもしない。
 大人は衣類冠を飾り、そうして人から尊敬せられようとする事に関心を示しているが、仕事をしないで上司から棒で叩かれても、罵倒されても残念がりもしない。真面目に働くことを卑しむ風潮があり、徒食の輩を尊び、働く者は下等の者の様に考え、それ故に商売など実業を賤しむので商業が発展していない。
 一歩田舎へ入ると、殆んど一軒家は見ない、人の住むところ必ず十数軒以上の家が集まっており、それは政府の取締りが不行届きであるから、暴徒盗賊などから防御する必要があるからと言う。
 然し、その群がっている家々は不規則に建てられ、通り道など畦道のようで道の姿を成していない。京城から諸方へ通ずる道路を王道と称えているが、それでさえ牛馬が通行できる程度で修繕して使っているという形跡も無い。
 橋梁は極めて少なくて、たまには丸木橋が有るが大抵は飛び石くらいの事、雨が降れば旅人は水の減るまで渡るのを待たなければならない。


●市場・小売場・・主に都会や各地の大きな町の市場のみと言ってよい。
 朝鮮には「市日の他に商売ナシ」という諺が有るがその通りで、市日に買って用意しておかないと臨時事があっても、次の市日までどうすることも出来ない。その市日は1と6の日とか2と7の日の組合せで毎月6回が普通である。市日となると中々賑やかなもので、日本で云う縁日のような有様である。何百何千という人々が売買のみならず、物々交換するので、その喧騒振りはここに表現できない程だ。
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              京城、市日の光景 


●土地の取得売買・・朝鮮は万事が不規律、不整頓であるのは今更言うまでもなく、人の生死も届出ず人の人数も知れず、耕地の広さも判らず、土地台帳の備付もなく、地権も無いという極めて曖昧な有様であるし、無方針の政府と専横な貴族の支配を受けているので、世人は人民の土地所有権を疑うものがあるけれども、実際宅地を除く外は所有権はほぼ確立している。
 我々外国人が土地を取得し所有するには、条約上の権利地域があり、居留地付近の一里二町半以内はこれを所有する事が出来る。土地を買い入れたら直ぐそこの管理署に届け出て地券の発給を受けるのであるが、地券料を払うのは無益だと相互間の売買契約だけで済ますのが殆んどである。


 
 人が世に立とうと思うなら、安心されるべき手堅い勉強家となることを志す以外に無い、学校の教育もまた同様なのだ。島国の中に引きこもっていた時代なら遣り繰りも付こうが、今日世界の睨み合いの中に立ち、大陸の一部に手を付けて、困難な世を切り抜けようと思うには軽薄な考えではいかないものだ。朝鮮は見込みある大地であるが、無頼不信の徒は決して見込みある地ではない。
 人がたくさん事業を為すのは、着々として一事半業を積みあげ勉めてゆく他はない。
 朝鮮だって濡れ手に粟のような地では決して無い、やらなければならない事は無限にあるが仕事となるとその人次第である、その人の工夫勉強次第であることを知らなくてはならない。
・・と締めくくっている。



この記事に


イザベラ・バード(1831〜1904)が見た朝鮮・・

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 李氏朝鮮末期を旅したイギリス人女性の素直な叙述「日本奥地紀行」で有名なイギリスの女性旅行家イザベラ・バードは、日本以外にもアメリカ西部、マレー半島、チベット、オーストラリア、ペルシアなど様々な地を旅しては旅行記を残しています。
 
 イザベラ・バード1831年〜1904年)
彼女は、1894年(明治27年)〜1897年(明治30年)の間に、4回も李氏朝鮮を訪れている。


 
 バードは極東滞在中の1894(明治27年)から1897(明治30年)4年間で李氏朝鮮末期と大韓帝国初期の朝鮮半島を4回も旅しています。
  この旅行記の中でバードは、朝鮮半島の自然の美しさや国土の豊かさを讃え、朝鮮王朝の王族たちの人柄に魅せられつつも、人々を貧困たらしめ怠惰に向かわせる官僚機構や政治制度を批判しています。
 朝鮮が貧しい全ての元凶は人々を搾取する統治制度にあり、適切な指導が行われれば朝鮮は豊かな国になるだろうと希望を抱いていますが、ひとり立ちするのは不可能であり、ロシアか日本、あるいはその両方の保護の元で改革を進めるべきであろうとしています。

●朝鮮の社会と民族性について・・
・朝鮮の国民を分けるとしたら、「盗む人」「盗まれる人」の2つしかない。
 「搾取する人」は役人 「搾取される人」はそれ以外の庶民である。
・一生懸命努力してほんの僅かな金でも蓄財したことが知られれば、役人が全てを搾取していく。
・故に、ぎりぎりに暮らしていけるだけの収入を得ればよいので、それ以上働こうとしないので生活の向上は無く、みんな貧しいままである。
・北方のロシア人統治の地域に入植した人々は、搾取されることがなかったので、一生懸命働き蓄財し、明るい表情であった。
・朝鮮人は本来が「なまけ者」であるのではなく、政治腐敗が労働意欲を棄損している。
・朝鮮では自国による自己改革はもはや不可能であり、他国による強制改革しか方法はなかった。

●日清戦争後李朝末期の日本のかかわり・・
・数世紀前の歴史から(豊臣秀吉の遠征の頃)朝鮮人はとことん日本人が嫌いであった。
・当時、日本は朝鮮を植民地化して統治しようとは考えていない。
・あまりの政治腐敗ぶりに、日本での政策を浸透させるのには困難を極めた。
・その為、微に入り細に入り指示することになり、一層反感を誘ったが、日本のやり方は悪くはなかった。

●生活の状況について・・
1894年当時に見たソウルは世界一汚い都市である。

1897年(日清戦争後の日本の主導)に訪れた時はソウルの街は見違えるように清潔になっていた。
・両班と言われる貴族階級は、役人か教師しか職業がなく、町でぶらぶら過す人々が多かった。

・商業を起業しても役人にたかられて、発展を阻害され大成出来ない。
・女性は最下層の人が外で働くことがあっても、殆んどの夫人は家の奥に蟄居させられていて、女性自身はそうされることは大事にされていると感じていた。
・だから屋外の世界、ソウルの街さえも見たことがない女性が多い。
・当然男尊女卑である。結婚は親が決めた人とし、嫁は朝から夜遅くまで働き、身なりに気をまわすことなどできなかった。
・女性で教育を受けることが出来るのは妓生のみであった。大事な賓客をもてなす妓生は客と同じレベルの話題についていけるように、国の運営する養成学校で歌舞などと併せて教育を受けた。

 

●風土について・・
・朝鮮の自然、山、川、草木、花など美しいと感じている。
・虎がたくさん居て人々は恐怖のため、暑くても窓を開けて寝ることは出来なかった。
・バードは遠慮のない好奇の目にさらされ、ゴキブリや虫が多くて宿とはいえない場所に寝泊まりし、埃っぽさ、汚れに辟易し、外国人というだけで阻害されながら旅をした。
・この間、4度も訪問し、最終的には朝鮮人との繋がり等で愛おしく感じるようになっていた。



. 釜山・ソウルの街並みについて・・
18942(明治27年・日清戦争時代)、イザベラ・バードは長崎から船で15時間かけて釜山に上陸しました。
当時の釜山は日本人が大勢貿易に携わる活気のある町で、朝鮮人はほとんど目立たない印象を受けたようです。
釜山の居留地はどの点から見ても日本である。5508人という在留日本人の増加に加え、日本人漁師8000人という水上生活者の人口があった。

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           黎明期の釜山港 (1915年頃)


 
●釜山・・日本人街から山腹に細い小道が3マイル(約5kmばかり続いている。この小道は、私が最後に見たときは無人だったが、官衙(官舎)もある小さな清国人居留地を通り、その終点に、城壁に囲まれた釜山の旧市街がある。
 高台にある外国人居留地の周りの杉林が1592年からの文禄・慶長の役の際に豊臣秀吉軍による植林によるものと記し「砦はとても古いものの、中の市街は三世紀前の構想に沿って日本人の手によって近代化されている」と書いている。


岸辺の岩場に坐っているのは、ペリカンかペンギンを思わせる白い物体の群れであるが、そのような姿が人間そっくりの足取りで釜山の新旧市街間を止めどなく行き交うところをみると、坐っている物体もどうやら人間らしく見える。その様な朝鮮人の姿はわたしの目には奇異に映った。
清国人にも日本人にも似てはおらず、そのどちらよりもずっと見栄えがよくて、体格は日本人より遥かに立派である。
 
その後バードは船で首都ソウルに向かいました。
第一印象では不潔で風格もなければ風景の特徴もないという印象を持ったようですが、その後の滞在が長引くにつれ、ソウルという町の自然の魅力や美しさに魅了されていったようです。
 
●ソウル・・「都会であり首都であるソウル城内は、そのお粗末さは実に形容し難く「描写するのは勘弁して戴きたいというほどキタナイ場所」であると記しています。
王室への儀礼上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は、主に迷路のような道の「地べた」で暮らしている。
路地の多くは荷物を積んだ牛同士がすれ違えず、荷牛と人間ならかろうじてすれ違える程度の幅しかない。おまけに、その幅は家々から出た糞尿や汚物を受ける穴か溝で更に狭まっている。
酷い悪臭のするその穴や溝の横で好んで集まるのが、土ぼこりと垢にまみれた半裸の子供たちと疥癬虫(かいせんちゅう)持ちで霞み目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げ廻ったりしている。


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              ソウル・南大門路


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             ソウル・南大門遠望

 ソウルの景色のひとつは小川というか下水というかの水路である。
蓋のない広い水路を黒くよどんだ水が、かつては砂利や砂だった川床に、堆積した排泄物やゴミの間を、悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく。
水ならぬ濁り水を手桶に汲んだり、小川ならぬ水たまりで洗濯している女達の姿。  
ソウルには芸術品が全く無く、公園もなければ見るべき催し物も劇場もない。
他の都会なら当然有るべき魅力が、ソウルにはことごとく欠けている。古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはおよそ無関心だったため寺院もない。
結果として清国や日本のどんなみすぼらしい町にでも有る、堂々とした宗教建築物の与える迫力がここには無い。
 
私は昼夜のソウルを知っている。その宮殿とスラム、言葉にならないみすぼらしさと色あせた栄華、あてのない群衆、野蛮な華麗さという点では、他に比類がない。
中世風の行列、人で混雑した路地の不潔さ、崩壊させる力をはらんで押し寄せる外国からの影響に対し、古い王国の首都としてその流儀としきたりとアイデンティティを保とうとする痛ましい試みが感じられる。
然し人は始めからそのように「呑みこめる」ものではなかった。
 
ところが数度訪問する内に、私は推定人口25万のこの都市が世界有数の首都に値すること、ソウルの四季折々の風景、春に色づく山腹の美しさや、濃い緑に覆われた山が続くかと思えば突如切り立った峰が現れたりする変化に富んだ地形、優雅な田園地帯や美しい木立を讃え、周辺自然の美しさに恵まれた首都は稀なことを評価するに至った事を充分に悟ったのである。
一年かけて付き合った後、朝鮮の自然を美的に感じ取っていたようです。


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イサベラバードは今でいうバックパッカーで、へんぴな処へも足を運んで行ってしまう人です。
そして基本的には人付き合いよりは自然と戯れることが好きで、都市の不潔さや雑然はさておいて、自然の美しさや半自然の庭園などに心惹かれていったようです。
  イザベラバードの旅したコース➔


 
2.朝鮮人庶民の様子
バードはソウルから船に乗って漢江の上流を目指す旅に向かいます。
その自然や農村風景の美しさに感嘆しつつ、怠け者の船頭や好奇の目で見てくる民衆にイライラしながらも旅は続くのですが、農村や一般住民の暮らしは悪くはないが、必要以上の金銭や物資を「あえて持たない」ようにしていると指摘しています。


貧しさを生活必需品の不足と解釈するなら、漢江流域の住民は貧しくはない。自分たちばかり朝鮮の慣習に従ってもてなしを求めて来て、誰も彼もが満たせるだけの生活必需品はある。
負債はおそらく全員がかかえている。
借金という重荷を背負っていない朝鮮人は全くまれで、つまり彼らは絶対的に必要なもの以外の金銭や物資が貧窮していて、堕胎であるように見えると当初はそう思っていた。
しかし彼らは働いても報酬が得られる保証のない制度のもとで暮らしているのであり、「稼いでいる」と噂された者、たとえそれが真鍮の食器でやっと食事がとれる程度であっても、ゆとりを得たという評判が流れた者は、強欲な官吏とその配下に目を付けられて搾取されたり、近くの両班から借金を申し込まれたりするのが落ち・・となるのである。
朝鮮の災いのもとの一つに、この両班つまり貴族という特権階級の存在があるからである。


両班は自からの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそり他の縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。
両班は自分では何も持たない。自分のキセルですらである。
身分制度に関して、「両班は究極に無能であり、その従者たちは金を払わず、住民を脅して鶏や卵を奪っている」としている。


「両班は公認の盗人であり、ソウルには「盗む側」と「盗まれる側」の二つの身分しかない」と述べている

両班は慣例上、この階級に属する者は上行をするとき、大勢のお供をかき集めれるだけかき集めて引き連れて行くことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。


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              ソウル市内の様子


非特権階級であり、年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目の無慈悲な取り立てを行う両班から過酷な圧迫を受けているのは疑いない。商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めにくる。これは実質的に徴税であり、もしも断ろうものなら、その男は偽の罪をでっちあげられて投獄され、本人または身内の者が要求額を支払うまで毎朝鞭で打たれる。


その為、一般の朝鮮人は命と家族を守るために、あえて働かず稼がず、必要最小限のものだけを持って細々と生活するしかないというわけです。
朝鮮の官僚については、「日本の発展に興味を持つ者も少数はいたものの、多くの者は搾取や不正利得が出来なくなるという、私利私欲のために改革に反対していた」とし、「大韓帝国独立後、堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に、保護国として日本は着手したが、それは困難極まりなかった」と書いている。
バードは朝鮮人の「怠惰さ」が生来のものなのか、あるいは制度がそうさせているのか考えますが、後に満州のロシア人支配地区でキビキビと働き豊かに暮らす朝鮮人を目の当たりにし、きちんと制度が整えば朝鮮はきっと豊かになるに違いないし、漢江周辺の田畑も十分に開墾されていないため、経済発展の可能性は大いにあると考えています。
 
気候はすばらしく、雨量は適度に多く、土壌は肥え、内乱とか盗賊団は少ないとくれば、朝鮮人はかなり裕福でしあわせな国民であってもおかしくない。もしも「搾取」が、役所の雑卒による強制取り立てと官僚の悪癖が強力な手段で阻止されたなら、おして地租が公正に課されて徴収され、法が不正の道具ではなく民衆を保護するものとなったなら、朝鮮の農民は日本の農民に負けず劣らず勤勉で幸福になれる筈なのである。
 
その一方で、朝鮮人の大食漢ぶりも描写されています。当時の朝鮮人は、身分問わずメチャクチャ食うと描かれており、「貧しい者=食えない者」と結びつけがちな日本人と少し感覚が違うようにも思います。
他のところでもよく目撃したが、中台里でもわたしは朝鮮の人々の極端な大食ぶりを目の当たりにした。彼らは飢えを満たすためではなく、飽食感を味わうために食べるのです。


大食ということに関しては、どの階級も似たり寄ったりである。食事の良さは質より量で決められ、14ポンド(1.8kg)のごはんを食べても困らないよう、胃にできる限りの容量と伸縮性を持たせるのが幼い頃からの人生目標のひとつなのである。ゆとりのある身分の人々は酒を飲み、大量の果物、木の実、菓子を食間にとるが、それでも次の食事には一週間もひもじい思いをしていたかのような態度で臨む。
私は朝鮮人が一度の食事で3ポンド(1.3kg)はゆうにある肉を食べるのをみたことがある。「一食分」が大量なのに、1日に三食か四食とる朝鮮人はめずらしくなく、一般にそれを慎む人々は好きなように食事も出来ないほど貧しい人と見なされ兼ねない。一度の食事で20個から25個のモモや小ぶりの瓜が皮もむかれずに無くなってしまうのはざらである。
 
. 朝鮮のシャーマニズム
バードは「朝鮮には宗教がない」と述べています。その代わり、「とても宗教とは呼べない」民間信仰が人々を支配しており、それは東北アジアのシャーマニズムを基礎に仏教の影響も受け、朝鮮で独自にローカライズされたものとしています。
朝鮮の民間信仰では、土地、空気、海には鬼神が棲んでいるとされる。鬼神は葉陰をなす木立、薄暗い渓谷、山の頂には例外なく宿っている。緑の山腹、田畑のあるのどかな谷間、小さな谷の草地、林のある高台、湖や川のほとり道端、東、西、南、北に鬼神は無数にいて、人間の運命をもてあそぶ。鬼神は屋根、天井、かまど、暖房床、梁にもかならずいる。煙突、物置、居間、台所にもいれば、棚やかめにもことごとく宿っている。朝鮮人は唯一持っているというべきこの信仰のおかげで四六時中、心が休まらず、限りない恐怖にさらされ、実のところ「怖がり通しで、この世の時間を過ごしている」と言えるほどである。

 朝鮮人は降りかかる災難の原因はすべて鬼神のせいだと思っており、鬼神の怒りが自分に向いたため病気や失敗、貧困などが起こったとみなす。そのため、鬼神をなだめ怒りを解くパンスやムダンというシャーマンが重要な存在となっていた。
シャーマンによる祭儀は絶大な効果があると信じられており、貧乏人でも着物を売ってでも金を工面して「悪霊払い」を受けようとします。
 
. 朝鮮の王族たち
バードは朝鮮滞在中、当時の王族たちと個人的に親しくなり、何度も宮殿を訪ねて親交を深めています。
当時の王妃は後に暗殺された閔妃です。


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【閔妃】
王妃はそのとき40歳を過ぎていたが、ほっそりとしたとてもきれいな女性で、つややかな漆黒の髪にとても白い肌をしており、真珠の粉を使っているので肌の白さがいっそう際立っていた。そのまなざしは冷たくて鋭く、概して表情は聡明な人のそれであった。話はじめると、興味のある会話の場合はとくに、王妃の顔は輝き、限りなく美しいものを帯びていた。私は王妃の優雅さと魅力的なものごしや配慮のこもったやさしさ、卓越した知性と気迫、そして通訳を介していても充分に伝わってくる話術の非凡な才能に感服した。
           

イメージ 8【高宗皇帝】
同時に国王の高宗にも謁見しています。高宗は歴史的には、主体性がなく弱気で、外国に翻弄された挙句、国を滅ぼした無能な君主という評価がありますが、バードも「人は好いが君主としての技量に欠ける」と述べています。

 国王は背が低くて顔色が悪く、たしかに平凡な人で、薄い口ひげと皇帝ひげを蓄えていた。落ち着きがなく、両手をしきりにひきつらせていたが、その居住いや物腰に威厳がないというのではない。国王の面立ちは愛想がよく、その生来の人の好さはよく知られるところである。
 国王は心やさしく温和である分、性格が弱く人の言いなりだった。
 3度にわたって謁見を繰り返し、「好人物だが意志薄弱で人の言いなりの国王」「キレ者で王を良いように操る王妃」「実権を閔妃から取り戻すべく、陰謀を企てる国王の父・大院君」を中心に繰り広げられる王族たちの戦いに国政の混乱の元を見ますが、国王夫妻とのふれあいはバードに好印象を与えたのです。
 

イメージ 9【純宗】
高宗と閔妃の息子は、後に純宗という名で李完用ら親日派に担がれて国王になる人物です。韓国併合後は王族として暮らしています。純宗は知的障害があった可能性が指摘されており、バードも謁見時にそのように感じています。

皇太子は肥満体で、あいにく強度の近視であるのに作法上眼鏡をかけることが許されず、そのときは私に限らずだれの目にも完全に身体障害者であるという印象をあたえていた。彼は一人息子で母親に溺愛されていた。王妃は皇太子の健康について常時気をもみ、側室の息子が王位後継者に選ばれるのではないかという不安に日々晒されていた。謁見中の大部分を母と息子は手を取り合って坐っていた。

高宗(朝鮮) - 李王殿下・純宗皇帝・高宗皇帝・尹皇后・徳恵翁主
     李王殿下・純宗皇帝・高宗皇帝・尹皇后・徳恵翁主




この記事に


その3.1運動の寄せ書きがどうもインチキくさいね


太極旗に墨痕あらたかに書かれたものはすべて抗日独立運動の志士たちが書いたのだ・・読めないって不便、でも ”民族独立運動家33人の寄せ書き”


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[ソウルミーナ]
韓国、文化日報は 3.1運動100周年と題して 次のような記事を載せた。

”ソウルの街は熱狂的な独立万歳を連呼する群衆でいっぱいだった。 いつの間に作られたのか、紙で作った太極旗(テグッキ=韓国国旗)の波の隊列の前では、学生たちが先頭に立ち、ソウル市民と地方から上京した田舎の人々がこれに呼応した。” 

独立運動家であり国語学者の李熙昇(イ·ヒスン)先生は、1919年3月1日の万歳運動当時のソウル塔骨(タプゴル)公園の姿をこのように描いた。 今年は3·1運動と大韓民国臨時政府樹立100年になる年だ。 3·1運動は抗日独立運動史上最大規模の独立万歳デモ運動で、その後中国、上海に大韓民国臨時政府を樹立する契機になった。 また、3·1運動は第1次世界大戦勝利国家の植民地で起きた最初の反帝国主義民族運動である。
中国の5·4運動とインドの無抵抗運動などアジア各民族の解放運動にも影響を与えた世界史的事件だ。


このような内容と一緒に太極旗に寄せ書きされた写真が掲載されている。3·1運動だの抗日独立運動だのに参加した民族独立運動家33人の寄せ書きなのだそうだ。

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これは、どこかの展示館にあるもので、毎年この季節になると大韓民国の独立が云々とか光復軍がどうしたなどと紹介されがちな寄せ書きだ。


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▲どこかの展示館に貼ってある様子


ところが、どうやらこれは3.1運動とは全く関係ないものだという主張が現れている。(関係ないわけじゃないけど)

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これは左上の部分を拡大したものだが、下記のように書かれているように読める。

大韓民国廿八年一月十日
蚌埠第二區隊區隊附文雄明榮轉紀念


大韓民国という名称は1920年の3.1運動で出来たとか、1919年に李承晩(のちの初代大統領)・金九ら独立運動家が国外につくった大韓民国臨時政府が亡命政権の名称として「大韓」の名を用いると同時に、初めて共和制国家としての名を採用した、というように知られている。(だから100周年でお祭り騒ぎをやっているでしょ)

んであれば大韓民国暦28年とは1948年ごろ(終戦後3年目)なのである。(つまり・・朝鮮南北戦争開戦2年前)


「蚌埠」いうのは現在の中国のこの辺です。

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蚌埠というのは中国の上海の内陸のあたりに比定される。どうやら戦後(第2次世界大戦後)に中国の内陸にまだ残っていた第二区隊の文雄明君の栄転記念だと分かる。

栄転というからには寄せ書きをした人たちは蚌埠第二區隊に所属していた人たちであり、終戦3年後の1948年頃の中国で書かれたものだとすれば、文君の栄転後の蚌埠第二區隊そこに残って何をしていたのだろうか? 

※武装解除後にバラバラに帰国した光復軍は1946年6月に正式に解体されている。


博物館の展示の説明書きにありがちな光復軍は、いったい何から「光復」しようとして現地に残っていたのだろうか?

1948年と言えば李承晩や金九はすでに韓国に帰国していた時期であり、しきりに内紛を繰り返していた頃だ。アメリカ軍政は韓国に愛想をつかし駐留する国連軍の規模を縮小を検討していた時期でもある。これが1〜2年程度の誤差の範囲だとしてもその意味は似たり寄ったりでしかない。


しかもこの寄せ書きの中には光復の文字など一つも無いのだ。


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完全独立を為す努力 団結

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自主 自立 自愛 (自愛かい)


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熱心に勉強しよう(オマエラガナ)

このようであるが、この寄せ書きはの説明文によれば 3·1運動だの抗日独立運動だのに参加した民族独立運動家33人の寄せ書きなのだそうだ。 
その内容は ”熱心に勉強しよう” なのである。

李承晩から朴正煕のころにハングル専用化が進められ、現在の韓国人の漢字の識字率は5%程度と言われる。古びた太極旗に墨書きで書かれた「漢字」を理解することができる現代韓国人は殆んど皆無だという。 

まさに ”熱心に勉強しよう”  というのは現在の彼らに向けられた言葉のようだ。



 
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うんうん 知ってたさぁ

 minaQせんせより転載・・↓




この記事に

クロード・シャルル・ダレ(1829〜1878・フランス人宣教師)の「朝鮮教会史」の記述より…

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 1876年の朝鮮開国に先立って、ソウルへ派遣された宣教師が収集・整理していた資料を基にして1874年に『朝鮮教会史』をまとめたもの。
 厳重な鎖国体制下の1872年、朝鮮にあえて入国しそこで生活した欧米人、パリ外国宣教会所属の第5代ダブリュイ司教以下、宣教師たちからの報告を素材としている点で、極めて資料的価値は高い。




 著書『朝鮮事情』は以下、当時の「李氏朝鮮の社会」を細かくしっかりと観察している。

●ソウルは、人口が多い大都市であるが、見るべき建築物はなく、空気も流れないような曲がりくねった路地ばかりで、足元にはゴミが散乱している。道路を作る技術がほとんど無いため、利用しにくい道は商取引の障害になっている。

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            ソウル・南大門の見える風景

●役人の地位は売買されており、その地位を購入した人は、その費用を取り戻そうと特権を濫用して体裁を構うことなく行動する。

女性の地位については極度に低く、男性の奴隷や労働力となっているだけで、また学問については、書物はすべて中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語でなく漢語で、歴史に関しても朝鮮史でなく、中国史ばかり研究しており、科学技術については数世紀の間、全く進歩していない。

●朝鮮人の衣服については、白衣が一般的であるが、多くの場合、汚れて色変わりしており、富裕な者でも不潔なことが多くて朝鮮人の特徴であろう。

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             街頭で商いをする女性たち

●朝鮮は187172年には酷い飢饉におそわれ、朝鮮人の中には娘を米一升で売る者も現れたほどであったが、朝鮮政府は己の利得のみのために、鎖国を固守し中国や日本からの食料買い入れを許す事無く、むしろ国民の半数もが死んでいくのを放置する道を選んだと伝えている。

●朝鮮では、人々が非常に高い声で話すので、人が集まると特に騒がしい。大声で叫ぶことは、物腰が上品である証左となる。
 社交界では、普通の声で話すのは、人の注意を引こうとしている変わり者だと思われ、他人からは悪く見られる。朝鮮人が
大声で喧騒を好むのは、先天的である。
 彼らの間では、大騒ぎして初めて物事が正されるのである。

●朝鮮人は、男女とも生まれつき非常に熱情的であり動物的である。
然し真の愛情は、この国には全く存在しない。
 彼らの熱情は純粋に肉体的なものであって、
そこにはなんら真心が無い。

●彼らは、自分自身の欲望を満足させる為、手に届く対象には何にでもやたら飛びつき、
あの動物的な凌辱、欲望の獣的本能以外は知らないようだ。
 従って風紀の腐敗・乱れは想像を絶し「人々の過半数は、自分の真の両親が誰なのかを知らない」と大胆に断言さえ出来るのである。

この国では如何なる宗教的、道徳的拘束が有っても、欲望を抑制することは不可能なのである。
 風習と物質生活上の必要ゆえに、貧しい人々、即ち人口の半分がしばしば貞操観念を忘れるように強いられているこの国
では、今後どんな方法で、この不貞観念に対処出来るのだろうか?


 一人旅をしている女性が旅宿で夜を過ごしたりしたら、見知らぬ者の餌食になることは間違いない。
 時には男の同伴者がいる時でさえ、男がしっかりと武装していなければ、彼女を十分に守ることはできない。


●売春が白昼あちこちで行なわれ、男色やその他の自然に反する犯罪が、かなり頻繁にある。

 街道筋では、至るところの村の入口に、身分の低い娼婦が焼酎の瓶を手にしており、それを旅人に供している。
 大抵の男たちが足を留めて、彼女たちに歌を歌わせたり、一緒にふざけ合ったりする。
 仮にある男が彼女たちを無視して通り過ぎようとすれば、彼女たちはためらわずに男の服をつかんで足止めする。


●朝鮮人は一般に、頑固で、気難しく、怒りっぽく、執念深い。
 それは、彼らがいまだ浸っている半未開性のせいである。
 彼らは
、怒りっぽいのと同程度に、復讐心に満ちている。
 例えば、五十の陰謀のうち四十九までが、何人かの陰謀加担者によって事前に暴露されたりする。


異教徒(在来仏教)の間は、なんらの倫理教育も行なわれていないし、キリスト教徒の場合でも、教育の成果が出るまでには時間がかかるだろう。


●殆んど全ての子供は、九歳か十歳まで、あるいはそれ以上になっても、夏のあいだは裸のままで過ごすか、腰までの小さな上衣を身につけているにすぎない。
 大人が不断の怒りを笑って済ませるから、
子供たちは、殆んど躾や懲罰を受けることもなく成長し、成長した後は、男も女も見さかいのないほどの怒りを絶え間なく爆発させるようになる。


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             ソウル・鐘路での子供たち。


●これらはほとんどいつも、個人的な恨みを満足させるためのものであったり、少し辛辣な言葉に対する仕返しのためであったりする。
 敵対する者たちへの頭上に懲罰を加えることができるならば、自分が罰せられることなど、彼らにとっては何でもないのである。

●朝鮮人を、無気力で臆病だとは非難できない。
 彼らは、必要な場合には、答刑や杖刑その他の刑罰を、全く平然と耐え忍び、いささかの感情も外に出そうとはしない。
 そして、病気の時でも耐え忍ぶ。彼らには、肉体を鍛練する多くの趣味がある。
 例えば、弓術や狩り等があり、決して疲労のために屈することはない。


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                刑を受ける犯罪人

●しかし不思議なことに、軍隊に関しては非常に弱く、彼らは重大な危険があるとさえ見れば、武器を放棄して四方へ逃亡することしか考えない。

●多分それは、訓練不足か組織の欠陥のためであろう。
 有能な将官さえいれば、朝鮮人はすばらしい軍隊になるだろうと、私たちは確信している。

●適切な季節に十分に計画を練って虎退治をすれば、この動物を多く捕殺し、残りを人のほとんど住まない大山脈のなかに追いやることができるであろう。
 人びとは、当面の危険を排除することしか考えず、将来のこととか全体の利益とかには何も気を配らない。

●朝鮮人は、金儲けに目がない。金を稼ぐために、あらゆる手段を使う。
 彼らは、
財産を保護し盗難・詐欺を防ぐ道徳的な法を殆んど知らず、ましてや遵守しようともしない。
 また、守銭奴は殆んど居ない。居るとしても、富裕な中人階級か商人のあいだに居るにすぎない。
 この国では、現金の二、三万フランもあれば金持ちだといわれる。

●一般に彼らは、欲深いと同時に、無駄づかいも多く、金を持てば余す事なく使ってしまう。
 金さえあれば、豪勢な暮らしをすること、友人をよくもてなすなど自己の気まぐれだけで生きている。


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              ソウル市街の喧騒ぶり


用事の無い数多くの人びとが、常に街道に出てきては好機を狙っている。
 ここに無くても他所では出くわすかもしれない、何か宝物でも見付かるかもしれない、まだ見つかっていない何か高価な資源が発見できるかもしれない、何か金を稼ぐ新しい手段を思い付くかもしれない等と常に期待している。
 或る地域などでは、住民の半数がちゃんと定住しておらず、貧困から逃れるために一、二年もすると移住し、少しするとまた移住し、同じことを繰返しながら住み易い場所を探しているが、ほとんどいつも最悪なものに出くわしている。



この記事に


明治9年(1876)「宮本小一外務大丞・朝鮮国京城に行く」

 
明治9年(1876)6月、日本政府は宮本小一外務大丞の朝鮮国京城(ソウル)への派遣を修信使に伝えた。日朝修好条規第十一款に基づき、条規付録ならびに通商章程を協議締結するためである。


 宮本小一は、後に「朝鮮政府接遇記略及風俗概要」なるものを提出しているが、朝鮮国の衣食住や人々の風俗が興味深く描写されており、更に日記録である「朝鮮理事日記」と同行した陸軍士官の報告である「朝鮮紀行」文と共に、その中から風俗に係る部分をまとめたものである。

 
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       「軍艦・浅間」にて7月15日釜山・草梁着。

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      上陸した江華島鎮海門から対岸の通津府側を望む。

   以下、宮本小一の朝鮮見聞録である・・・

●医療を行う・・
 軍医が現地の人間に医療を施していることが知れると村民が次々と来る。余りの多さに煩らわしさを覚えるぐらいであった。ある村民の夫人が病に困っているとのことで診察を乞うたが、婦人に対しては朝鮮官吏が拒んで許さない。聞くところによれば、婦人の場合は医者が直接触れるのを忌み、壁を隔てて患者の手首に糸を結んで、脈を診て薬を与えるという。実に未開の奇異なる風習である。


●東莱府で・・会場である宴廳は建物は立派だが、壁画は剥がれ落ち、門は傾き庭は荒れ、すでに荒廃してから久しいようだった。あらかじめ掃除をして幔幕を張ってあったが、その粗末さを隠す苦心が思いやられた。
 テーブルに椅子席で、甚だ粗末な文台のような盆に食事が盛られていた。蜜、酢醤油、鶏卵、鶏肉、生魚、乾し魚、牛肉、豚肉、餅、菓子、瓜、林檎、スモモなど計13品だった。酒は焼酎である。陶器の多くは日本製である。
 その後、府使を浅間艦に招待して軍事調練を見せた。


●陸路、京城へ・・

日本側一行には、朝鮮側の迎接官や槍持ちや「令」の旗持ちと楽隊など総勢七十四人が同行する。
 乗り物は、宮本小一のみが「双駕馬」という2頭の馬に乗り,他の日本側随員も馬に跨って行く。
 この輿は正二品以上の身分のものしか使うことが許されないものであり、これをもって格別の優遇であると言う。しかし輿の塗りは剥げ落ち、装飾は毀損していた。行進中は時々楽隊が歌い演奏をした。


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         「双駕馬」で行く宮本一行の想像図。


 地方官が先行して、各家の戸を閉じさせて見物を禁じている。時おり官憲が、集まって見物している人々を鞭をもって追い払う。なんとも大変な喧騒である。
  道が狭い上に輿を支える側人が多くて混雑するので、京城からの帰路はこの輿を辞退した。それで朝鮮政府は「手輿」を用意した。これは人間が担ぐものであったが、輿の中は狭くてやっと体が入れられるぐらいのものであった。

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             「手輿」 (1900年頃)

●京城に至る道路事情・・
 この間の道は1等の官道のようであるが、それでも道幅は6尺(2m)前後に過ぎない。至るところが凸凹であり、荷車・馬車の往来が出来ない悪路である。
 また、橋は土橋が多くまれに石橋がある。板橋は見ない。小川の橋が壊れている場合は両側の土手をせり出してそこを人馬とも飛び越して通っている。
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     清の官吏一行が、清国旗と思われる旗を立てて朝鮮の道を行く


●井戸、泉水について・・
 浅間艦が仁川府所轄の済物浦で給水を求めたが、干天のため水が乏しかった。こちらの水夫らが朝鮮人と共に井戸を掘ると、4尺(1.2m)あまりで清水が噴出した。

 人々は小井戸あるいは溜め水を用いるのみで、本年のように旱天の時にもなお手を拱いて、ただ渇水を憂えるだけで、自ら労力して水を得ようとする者が無い。かえって日本人によって良井戸を掘って教えるのは、哀れみさえ覚えられる。
 全体に井戸、泉水が乏しい。井戸の深さも3、4尺に過ぎず、汚濁不潔を嫌わない風俗であるから、枯れなければそれで事足りるとするようだ。
 我が水兵達は淡水を求めるのに大変な苦労をした。山に入って鉱山を拓くかの如く各所で井戸を掘り泉水を求めていた。


●宿泊、休憩施設について・・
 朝鮮国には旅宿というものがなく、公務ある者の旅は各府衙門(官庁のこと)に泊まり、平民は旅先での適当な民家を宿としている。

日本のように庶民が行商や神宮参拝旅行をするということも皆無なのであろう。もっとも、朝鮮には景色を楽しむ名所が無い。更に「この度、入京してその実情を目撃したこの国の至るところ駅亭の設けて無く、旅人らは路次の民家に投宿し一飯で飢えを癒し、僅かに雨露をの逃れるのみ。その家屋は概ね豚小屋、牛舎のそのままなり」
 通津府の衙門
(官庁)にて休息をしたが府使が来て慰労してくれる。彼は汗が衣を濡らすのも忘れて動き回り、お膳を出して饗応した。それは東莱府使の宴饗よりも一層丁寧なものであった。

この衙門は小さいとは言え、綺麗に洒掃してあり、床には新しい敷物を張り、外には外燈を懸け、簾を垂らして宿泊の備えをしていた。


●糞と牛骨が散乱する王城市街「京城」

 京城は大河(漢江)の上流にあり、王城城壁は山の中腹に渡っているが、その地は狭くて人家が密集している。およそ3万戸以上はあろうか。
 城郭には門が八ヶ所ある。構造が一番壮大なのは崇禮門である。方位から言う場合は南大門と称する。
 門内に入れば西北に一大街路がある。幅は20m余りである。
 市街は大抵瓦屋根の家である。しかしその構造は甚だ雑であり、なおかつ路の両側に狭小なる藁屋が列をなす。ゆえに街路の幅を狭くし、またその不潔なことは例え様がない。


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      南大門(崇禮門)城外側 明治21年(1888)


 汚水が道路の中央に溜まり、牛馬の糞がうずたかく積もり牛骨が散乱している。しかし誰も掃除する者がない。夏であるから一層の臭気が一面に漂っている。
 その他の道は、23間(45m余り)で、凸凹を修繕するということがない。道路端の溝梁はない。

 人家が道に出っ張っていたり、引っ込んでいたりが並んでいて、頗る不整である。
 王宮は壮大である。しかし庭には雑草が生い茂っている。一切掃除をしたことがないようだ。
 
●建物について・・

 京城での宿は、城郭外西にある盤松洞中軍営の清水館という所であった。(後に隣の天然亭と共に日本公使館となる)
 敷地はおよそ千坪。建物は百坪ぐらいで皆瓦屋根である。館の周囲には竹垣を設けてそれに幕を張って巡らせ、外からも内からも展望できないようにしてある。館の前面には広さ千坪余りの池があって蓮の葉がまばらに生えていた。
 敷地内に井戸はなく、門外の井戸を使う。ここでは水は良質多量であった。

 室内の壁は新しく紙を貼り、柱や梁なども新しく青色や白色で画彩してある。
 「花紋席」と称する薄いむしろが敷いてある。椅子、小さな屏風を置き、紅紗布で覆った行灯を2、3個置く。皆、朝鮮国においては善美をつくしたものと言う。
 部屋は狭く、数人を収容して、机と椅子3、4個を置けばもう余地は無い。
 紙障子は高く吊り上げてあって夜も下ろすことがない。そのため夜雨や朝露を防ぐことが出来ない。
 寝室は壁に竈
(かまど)の穴のような小窓をあけて光を入れ、それに竹の簾(すだれ)を垂らしてある。ゆえに蒸し暑いこと甚だしい。

 庭には、築山泉石の飾りは無い。邸内はわずかに柏の老樹が門のところにあるだけである。なんとも風雅の無い邸宅である。朝鮮全般いたる所でそのようなものであると言う。


●風呂場と便所について・・
 途中の各官庁には風呂というものが無かったが、ここ清水館では日本人のために風呂場が新設されていた。その広さ10坪ほど。湯を汲み入れて使うが頗る爽快であった。

 また、便所も数箇所仮設してあった。これも日本人のために作ったと言うが粗末な藁葺きで不潔であった。日本人のためにこのように浴房を設け、数箇所の便所を作ってあるが、これは京城近傍では稀なる風景だと言う。
 途中の宿には敷地の一隅に便所が設けられていたが、頗る不潔で堪え難かった。

また部屋に銅製の蓋付きの缶があり、通常はこれで用足しをするという。

 普通、朝鮮の民家には一切便所がないとも言う。
 その為か、いたる所で糞尿の臭気が甚だしく数万の蝿が飛び交い、部屋にも満ちて煩わしく、耐えられない程である。雨が降る日にだけは流されて臭気が治まる状況。
 ここでは蚊および蚤はまれであった。しかし、浅間艦から士官3人が連絡のために仁川から来たときに民家に宿泊したが、おびただしい蚊と蚤のため、遂に一睡も出来なかったと言う。

 
●護衛朝鮮兵の様子・・

 清水館には、朝鮮兵が2300人ぐらいで護衛をしている。
 事務官と兵士の上官、下士官には休息所が設けられているが、他の兵卒は別に屯所もなく、館の内外のいたる所に筵
(むしろ)を敷いて座ったり、あるいは樹木の下に居たりして、それで苦にしている感じではない。殆んどまるで犬や羊の扱いで、雨の日は甚だ困難であろう。

 更に、糞尿をそこらあたりにするので、臭気や不潔さはこの上ない。しばしば催促して掃除をさせた。

 日本人のために朝鮮の護衛兵の中から使いの者を選んでいる。これを「房守」と称す。
 時々、下士官が来て働きぶりを調べて指図している。その交代の時には、下士官が帳簿を持って室内にある調度品などを、紛失が無いか検査して交代するという規則になっていた。


●食事のこと・・

 食事は1日2回で、たいてい10種類から178種に至る。三尺四方ばかりの有脚盆に渦高く盛り上げて、倒れ落ちるのを恐れるばかりである。
 牛豚鶏魚の肉、草餅、吸物などをみな器や皿に盛る。しかし臭気がひどく箸を下す者が少ない。
 ただ桃李、林檎、瓜などは臭味がないので食べられる。沙果・・林檎に似て頗る大であるが美味ではない。マクワウリ、葡萄、西瓜、梨の類が多い。
 水煮の卵、牛肉、豚肉、鶏肉、麺、カラスミ、乾し魚を削ったもの、或いは日本人のためにと焼き魚も出した。蜜を湯で溶いてミル(海草)と煮餅をあえたものなど。それらが、1人に対して実に10人前分ほどもある驚くべき量であった。

 炎熱の時節でもあり、その異様な臭いに堪えきれず、胃腸も慣れないこともあって食傷を恐れて箸を置く者が少数居た。(宮本たちの食事はいわゆる宮廷料理と思われる)
 なお、庶民のものは不潔で食べるべからずと言う。


●味付けについて・・

 胡麻を多産するので、ごま油をもって百食の調味の元とすると言ってよい。
 また、大体のものは胡椒と唐辛子を加えて調理しており、この2味を用いないものは無いも同然である。それゆえに朝鮮人は咽喉への刺激により、一種の咽喉の病気を受ける者が多いと聞く。

 醤油は上品下品とあって、極上品は日本製になるが、値段が高すぎて容易に得ることは出来ないと言う。下等品は不味くて食せない。味醂はない。砂糖も無いので蜜を代用している。


●酒類について・・

 酒はほとんどが焼酎である。王城での賜饌での酒も焼酎であった。強すぎて呑めない。(宮本小一外務大丞の言。)
 焼酎は良い味で飲める。琉球の泡盛に似る。しかし、強すぎて酒杯になみなみと盛って飲む者はいない。(陸軍大尉 勝田四方蔵、陸軍少尉 益満邦の言)
 米の醸造酒はあるが、酸味が甚だしくて呑めない。


●膳台や食器について・・

 盆や膳類は漆が剥げ落ち、垢がついて全て不潔さを感じた。
 磁器皿の類は日本伊万里の下等品および呉洲のものが混じる。朝鮮製のもあるが質が厚くて粗雑で石のように重い。彩画はなくて青白色の上薬を用いるのみ。しかしどれも汚れたような不潔さを感じる。
 酒(焼酎)は土瓶に入れている。杯は日本製もあり、朝鮮製のもある。

 彩画した皿や金銀の器は無いが、国王の賜饌の時に添えたる銚子は徳利形で、杯は薄いこと葉っぱのような銀製で蝙蝠の絵が画いてあった。
 また、醤が入った磁器壷には石榴の模様が淡青で描かれていた。これらは支那の品に似ていて、おそらく朝鮮製ではないだろう。

 銅の箸で食事をする。箸が重くて物をはさむのに不自由である。

 牛豚鶏魚の肉も、調理をきちんとして器や皿を清潔にすれば、もとより食べられるものとなると思う。
 日本人がこの国に来た時、まず食べ物に注意すればするほど、飢渇の患いを免れられないであろう。


●米穀・・米は日本のものと似るが、粘質に乏しく日本の下等品よりも劣る。


●茶の湯・・ 茶(緑茶)は無い。
 干した生姜の粉と陳皮(蜜柑の皮を干したもの)を砕いたのを煎じたものを「茶」としている。貴人はこれに人参(朝鮮人参)を入れて人参湯と称する。つまり煎じ薬を飲むにも似ている。


●菓子について・・

 菓子は、小麦粉を練って胡麻をまぶしたものであり大薬菓と称する。米を固めて作った日本の「おこし」と同じ物がある。紅白の色に分けてある。
 棗
(ナツメ)は極めて大きく、蜜を練って衣とし松の実を貼り付けて皿に盛ってある。
 餅に豆の粉をまぶしたものもある。稀に、日本製の片栗の菓子も見る。
 日本の漆塗りである春慶塗の重箱を尊んで菓子を盛って出してくれた。


●夏でも氷がある・・
 金浦(ソウル郊外)より東は夏でも氷がある。氷は冬に漢江で取り、これを氷室で多量貯蓄しているようだ。泥がまじっているのがあっても注意して飲食すれば害があることはない。
このたびの炎暑酷烈で耐え難い暑さも、氷水によって冷を得ることができた。


●官妓の舞・・
 王宮で朝鮮国王謁見の後に宴禮を受ける。賜饌の時に舞楽があった。数人が楽を奏す中に156歳の女子3人が舞う。太平楽、興民楽と言う。

頭に異様の冠を戴き、赤色の紗の大袖長裾の衣をまとい、手に割竹、数珠、太鼓を持ち、その容姿は絵画に見るところの天人の如し。
 この楽は久しく支那においては絶えたものであるが、朝鮮には残っており唐の時代から伝えて今日に至ると言う。その古風を失わざるをもって誇ると言う。

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                官妓の舞

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               官妓と楽人

●名勝に乏しく見物を嫌う・・
 山々は、花崗岩質の土砂多く所々斑に青草が生えている。また、老松がまばらに立っている。禿山が多いからその風景の風情は乏しいものなっている。

 三角山(北漢山)と称する剣鋩の如き山あり。王城の鎮たり。有名な山のようで朝鮮人の会話によく名が出てくる。
 村家や部落の地は樹木少なく、垣根なく、隠すものが無いので市街から遥かに見渡すことが出来る。

 市街の一般民家は朝鮮政府の命令によって悉く門戸を閉じていた。十字路の所ははるか遠くに縄を張って一般の人の通りを禁じていた。故に王宮に参内する時に通ったときは、道路は粛然として庶民の姿を見ず、ただ建物の戸の隙間からじっと見る目が沢山あるのが分かる。
 このような状態であるから、我々一行が門外に外出しようとするなら、まず朝鮮官吏らが引きとめて、外出してくれるなと乞う。学校や貧民院や病院などを見学したいと言っても、見るに足らずと言って制止する。或いは、そのような施設は無いと言って一歩も外出させようとしない。

 「薬水」(奨忠洞)は、「ここから2キロばかりの所に樹木鬱蒼と繁り、渓流清冷にして最高の避暑地があるのでこの地に遊ばれたらよい」というので案内された。
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   迎恩門あり。支那より勅使の来るのを国王がここで迎える。


 市街を横切り「迎恩門」外の山麓にあった。しかし、背の低い松がまばらに生えた狭い谷があるばかりで、清水と言っても岩石の間から水が滴り出るぐらいの景況で、あたかも乞児の棲居する所の如し。
 皆、裏切られた気持ちで驚いたり悔やんだり憤慨したりして、他の場所に行こうとしたが、朝鮮の護衛兵がしきりに遮り拒むので止むなく館に戻った。

 これでも、朝鮮人の話題にこの薬水のことがしばしば出るところからも、これをもって京城の風景名所に乏しいことを推察できよう。 このように3度ほど日本人一行が門外に出、又海軍士官が連絡のために浅間艦から往来し、そのつど市街の人民は居家を閉ざしたり往来を止められるので、その面倒さは実に苦であったろうが、遂に朝鮮王の特命が出て、それらの制限を廃したと聞く。


樹木・風景について・・

 京城近傍の草木は寒地であることもあって、特別に珍しいものは無かった。
 檜、杉、梅が無く、竹や棕櫚も無い。しかし柏、合歓の木が所々に野生している。
 また各所に多く松を見る。この国では松が多いと見えて松の実を食用によく用いる。

背が低くて横に曲がったものが多い。直立して天を指して伸びているのは稀である。
 朝鮮の南部ではほとんど松は見ないが、釜山草梁公館には元禄時代の頃に松を植林したので鬱蒼と繁って風濤洋海を航するが如し。
 釜山、江華府、京城、夫々の山に草木が繁るのに不適のようである。周辺は禿山が多く遠望すれば黄赤色の地面が斑々としてその観は美ならず。
 家屋の建築には松材以外に無い。
 草木が少ないということは、樹木を愛玩して植林する人も居ないということである。
 京城に花屋というものがない。人が植えた花木というものも無い。

 柑橘類の木はいよいよ無い。蜜柑を朝鮮では殊更に珍なるものとし、毎年冬至の祭りに日本から求めて国王自らこれを食するのが行事という。故にこれを尊重し、かつて黒田全権大臣が朝鮮に来たときに、冬であったから大量の蜜柑を持っていったが、朝鮮側もこれを殊のほか嘉賞したり。
 朝鮮修信使が東京に来たときに初めて枇杷の実を食したが、これを甚だ賞した。
 修信使らは日本のことを賞するのに、「建築が盛んであり、草木が多い」と言う。これによっても朝鮮には草木が少ないことを知るべし。

 桜は釜山にある。対馬の人が植えたものなれば、朝鮮固有のものではない。京城近村で一本あったのを見たことがあると人の語るのを聞いた。しかし、開花の時でないから確認はできてない。


●田園地帯・・

 土地は痩せていないようである。丘陵は雑木ばかりであり、開墾をしたこともあるが村民が怠惰(なまけもの)だからついにそれも止めたと言う。
 夏は雨が多いと言うが、本年は旱魃とのことで稲の水田がひび割れていた。畑には大豆が多く植えてある。黍
(きび)、稗(ひえ)、甜瓜(マクワウリ)、ささげ(豆の一種)、胡麻、綿花、西瓜、南瓜、トウモロコシ、タバコなどを作っている。干天のために多少の損傷を受けているようである。
 男は耕作をやり女は乾飯を運び、耕牛は所々につながれて、その光景たるや日本の田舎と同じである。ただ田畑の並びが日本に比べて不整列であった。


●市場と産物・・

 大海から直接船が来て魚介を運ぶことは無いようである。魚蝦は海から遠いので乏しいようだ。もっとも朝鮮人は、牛豚類を重用して魚介を賞しないようで、魚類は多く見ない。
 野菜などは、通常の種類がある。しかし、浅間艦が一度に多量の数(船員約250人)を求めたが、すぐに得ることが出来なかった。都外はもちろん都内でも魚市の取引は、常に閑寂たるを知るべし。

 薪柴も乏しい。家屋の床下にかまどを設けてそれを燃やし、温暖にしてその上に座して冬の寒を防ぐので、そのために極めて多量の燃料を必要とし、山々はそれがために禿山となっている。

ゆえに薪柴は貴重品である。
 石炭は、修信使がかつて我が国の汽船に乗ったときに初めてそれを見たと言う。後に帰国してから山中に石炭を見たという。しかし掘る方法を知らないと言う。


●一般の民家・・

 その家屋は石と泥をもって建設し、稲藁を葺いて屋根としている。茅は焚き火の用に使うという。窓は小さく、大人が家に入って立つことが出来ないようだ。大方の家は「床」というものが無く、土の上に藁むしろを敷いて座す。その狭さ不潔さといい殆ど穴居の類である。
 そういう家が表裏の別なく密集し、路地には乱石が散乱して、ほとんど足を踏み入れることが出来ない。村の中央の家に行こうとするには、どの路地をどう曲がっていけばよいのか分からないぐらいの迷路である。
 寝起きするのも容易でないような家の中にはわずかに1〜2の炊具を見る。
 ただ、日本人の眼に入るのは、貧家に不釣合いなほど大きな黒色の磁器甕
(かめ)がどこの家にもあるということである。これは木の樽が無いゆえの水を溜める甕(かめ)であろう。質は頗る堅牢である。


●庶民の姿・・

 村民は粗食に甘んじ閑寂に耐え、人間世界は斯くの如しと思うのみで、悠々として歳月を送る風潮がある。奔走して労働し寸陰を惜しんで急するという気性は無い。
 長煙管をもって煙をくゆらしながら余念無く日本人を見つめる姿は、山静かにして日長き殆ど太古の少年の如しである。

●王と庶民の衣服について・・

 朝鮮王(高宗)の衣服は、美絹にして桃紅色の礼服である。胸に袞龍(こんりょう)の如き金襴がある。冠は紅黄色の唐冠に似たものである。
 重官は、松葉色に双鶴の刺繍模様ある礼服である。
 庶民の服は木綿白色である。富貴の者は「紬
(つむぎ)」を用いる。
 庶民の場合、男女の服装は大して変わらないように見える。
(かつて黒田全権大臣は釜山草梁において一般男女の区別がついてない。)
 染料はまだ無いようである。縞小紋の類は全くない。赤、紫、橙、黄など人の目を悦ばす色も見当たらない。
 婦人などで色のある服は時々見るが、支那か日本から輸入したものである。
 近来、日本から染料を輸入しているから、漸次これを用いるようになるだろう。

●雨具・日除け・・

 炎天下、日光を遮る傘の類がない。故に如何なる炎天であっても帽子なき者は天日を避ける術が無い。
 雨傘は粗末なものがあり、頭だけを覆う油紙の扇のようなものがある。雨が上がれば畳んで懐中に入れる。

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        町の露天商 (客は日傘を被っているらしい)


●家畜 馬、牛、豚など・・

 朝鮮の馬は日本の在来種よりはるかに小型であり、時として「大馬」と称せられる馬ですら日本のものの8〜9割ぐらいの背丈しかなかった。
 馬具は日本古式と同じである。日本蒔絵の鞍を賞美する。

牛は肥大している。大方、野に放って随意に青草を食べさせているのでよく育っている。
 浅間艦が牛1頭を買い求めたが、韓銭何貫文で値7円に相当したと言う。朝鮮人が牛を繁殖すれば貿易の一助ともなろう。

 豚は、普通の種類である。鶏はチャボの種類である。 山羊、羊の類は見ない。
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                 朝鮮の馬・・

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                田園風景・・

●細工・工芸・・
 細簾は朝鮮人の工の最も精妙なる技術品である。竹を糸のように細く削って製し、黒漆を塗って雷紋のようなものを画く。極めて価値あるものである。
 団扇(うちわ)は全羅道で製す。団扇の骨は細く何百筋も入れている。色は、紅、黄、青の三種がある。紅色の品は光沢があり最も美しいものである。
 扇も多く産す。油紙で片面を作り裏は骨が見える物である。極めて大きいものもある。

扇の要に紐を通して奇物を下げてこれに工夫を凝らしている。
 筆は毛が硬いが良く出来ている。
 墨の形模様は雑で銀泥などの装飾も完全ではないが、墨質はとても良い。

 梳き櫛を多く作っている。朝鮮一の産物と言ってよい。


●朝鮮国の徽章・・

 時として、団扇の中央に二つ巴のような紋章を画きだす。
 これは、朝鮮国政府の徽章とも言うべきか。各衙門
(がもん=役所)の扉やその他官府に係る物品の多くはこの紋章を画いている。


●製紙・・

 紙は楮(こうぞ)を原料にて作る。日本のものより厚くて強靭である。薄く美白色に製する方法をまだ発明していないようである。その値段は日本に比べれば高い。ただし楮での紙があるのは日本と朝鮮ぐらいと思われる。

●いいかげんな性格の風習・・

 時間を守ることをしないのは朝鮮の国風である。そのことを気にする者はいない。公務などにおいても同様である。
 対談をしていても詐偽をもって答えたり、去ることを言わないまま帰ったりする。甚だしいのになると、話の途中で立ってどこかに行ってそのまま戻って来ない。皆これらは朝鮮の風習である。


●気候・風土病・・

 一日の温度差が激しく、20度ぐらい差がある。(一行の京城滞在は730日〜826日まで)
隊員に病人が多くなってきた。これは気候が不順なことと食料の粗末なことに原因があると思う。

 帰国する頃には、京城に行った者は半数が病人である。重症の下痢の患者が多い。

患者の一人(金子鉄蔵)が医官の治療の甲斐なく死亡した。(高熱を発して嘔吐を繰り返し心停止に至る。赤痢の症状に似る。氷水による飲食が原因とも考えられる。又、奥義制書記官が重体となり、帰国後長崎の病院に入院して一命を取り留めている。)
 この病は一種の風土病でかつて台湾で流行したものと同じ種類であろう。また朝鮮は悪性の熱病も多いという。
 浅間艦に居た者も下痢や脚気になった者が多い。
 今後、朝鮮国に人を派遣する場合は、予防法に注意すべきを要す。


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