まずは、憲法改正 !!

コメント・TB許可制開始。荒らし・宣伝は闇の向こうへサヨウナラ !!

その他

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索
皆様の助けにすがり娘の鮎子の命を救って頂きたく、難病認定の署名をお願いしてます。
リュウマチを患った車椅子の私を、20年間手となり足となって助けてくれた、愛しく、掛替えない娘の命を、いま「再発性多発性軟骨炎」と云う恐ろしい病が奪おうとしています。
難病認定の為のお願いです。友人である母親の言葉を読んで下さい。そして貴方の日記に転載お願いします。

この病は100万人に3人の発症率で、全国に293人の患者さんが苦しんでいらっしゃいます。
患者さんの中にはまだ幼い子供もいます。
難病と認定されていない為に、原因も治療法も解明されていません。
そして多くの患者さんは、月額約20万円の生物学的製剤を投与する事になります。
精神的にも、経済的にも、肉体的な苦しさに加えて負担を強いられているのが現状です。
この額は私には無理です。
鮎子も病をおしてアルバイトを始めました。
難病と認定されれば、治療データがくまなく調査され、治療法と医療技術・医療設備の向上、医療費の自己負担の軽減などが期待できます。
現状は、原因不明で明確な治療法も確立されていません。
現在2年間で、患者さんとその家族が支援団体の方々と力を合わせ、10万人の署名を集めましたが、難病と認定される為には50万人の署名が必要なんです。
このペースでは認定までにまだ8年も掛かってしまいます。
私は待てません。
その間にどのように症状が進行していくか?
鮎子本人だけでなく患者さんはみな不安な毎日を過ごされています。
この病は、軟骨組織や多くの器官の結合組織に、痛みを伴う破壊的な炎症が見られる病気です。
器官の構造を支えている軟骨組織が侵され、視覚、聴覚、平衡感覚の障害が現れ、さらには、気道がふさがれたり、心臓や血管が重度に侵され死に至る病気です。
鮎子は平成22年に「再発性多発性軟骨炎」と診断されました。

鮎子には愛する人がいて、年内に結婚する予定でしたが、病が2人を引き離しました。
鮎子は彼を思いやり、婚約を取り消す手紙を送りました。
私はこの手紙を読み、声を出して泣きました。
娘は死に衣装はこの世では着ることがかなわなかったウエディングドレスを着たいと言います。
遺書もしたためています

私は娘が不憫でたまりません代われるものなら代わりたいお願いです、鮎子を助けてください

「再発性多発性軟骨炎」で検索すると署名用紙がダウンロード出来ます。
代筆で良く、FAXで送れます。
またネット署名も出来ます。

http://form1.fc2.com/form/?id=607552
病気で苦しんでいる人たちのために、私たちでできることから始めましょう。
MAN IN THE MIRROR」精神で。
 
イメージ 1

転載元転載元: 吉田明彦

皇室に対する敬称

皇 室 に 対 す る 敬 称
 
 
皇室の記事を作るにおいて、私も「ご皇室」とする場合がありましたが、これは無礼にあたることがわかりました。
皇の前に出る言葉は日本語にはないと。
 
記事である限り、無礼があってはならないと思い探してみました。
 
 
皇室に対する敬称を学ぶ。よりの引用記事です。
●『増補・皇室事典』(井原頼明著・昭和五十四年版・冨山房發行)
 
☆誤り易き用語例(×=不可)
○拝謁仰付けらる・謁を賜はる・賜謁。×拜謁を賜はる・御拜謁
○奉答(言上・奉送・奉迎など)した。×奉答申し上げた(字句重複)
○稜威(みいつ)。×御稜威
○皇族方の場合は、御參内・御伺候(但し用語上「參内あらせられ」等、御の字なしでもよい)。
○皇族方の場合は、御陪乘・御陪席。臣下の場合は、陪乘・陪席。
○陵名を申し上げない場合は、御陵または山陵と申す。多摩陵(たまのみさゝぎ)と云ふが如く、陵名を記す場合は、御の字は不要。
○劍璽。別々に申す場合は、寶劔・神璽。御劔(天皇の御佩刀)・御璽(天皇の御印)は、寶劔・神璽では無い。
 
 
☆「御」の字不要の例
○天の字のつく語(天覽・天機など)
○聖の字のつく語(聖慮・聖旨・聖徳など)
○叡の字のつく語(叡覽・叡慮など)
○勅の字のつく語(勅語・勅命・勅旨・勅使など)
○詔の字のつく語(詔勅・詔書・大詔・優詔など)
○宸の字のつく語(宸翰・宸慮・宸襟など)
○鳳の字のつく語(鳳輦・鳳駕など)
○玉の字のつく語(玉體・玉座・玉歩など)
○幸(みゆき)の字のつく語(行幸・巡幸など)
○啓の字のつく語(行啓・還啓など)
○下に御の字のつく語(出御・入御など)
○賜の字のつく語(賜餐・賜謁・下賜・賜物など)
○優諚・令旨・鹵簿・台臨・行在所・納采・臣籍降下・臣籍降嫁・祭粢料・觀櫻會など
○朝見・謁見・拜謁(皇族方にも御の字は不要)
 
 
☆「御」の字のつく例
○御親祭・御親拜・御親臨・御親裁・御親書(親臨・親裁などは、慣例として御の字なしでもよいが、その他はつけた方が宜しい)
○御告文(おつげぶみ。ごかうもんと訓むは不可。但し皇族方の告文および憲法告文・典範告文は、こくぶんと訓む)
○御祭文(ごさいもん。ごさいぶんと訓むは不可)
○御尊像・御尊影・御軫念(御の字なしでもよいが、つけた方が宜しい)
○御名代・御代拜・御沙汰書・御影・御寫眞・御像・御肖像・御統裁・御統監・御臨場・御野立所・御泊所・御宿所・御講書始・歌御會始(御歌會始でも差支ない)
○御陪宴・御陪食(天皇臨御あらせられ、御宴または御食事に陪席仰付けられること。但し皇族方が臣下への場合、「仰付けらる」とせず、「御陪食を賜ふ」と用ゐる)
 
☆一般皇族の敬稱
 
「皇族」とは、天皇を御中心として、其の御近親たる御一族にして、皇室(皇家=皇室典範上諭、皇親=令制に見ゆ)に屬せられる御方々を申し上げる。
 「皇族各殿下」・「各皇族殿下」、何れでもよい。殿下をつけない場合は、「皇族方」と申し上げる。なほ【御喪儀後は、正式には殿下の敬稱を用ゐない】が、普通には當分の間用ゐるを可とする。

○宮號
 皇族は何宮と申し上げ、一般では、皇族各殿下が事實上分れて御一家を立てさせられてゐるやうに解してゐるが、【皇族制度の御精神では、皇室は一家族】であらせられる。それでは「宮號」とは何であるかと申せば、たゞ甲の皇族と乙の皇族とを分別されるための御稱號であつて、御家名(御苗字)では無い。親王が御成年に達せらるれば、御稱號を宣賜の御沙汰があるが、これが一般で申し上げる宮號である。この場合に於ては、天皇が其の御方を御血統にお近い方々の御一團の御中心として認められ、宮號(宣賜の御稱號)を立てさせられるもので、民間の分家とは、全然異なるのである。

○御稱號
 正式には宮號を申すのであるが、なほ親王・内親王御誕生の場合、御命名と共に賜はる「御稱號」がある。これは御呼名(御幼時の御愛稱)とも申すべきもので、宮號とは全く性質を異にする。
一、宮號・御稱號
 例へば秩父宮は宮號、敦宮は御稱號。文書に記す場合、用語上、見出しには殿下をつけないで差支えないが、記事中には必ず殿下をつけるべきである。
一、御名
 例へば崇仁親王。直接に御名を記す場合は、必ず殿下をつけるべきである。なほ照宮成子内親王殿下と申し上げるが、照宮内親王殿下とは申し上げない。
一、宮號(御稱號)の起原
 今日では、宮號は天皇陛下より賜はる所であるが、古く宮號の起原について承るに、中世以降、皇族方の臣籍に降下せられ、或は佛門に入らせられること多きに及び、世襲親王家と云ふものが出來て、その御嫡流だけが御代々宮號を稱せられた。後世に四親王家と申し上げるのがそれで、伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮を申し上げる。當時、この四親王家以外にも、青蓮院宮・上野宮・常盤井宮などの宮家があらせられたが、これらは御自ら稱せられたもので無く、一般から申し上げた尊稱であるとも傳へられる。
 
 
☆「宮城」の御呼稱

○宮城
 東京の皇居を申す。「皇居御造營落成に付き、自今、宮城と稱せらる」(明治二十一年十月二十七日、宮内省告示)、「宮城」(大正十年八月一日、宮内省告示・世傳御料名稱)とあり、即ち【宮城は、皇居の固有名詞】である。「大内山」とも申すが、大内山は、もと山の名で、京都府葛野郡御室の北嶺をいふ。宇多天皇の離宮のあつた處である。往古、皇居を大内と申し上げたが、山の名も同じであつたから、遂に皇居の別稱となつたといふ。

○宮城の古來の御呼稱
 禁廷・禁中・大内・大内山・雲上・雲井・雲居・内裡・内裏・禁裡・禁裏・九重・九禁・百敷・大内裏・内・宮門・禁門・宮闕・禁闕・鳳闕・北闕・龍闕(闕は宮門のこと。今は轉じて宮中を申し上げるに用ゐられる)・皇城・帝城・鳳城・皇居

○宮城の御呼稱について
 昭和十四年十月、興亞記念日をめぐつて、「宮城遙拜」か、「皇居遙拜」か、一定してはどうかとの説が起つた時、宮内省一官吏は、次の如く朝日新聞(昭和十四年十一月十日)に發表した。「
 『宮城』なる語は、明治二十一年十月二十七日、告示せられたる東京の皇居に限つて用ひられる固有名詞である。從つて東京の皇居を指稱し奉る場合には、『皇居』といふ抽象的な普通名詞をもつてするよりも、『宮城』といふ固有名詞をもつてすべきであると考へる。
 『古例に依る固有の皇宮名の制定されるまでの暫定的稱呼としては、宮城よりは、むしろ皇居の方が穩當だ』と説いた人もあるやに聞くが、『宮城』こそは、現皇居御造營落成に際し、古制に據り沿革に徴し、勅定せられた固有の皇居名である。古來『宮城』なる語を用ひた文獻を擧げれば、『令義解』卷一の後宮職員令・『大寶律』の衞禁律・『延喜式』の左京京職・『三代實録』卷二十四の清和天皇貞觀十五年十月十六日の條・『朝野群載』卷十一廷尉の崇徳天皇得長壽院落慶に依り大赦を行ふ勅、等々があり、諸家の説としても、『拾芥抄』・『制度通』が擧げられる。近くは明治五年五月十四日、岩倉特命全權大使以下へ御委任状の中や、寺島大辨使派遣の御信任状の末文にも、『東京宮城』と用ひられてゐる。
 之を要するに、『宮城』なる語は、古より皇居の意味に用ひられて居つたことは疑ひない所であり、加之、現在に於ては、【登極令その他の諸法令をはじめとして、條約・勳記・御信任状・御認可状等、すべて『宮城』なる語を用ひられてゐる】ことは、今更ら申すまでもない所である」と。
 
 
今更ながら、わが身の無知を思いしりました。
ご参考になればと思います。
 
 
 

転載元転載元: 美しい国

 トルコ航空による日本人救出の詳細な経緯の後編です。



■1.「日本人の搭乗希望者数を教えてほしい」

事件当時、イランに駐在していた野村豊大使は、当時をこう振り返って、こう語っている。
__________
さて、フセイン大統領の言うタイム・リミットの前日の18日夕方、ビルセル大使(駐イラン・トルコ大使)から、「明日、トルコ航空機が2機来る。空席があるから日本人の搭乗希望者数を教えてほしい」という電話が来ました。

その頃は大分空襲が激しくなっていたので、在留邦人は郊外の温泉地のホテルや、テヘラン市内の高級ホテルの地下室等に避難していました。大使館員は翌19日の明け方までかけて手分けして邦人の居所を探し、希望を募りました。

そして19日の晩に2機、一つは19時15分、もう一機は直前の20時頃飛び立ったのです。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

野村大使はビルセル大使と家族ぐるみの付き合いをしており、それが、こういう際にもスムーズに連絡をとれた一因であろう。

ちなみに邦人が脱出した後も、野村大使と大使館員49名は現地に残った。


■2.「この任務を皆、喜んで引き受けました」

同じく、前日の夜、トルコ航空では日本人救出機の飛行準備を進めていた。機長のスヨルジョ氏は語る。

__________
このフライトの飛行命令が出たのは、前日の夜でした。翌朝に飛行ルートを決定し、準備をしてアンカラに飛び、アンカラで最新情報の取得や給油などを済ませ、現地へ向かうということでした。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

救援機に乗り込んだ客室乗務員でもっとも若かったキョプルルさんは、「イラク爆撃の話を聞いて恐怖心はありませんでしたか?」と聞かれて、こう答えている。
__________
私にとっては予定外の仕事で緊張しましたが、怖くはありませんでしたし、非常に有意義な業務であるため、興奮したことを覚えています。

当社では職務上の命令でも、危険な業務であると自分が判断した場合は拒否することもできますが、私たちは非常に規律ある組織だったので、各人が業務の内容を理解し、また、人間として他者を助けるということが大切ですので、この任務を皆、喜んで引き受けました。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

キョプルルさんはこの任務のことを夫には伝えたが、父母には心配させたくなかったので、話さなかったという。


■3.搭乗券を手にすると、歓声があがった

当時、東京銀行イラン駐在員としてテヘランにいた毛利悟さんは、こう回想する。

昼間チケットを求めてヨーロッパの航空会社の事務所を回り、チケットを入手しても自国民優先ということで座席の確保がなかなかできませんでした。そのうちに民間機撃墜の話があり、パニックのような状態になりました。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

そこにトルコ航空機が救援に来る、という知らせが大使館から入った。

__________
当日のテヘランの飛行場は脱出しようとするイラン人、外国人が一杯でしたので、いっせいに何千人という人が飛行場に駆けつけ、トルコ航空のカウンターの前にも長蛇の列が出来ていました。急なことだったので、着の身着のままの人も多かったのです。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

それまで、どこの航空会社も「自国民優先」ということで、日本人の搭乗を拒否していたので、トルコ航空のチェックイン・カウンターに並んだ人たちも、本当に搭乗できるのか、疑心暗鬼であった。

最初に並んだ日本人が搭乗券を手にすると、歓声があがった。懸念が安心に変わると、後に並ぶ日本人たちは逸る気持ちを抑えつつ、順番が来るのを待った。

特に家族連れの日本人は、実際に搭乗券を手にした時、「これで脱出できる」と、妻子を護る、夫として親としての責任を果たせたので、安堵の気持ちに包まれた。


■4.「飛行機に駆け乗る乗客を見たのは初めてでした」

救援機はDC10、当時のトルコ航空では最大の機種であった。緊急の救援要請にも関わらず、こんな大型機をやりくりしてくれたのである。

客室乗務員のキョプルルさんは、出発時の状況をこう語っている。
__________
エンジニアが飛行機のドアを開けると、飛行機へ駆け込んでくる日本人を見ました。飛行機に駆け乗る乗客を見たのは初めてでした。

私たちもとても緊張していましたが、皆さんはもっと緊張しておられ、その時に、早くお客さまを乗せ、一刻も早く出発しなければならないということを強く意識しました。

乗客の方々は皆、恐怖を感じながらも、テヘランを脱出できるという喜びに溢れていました。私たちもその感情を共有することができました。私たちは客室乗務員として、できる限りのサービスをしました。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

飛行機がテヘランに到着してから、217名の乗客を乗せ、ドアを閉めるまで、わずか30分程度だった。

日本人乗客らは、緊急の救援機なので女性乗務員はいないだろう、とか、食事や、まして酒などなくとも仕方ない、と思い込んでいた。
ところが、客室乗務員が全員女性、それも美しいトルコ女性がにこやかに普通の便と同じように出迎えてくれた事に驚いた。また食事も酒も出たのには、さらにびっくりした。

イスタンブルに着陸した時には、機内にお酒はまったく残っていなかったという。それだけ日本人乗客等は開放感に浸っていたのであろう。


■5.「ご搭乗の皆様、日本人の皆様、トルコにようこそ」

救援機が水平飛行に移って、しばらくすると眼下にアララット山が見えてきた。標高5165メートル、イランとトルコの国境に位置している。この山を通過すると、スヨルジョ機長はアナウンスを行った。

「ご搭乗の皆様、日本人の皆様、トルコにようこそ」

機内に大歓声があがった。日本人乗客たちは口々に叫んだ。

「トルコ領に入ったぞ!」「イランを脱出したぞ!」「やった! やった!」「万歳! 万歳!」

昨日からの一連の出来事が思い出され、いろいろな気持ちが一度に胸にあふれて、泣き出した人たちも多かった。殊に家族連れの日本人達は涙を浮かべつつ、なりふり構わず、喜びを爆発させていた。

■6.「我々は地獄から天国に来たのだ」

トルコのオザル首相に直訴して日本人救援機派遣を実現した伊藤忠商事・イスタンブル事務所長・森永堯(たかし)さんは、バスを仕立てて出迎えたが、アタチュルク国際空港に降り立った邦人たちを見て、驚いた。
__________
薄汚れた普段着を着て、ビニール袋に取り敢えずの生活必需品を入れただけの持ち物を持ち、子供の手を引いて、文字通り「着の身着のまま」という姿で現れたのである。

殊に子供連れの夫人達は、疎開地生活そのままという格好が、その苦労を物語っていた。お気の毒としか言い表せなかった。無理もない。疎開地から取るものもとりあえずテヘラン空港に駆けつけたのである。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

ホテルに着くと、シーフード・レストランでの歓迎大宴会が待っていた。イランではアルコールが禁止されていたので、よく冷えたビールを口にすると、みな「今いるのはイランではなく、トルコなのだ」と実感した。

世界三大料理の一つと言われるトルコ料理を堪能した後でも、邦人たちは「店先に並んでいる生カキが美味しそう」と言い出した。森永さんは、もう暖かくなってきているので、生で食べてお腹でも壊したら大変と止めた。

森永さんがオザル首相の補佐官からの電話に出て、無事の脱出を報告し、席に戻ると、なんとテーブルにずらりと生カキが並べられ、皆が美味しそうに口にしているではないか。彼らは言った。

「こんな幸せはない。我々は地獄から天国に来たのだ。カキに当たるなら当たってもいい。たとえコレラになっても、今までのつらい思いを思えば、ずっと幸せなのだ」

幸いにも、誰一人食中毒にもならず、翌日、全員、無事に日本に向かった。


■7.「あなたを独りにしておかない」

しかしテヘランには、600人を超えるトルコ人ビジネスマンがいた。当日、日本人救援の特別機の他に定期便がもう一機来ていたので、その便で100名程度のトルコ人が帰国した。

残る500名近くのトルコ人は、なんと陸路、つまり車で帰国したのである。テヘランからイスタンブルまでは、猛スピードで飛ばしても3日以上かかる。つまりトルコは自国民を遠路はるばる車で帰国させてまで、外国人である日本人に特別機を提供して、救出したことになる。

「こんなこと、日本だったら許されるだろうか?」

__________
私はそう考えると、まず怖れたのはトルコのマスコミの反応であった。

「外国人である日本人を優遇し、自国民たるトルコ人を粗末に扱った」と報道しかねない。野党がスキャンダラスにこの件を取り上げ、オザル首相批判を行っても不思議ではない。ましてやトルコ人は熱狂的な愛国者である。

私は固唾を呑んで事態の推移を見守った。しかし、それらは全くの杞憂(きゆう)であった。なんと、誰も問題視しなかったのである。トルコのマスコミ、そしてトルコ国民の度量の大きさに私は感銘を受けた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

武勇で鳴らしたオスマントルコは、日本と同じサムライの国である。トルコ人は「あなたを独りにしておかない」という。困ったあなたを放ってはおかない、という意味である。「武士の情け」と同じ心だろう。


■8.恩返し

森永さんは「トルコ航空にかならず恩返しをしよう」と自分に誓った。やがてそのチャンスがやってきた。トルコ航空が、エアバスの長距離大型機を2機購入したいというのだが、その資金がなく、15年もの延べ払いが必要であった。

当時、トルコのカントリー・リスクは高く、長期の信用供与をしてくれる企業はなかった。森永さんは「私自身が担保となり、支払い遅延が発生したら必ず取り立てる」と言って、関係者を説得し、ついにトルコ航空とのファイナンス・リース契約にこぎ着けた。

また、トルコ航空はイスタンブル=成田間の就航を強く望んでいたが、成田の発着枠は満杯であり、交渉は一向に進展しなかった。

森永さんは運輸省の高官に説いた。「日本人の為に、これまでに救援機など出してくれた国が、他にあったでしょうか?」「それでもトルコ航空の要望を、他の国の航空会社と同じ扱いになさるのですか?」

「そうだったね。そんな事件があったね」と答えて、その高官は、政府関係者を説得して回った。

こうしてトルコ航空の希望通り、成田への乗り入れが決まった。そしてなんと森永さんが斡旋したエアバス2機がイスタンブル=成田線に就航したのである。成田便は、トルコ航空のドル箱路線になった。心配されていた15年のリース契約についても、トルコ航空は1度たりとも、支払い遅延を起こすことなく完済した。

平成18(2006)年1月、小泉首相はトルコ公式訪問の事前説明で、トルコ航空によるテヘラン在留邦人救出事件の話を聞いて感激した。

そして、その年5月17日にテヘランで、トルコ航空の元総裁、元パイロット、元乗務員たち11名の叙勲を行った。通常、日本政府が外国人に対して行う叙勲は20名程度だが、この年はそれに加えて、トルコ航空関係者11名の大量叙勲を行ったのである。また、オザル首相はすでに亡くなっていたので、未亡人に小泉首相の感謝状が贈られた。

日本とトルコは、長く深い友好の歴史があるが、このトルコ航空による邦人救出は、その特筆すべき1頁である。

(文責:伊勢雅臣)




国際派日本人養成講座よりの転載

転載元転載元: 日本の素晴らしい歴史

トルコ航空による日本人救出の詳細な経緯を述べたいと思います。

■1.「頼む! 助けてやってくれ!」

伊藤忠商事のトルコ・イスタンブル事務所長・森永堯(たかし)さんの電話が鳴った。日本の本社からだった。相手はいきなりまくしたてた。

__________
イラクのサダム・フセイン大統領が、「1985年3月19日20時以降、イラン領空を通過する航空機は民間機といえども安全を保障しない」と警告を発した。

イランにいる在留外国人は一斉に出国しようとしている。在留邦人も脱出しようとしているが、乗せてくれる飛行機がない。

ついては在留邦人救出のために、トルコ航空を飛ばしてもらうよう、トルコ政府にお願いできないか?

彼らは危険にさらされているのだ! 頼む! 助けてやってくれ!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

1980(昭和55)年に始まったイランとイラクの戦争は、5年経ってますます激しさを加えていた。1985(昭和60)年にはイラク空軍機はテヘランの民間居住域を空爆するまでになっていた。日本人学校の先生宅の2軒隣に爆弾が落ちて5人の死者が出ていた。

さらにイラクのフセイン大統領は、イラン領空を「戦争空域」と宣言し、民間航空機もすべて撃ち落とすという、歴史的にも類を見ない声明を出したのである。


■2.日本政府は救援機を出せない

当時、テヘランにいた野村豊・駐イラン大使は当時の状況をこう語っている。

__________
在留邦人の生命財産の保護は国の主権として大使館の一番重要な仕事のひとつで、私の脳裏を一刻も離れることのない問題でした。外国は自国民が外国でクーデターや災害等に巻き込まれると救援機や運搬機で自国民を救出する慣例がありますが、日本は55年体制論争が続いており、当時、救援機や政府の専用機を所持していませんでした。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「55年体制論争」とは、社会党の「自衛隊を海外に出す事は、侵略戦争につながる」という主張によって、海外在留邦人救出のための手段が必要だと言う声も、押しつぶされていた状況を指している。

__________
17日にフセインが出した「イラン戦争区域宣言」を受け、私はただちに日本へ救援機派遣要請を出しましたが、本省から、救援機派遣にはイランとイラク両国の安全保障の確約を現地で取得するよう指示がありました。民間航空機の乗務員の安全確保が優先されたからですが、そのような確約は不可能でした。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

自衛隊救援機も出せず、政府専用機もないので、民間航空会社に要請するしかないわけだが、その乗務員の安全確保が保障されない以上、日本からの救援機は出せない、というのである。

空爆の恐怖に曝されている現地在留邦人は、日本政府から見捨てられた形になっていた。


■3.どこの航空会社も「自国民優先主義」

当時は、JALもANAもテヘランには乗り入れてなかった。危険を感じていた在留日本人の中には、欧州各国の航空会社に発券を申し込んでいたが、どの航空会社も「自国民と外交官を優先しなければならない」と拒否した。

ソ連のアエロフロートなら乗せてもらえるというので、オープン・チケット(搭乗日未定の航空券)を事前に入手していた日本人も多かった。当然、搭乗できると思っていたので、空港のアエロフロートのチェックイン・カウンターでチケットを提示して、搭乗手続きを行おうとした。

ところが、アエロフロートは「ソ連人かワルシャワパック加盟国(ソ連陣営の共産国)が優先」と言って取り合わない。

どこの航空会社も「自国民優先主義」が国際常識で、日本人を乗せてくれる会社はなかった。特に、家族連れの日本人駐在員は、奥さんや子供たちを脱出させる便が見つからないことから、絶望感と焦燥感でパニック状態に陥ってしまった。

こうした窮状が伊藤忠のテヘラン事務所から、東京本社に伝えられた。東京本社から、「頼む! 助けてやってくれ!」という悲鳴のような緊急電話が入ったのは、こういう状況だった。


■4.「何故日本の航空機が救出に来ないのか?」

電話を受けた森永さんは、不思議に思った。

__________
日本人がこんなに危機に直面しているのに、何故日本の航空機が救出に来ないのか?

今起きている問題は、イランにいる日本人の問題なのだから、本来イランと日本が当事国である。トルコは全く関係のない第三国である。それなのに何故トルコが巻き込まれるのか?
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
森永さん自身が疑問に思った事は、トルコ政府からかならず質問されるだろう。それにどう答えるのか。さらに彼らは当然、次のようにも言うだろう。

__________
テヘランには大勢のトルコ人がいる。トルコ政府としてはまずはトルコ人を救出すべきなので、その対策で頭が一杯である。外国人である日本人救援のことまで頭が回らないのが実情なのに、何を言っているのだ?
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

トルコ政府に頼むにしても、こうした質問や言い分に、すぐに答えられるよう、説得力のある回答をあらかじめ用意しておかなければならない。


■5.「体当たりでお願いしてみよう」

良い考えが浮かばないまま、いたずらに時間が過ぎていく。一方で、テヘランの在留邦人の窮状を思うと、もはや思案している場合ではなく、一刻も早く行動を起こさねばならない。焦燥感と責任感で心臓がつぶれそうだった。

森永さんは決心した。頼む相手は、無理筋の話でも、即断即決で引き受けてくれるトップでなければならない。しかも自分の親しい友人で、強い指導力と実行力のある人でなければならない。となると頼む相手はたった一人しかいない。「オザル首相にお願いしよう」と決めた。

そして、本来、筋の立たないお願いなので、無手勝流となっても仕方がない。これ以上へたな思案をせずに、体当たりでお願いしてみよう。

意を決した森永さんは、オザル首相のオフィスに電話をかけた。頻繁に電話をかけあっている仲だったので、その時も「緊急」ということで、すんなりとつないでくれた。

「トゥルグット・ベイ! 助けて下さい」 トゥルグットは、オザル首相のファースト・ネームである。ただし、男性に対する尊称の「ベイ」をつけて呼んでいた。

「どうした? ドストゥム・モリナーガさん」 ドストゥムは、トルコ語で「親友」の意味である。また日本通らしく「さん」をつけて呼んでくれた。


■6.「わかった。心配するな。親友モリナーガさん」

「トゥルグット・ベイ! トルコ航空に指示を出して、テヘランにいる日本人を救出して下さい」

「テヘランにいる日本人がどうしたと言うのだ? モリナーガさん」
森永さんはテヘランでの日本人の窮状を説明した。本来トルコには何の関係もない事だが、こんな事をお願いできるのは、あなたの他にいません、と必死で訴えた。

オザル首相は森永さんの話を黙って聞いていた。いつもならすぐに返事をするのに、その時は話を聞き終わっても何も言わずに沈黙を続けていた。

__________
私は固唾(かたず)を呑んで、彼の言葉を待っていた。「YES」とも「No]とも言わない。私にはこの沈黙の時間がものすごく長く感じられた。その間、「断られたらどうしよう」とか色んなことが頭をよぎる。でも彼は電話の向こうで沈黙を続けたままである。

やがてオザル首相は口を開いた。

「わかった。心配するな。親友モリナーガさん。後で電話する。」
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

この答えに、森永さんはしばし呆然としてしまった。「質問されたら困るな」と怖れていたのに、何の質問もない。小躍りしたくなるほど嬉しかったが、胸がつまってしまい、「大変、ありがとうございます。トゥルグット・ベイ」と言うのが精一杯であった。


■7.オザル氏との信頼関係

森永さんが、オザル氏に初めて会ったのは、この時点より10年ほど前だった。オザルさんはまだ政治家ではなく、いくつかの民間企業の顧問として働いていた。

「日本は資源がないので資源を輸入し、技術力で付加価値を付け輸出している」と口癖のように言う知日家であり、親日家であった。

当時のトルコは、農業が最大の産業であったので、日本から技術を導入し、農業用トラクターの製造を行おうとしていた。しかし、
当時のトルコは国自体が経済破綻の危機に瀕しており、そんな国に資本を投下しようとする日本企業は皆無だった。

そこで森永さんが協力して、何とか工面した外貨でトラクターの部品を日本から輸入し、細々と組み立てるという事業をおこした。

1978(昭和53)年、トルコはついに外国からの借款が返済できなくなるという最悪の状態に陥った。トラクター製造事業も風前の灯火となったが、森永さんとオザルさんは力を合わせてこの困難に対峙した。この過程で互いへの信頼が強まっていった。

その後、オザルさんは、手腕を見込まれて経済担当大臣となり、「オザル経済改革パッケージ」を発表した。それまでの規制だらけの経済を自由化する事を原則として、これが今日でもトルコ経済運営の基礎となっている。

大臣となっても、オザル氏は日本の経済運営を参考にしたいと、森永さんをよく大臣室に呼んで話を聞いた。オザル氏は、その後の内閣でも経済運営の腕を買われ、経済担当副首相となった。

そして1983(昭和58)年の総選挙では祖国党を立ち上げ、その分かり易い経済政策が国民に支持され、地滑り的な圧勝を遂げて、ついに首相になった。

一時、帰国していた森永さんが、イスタンブール支店長として再赴任すると、オザル首相は森永さんを「日本関係私設顧問」と呼びながら、大事にしてくれたのである。テヘラン在留日本人の救出を頼んだのは、それからまもなくの事であった。


■8.「ハイレッティム(全てアレンジした)。心配するな。」

オザル首相は「心配するな」と言ってくれたが、その後トルコ政府からも、トルコ航空からも連絡が来ない。森永さんは心配になってきた。このままでは、サダム・フセイン声明の設定した期限が過ぎてしまう。

数時間後、やっとオザル首相自身から電話があった。どきどきして森永さんは首相の言葉を待った。首相は落ち着いた声で、「ハイレッティム(全てアレンジした)。心配するな。親友モリナーガさん」と言ってくれた。

__________
日本人救援のため、テヘランにトルコ航空の特別機を1機出す。詳細はトルコ航空と連絡をとったら良い。日本の皆さんによろしく。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

それを聞いて、森永さんは驚くと同時に、体の芯から喜びが湧き上がるのを抑えきれなかった。

__________
トゥルグット・ベイ! 大変、大変、大変ありがとうございます。何も難しい質問をせず、私のお願いを聞き入れて頂き、ありがとうございます。

日本人の救出のために救援機を出して、後で政治問題になるかもしれないのに、リスクを取って大決断して頂き、ありがとうございます。どんなに感謝しても、感謝しきれません。

早速テヘランの日本人にこの大英断を伝えます。大変ありがとうございます。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

森永さんは電話を切ると、この朗報を直ちに東京経由でテヘランに伝えた。

しかし、テヘランの日本人は、その情報をにわかには信じられなかった。それまでどこの航空会社にも搭乗を拒否されて、絶望の淵にいたのだ。急にトルコ航空が特別機を出すと言っても、信じがたい思いだった。

そもそもテヘランには600人を優に超えるトルコ人ビジネスマンが滞在している。トルコ航空が特別機を出すと言っても、彼らを優先するのが当然なので、日本人まで席が回ってくるか、といぶかしく思ったのである。

(続く、文責:伊勢雅臣)

国際派日本人養成講座 より転載

転載元転載元: 日本の素晴らしい歴史

校内はセックス特区?

政治教育より、人間教育をすべきようだ。

教諭男女が中学校でわいせつ行為=ともに停職処分、男性は退職―大阪市教委
(2010年10月29日(金)12時22分配信 時事通信)

 大阪市教育委員会は29日、市立中学校の男性教諭(41)と女性教諭(24)が校内で複数回わいせつ行為に及んだとして、それぞれ停職6カ月と同1カ月の懲戒処分にしたと発表した。男性教諭は既婚者で、同日付で依願退職した。
 市教委によると、2人は2008年12月から交際。翌年1月から約半年間、休日出勤をした際に校内の資料室などでわいせつな行為をしたという。関係解消を求めた女性教諭に対し、男性教諭が無理やりキスを迫るなどしたことから、女性が今年9月に校長に相談して発覚した。

日教組そのものを仕分け・解体されたくなければ。

.
y_n**atani6*6
y_n**atani6*6
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

Yahoo!からのお知らせ

過去の記事一覧

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事