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一.親善試合(下)

 四月二十六日。
 桜田門交差点の向こうに皇居を臨む警察庁警備局に、小田裕(おだゆたか)は井出順(いでおさむ)局長を訪ねていた。この第二合同庁舎には警察庁の上級機関たる国家公安委員会を含め複数の省庁が入っているが、連休初日とて一帯に人通りは絶えてない。
「総書記訪日警備だが、本部設置を繰り上げるぞ」
「理由は?」
「政治的判断……と言っても、君は納得しないんだろう?」
 警務局監察官のまま警備局付を拝命したばかりの小田には直属の上司となる井出は微笑したが、目尻の下がった細い瞼の向うの眼差しは冷たかった。
「狙撃計画の通報(タレコミ)でもありましたか?」
 笑顔にも眉一つ動かさない小田に、井出も真顔に戻った。
「……ま、図星だ」
「要人警護で珍しい話ではありませんが、それが何か?」
「そうだが今回はちょっと複雑なんだ。黒幕が……ね」
 井出は言葉を切ると身を乗り出して肘を突き、小田を上目遣いに凝視した。
「詳しくは話せないが、平壌の政争絡みらしい。ソースは勘弁してくれ」
「わかりました……例えば政治的動機なら、一番危険なのは横浜の親善試合でしょうか」
「ただ、特定できる材料はまだないし、君には東京から福岡まで及ぶ全日程を担当してもらうから、横浜には代わりに工藤(くどう)君を詰めさせるよ」
「工藤……(神奈川)県警の刑事部管理官でしたね?」
「警備部出向の手続をとったところだ。何か問題でも?」
「いえ……ところで、鶴見川で挙がった銃殺体も本件絡みでしょうか?」
「まだ判断しかねている。工藤君も同じだ。君はどう思う?」
「現時点で無関係と断じるのは不自然です。ただ、現場にどこまで情報を下ろすかですが、狙撃計画の件はまだオンリミットですね?」
「そうだ……総書記の試合観戦自体オフレコ予定だから、そのつもりで頼むよ」
「わかりました。それにしても稲生氏は、そういう重大な情報をどこで嗅ぎつけたのでしょう?」
「……」
「大まかなスケジュールは公表されていますが、狙撃となれば下見も含め相応の準備が必要です。それを、例えばオフレコの親善試合で……」
「それはこちらで調べる。情報は君にも共有してもらうが、当面は予定通り準備を進めてくれればいい」
 幾分上がった声のトーンに、共有させたくない情報を井出が他にも握っていると小田は確信した。必要となれば独自に調べるしかないが井出もそれは折込み済らしい。神奈川県下の責任者に自分の腹心である工藤を指名したのも明らかに小田への監視だ。限られた時間とその監視の中での任務遂行は容易でないなと思いながら、小田は局長室を辞した。
 明日は神奈川県警と最終調整、明後日には警備本部が発足する。賽は投げられたのだ。

 四月二十七日、横浜市栄区長沼町。
 JR東海道・横須賀線と、並行して流れる柏尾川に挟まれたこの土地は、菜園の間に駐車場や町工場が点在している。やたら細長い地形が災いして長いこと再開発の手が入らずにいたが、それでも近年、大手建設会社によるマンションが竣工している。
 午前五時十一分、小田原発東京行き上り始発電車が何かを轢いたような衝撃を感知し急停車。以前この付近では菜園を荒らすカラスの置き石でダイヤの乱れが相次いだことがあり、乗務員も、報告を受けた運転所もそのケースと考えた。乗務員が線路を調べたがその時は何も発見できず、列車は十五分遅れで運転を再開した。
 午前九時過ぎ、待機していた保線区員が現場を再度点検、路肩からぺしゃんこになった金属片を発見、回収した。最初は何かわからなかったが若い区員が見て、携帯電話の着脱式バッテリーと気づいた。本体も間もなく付近で発見。だが作業中、線路上に点々と続く血痕を別の区員が発見し、警察に通報した。
 午後一時前後、携帯電話の機種と製造番号から持ち主が判明。三浦達哉、二十一歳、大正学院大学経済学部三年生。現住所は港南区下永谷の同大学港南寮。一昨日以降行方不明で、現場付近に立ち回り先の心当りはないと友人は供述した。そして日没直前の午後六時過ぎ、柏尾川の約百メートル下流から若い男性の死体を発見。三浦の家族へ直ちに連絡されたが、真っ先に駆け付けてきたのは一人の若い女性だった。
「あなたは?」
「川上(かわかみ)といいます。大正学院大学の者です」
 彼女はそう言い学生証を提示した。後刻聞いたところでは大学に現れた捜査員に不穏を察知、栄署で様子を見ていたそうだ。捜査員が川岸に横たえた死体の所に案内したが、上を覆ったシートがめくられた次の瞬間彼女は昏倒、救急車がもう一台駆けつける羽目になった。鑑識は死後約一日と推定した。

 運河を挟んで新港埠頭に臨み、すすけたビルに囲まれた駐車場に、黒塗りのセダンが一台停まっていた。
 白レースのカバーの後部座席にいるのは神奈川県警刑事部長、大野武史(おおのたけし)警視長。運転手には因果を含めて遠ざけたか、車内には他に誰もいない。
 馬車道方向からサングラス姿の長身の男が駐車場に現れた。車のナンバーを確かめると周囲を気にしながら接近、ノックに応え内側から開いた後部ドアに、無言で滑り込む。
「お待たせしました」
 そう言い男はサングラスを取った。小田だった。
「妙な場所に呼び立てて済まない。しかし、ここまで用心の必要があるのかね?」
「お手数をおかけします。それとなく注意していましたが、やはり……」
「監視……か。今日は大丈夫かね?」
「はい。これ以降予定は入っていません。理由をつけて車は先に帰しました」
「そうか……喫(す)っていいかね?」
「どうぞ」
「失礼するよ。庁舎は全面禁煙でね……どうだった?」
「稲生課長補佐の件は、県警本部長もご存じないようでした」
「やはり……君、井出局長の意向と思うかね?」
「確証はありません」
「まあ、真相は多分そんなところだろう。尤も、そういう小細工主義も最近の警察不祥事の一因だが……」
「自分も、その中に入っているのでしょうか?」
「それは、これからの君次第だよ」
 そこで二人の警察官僚は苦笑を交わした。
「とにかく殺された稲生氏だけでなく、局長も狙撃計画の核心をつかんでいる。問題はこの情報が現場に下りずにいる理由だ。局長なりの方法で対処するつもりか、まさか、直接計画に関わっているということは……」
「さあ、どうでしょう?」
「おいっ……君も随分いびられてるようだねえ」
「しかし、可能性はゼロではないでしょう?」
「だが……もし予想通りなら、これはもう不祥事どころでは済まないぞ」
「不祥事……港北署長の経歴にもその文字がありましたね。尤も、色々事情があったようですが?」
「……」
「まあ、局長とあの酒井(さかい)署長との関係は知る人ぞ知るです。あちらにご迷惑がかかるおそれはありますが、昨夜部長も仰った通り、カードとしては有効かもしれません」
「そうだな。君には大学の先輩にあたるから、複雑なところだろうが?」
「……」
「まあいい。署長には私が返事する。君は知らん振りをしててくれ。できるな?」
「はい、今回は一個所に詰めきりとはいかない分、その点は問題なさそうです。ただ前もって申し上げておきますが、このことで今回の警備任務に支障が出ることだけは避けたい、どうかそこはよろしくお願いします」
「まあ、今後の展開次第でどうなるかわからないが……ご苦労だった」
 大野が煙草を揉み消すのを合図に、小田は無言で会釈して再びサングラスをかけた。

一.親善試合(中)

 四月二十日午前六時、横浜市鶴見区。
 鶴見川左岸、芦穂橋付近に打ち寄せられた背広姿の男性を、ジョギング中の会社経営者が発見、一一九番通報。救急車に次いでパトカーが駆けつけ、早朝の河畔は騒然となった。救急隊員が男の眉間に、仏像のような銃創を見つけたからだった。鑑識は死後約六時間と推定した。

 四月二十一日、朝。
 中川は眠たい目をこすりつつ、地下鉄の新横浜駅入口前を通り過ぎた。昨夜どこで過ごしたか、尚子や課長の加藤(かとう)に知れたら冷やかされるのは間違いない。
 署に到着、刑事課強行犯係の自席に着くと、斜向かいの尚子が声をかけてきた。転職組の中川と違って高校卒業同時に任官した叩上げだが、同い年でもあり最も親しい同僚で、早紀と出会う前、肉体関係を結んでいた時期もある。
「おはよう……ねえ、聞いた?美奈ちゃん、先週の射撃大会で二位だって」
「本当か?」
「さっき、のぞいてきたら大騒ぎ。刑事課から出てないねえ……だって」
「あちゃー。先週は引越を手伝ってもらったりしたが……」
「でも、ホテルを取ったり大変ねえ。あたしの部屋でもよかったのに……」
 尚子は嘘を言った。斉木は短期大学を卒業して今年任官したが、射撃成績は抜群だったそうだ。
「まあ、それも考えたけど、昨夜(ゆうべ)話したら迷惑はかけたくないって言ってたし、俺の実家はちょっと遠いし……」
「昨夜?……あっ、泊まったんだ!」
「あ……ばれたか」
「様子はどう?ノイローゼ気味って言ってたけど……」
「だいぶ落ち着いた。諦めたのだといいんだが」
 本気で心配している中川に尚子は無意識に嫉妬を覚えた。
「録音したんでしょ?記録も調べて捕まえちゃえば?」
「ただもうじき連休や親善試合警戒で泊まりこみだし……当分この状態で様子を見るしかないな」
 そこへ警備課長の柳沢利彦(やなぎさわとしひこ)警部と、刑事課長の加藤稔(みのる)警部が出勤してきた。共に国立の田安大学から国家公務員試験一種をパスした所謂キャリアで、加藤は部下の中川や飯田と同い年、柳沢は二つ年上。加藤はピンクのシャツに派手な柄のネクタイと、相変わらず刑事らしからぬ格好をしている。
「加藤君、あのねー、中川君、昨夜奥さんと一緒だったって」
「やめろって」
 尚子は階級などすっ飛ばし、加藤にタメ口を利いている。何でも以前の部署に加藤が一時配属、数ヶ月間机を並べていたそうで、中川もいつの間にかそれが伝染。慣れとは怖い。
「いいねえ。新婚だものな」
 案の定加藤が食指を動かし、前任の刑事課長だった柳沢が、苦笑しながら助け舟を出す。
「様子はどうだ?落ち着いたか?」
「お蔭様で」
 そこで定時になり、屋外での全署朝礼の後、フロアーで刑事課の朝礼。
「県警本部より通達。五月十八日、横浜国際総合競技場でサッカーの日朝親善試合があるが、諸君も知っての通り、訪日する北朝鮮・金正一総書記が前日泊の予定だ。そこで」
 加藤は一旦言葉を切った。
「北朝鮮政府から打診があった。総書記が試合を観戦したいと。日本政府はこの要請を受諾した」
 課内の空気は一気に緊張した。
「警護範囲は先日連絡の通りだが、これに会場内外と沿道か追加になるわけだ。概要はこれまでの国際大会同様。なお、連絡所設置は試合警備本部と同じく十六日の予定」
「その間、通常業務はまた後回しですか?」
「個々の事案(事件)次第だが、緊急を要するもの以外はそうなると思ってもらいたい」
 上層部はいつも末端の都合などお構いなしだ。ともかくこの上は、面倒な事件が起きて事態が複雑になったりしないよう祈るしかない。この日は鶴見川の射殺体絡みで管内区域の川浚い。あとは事務処理で一日を終えたが、連休が近づけば全署内が警備強化態勢で慌しくなる筈だ。
 駅前に出ると地下鉄への階段は降りず、早紀が滞在しているホテル・グレコに向かう。駅前で買った安物のワインとチーズを提げ入口をくぐった中川を早紀はツインルームで迎えた。シングルルームに毛が生えた程度の広さだが、贅沢は言えない。
「大丈夫?」
「ええ」
「外から、変な電話はかかってきてないか?」
「今日も大丈夫。一度、尚子さんから電話があったけど」
 無言電話とは別の理由で中川はぎょっとした。
「彼女から?用件は?」
「特に何が、ってわけじゃなかった。大丈夫ですかって。心配してくれたのね」
「彼女には引越の手伝いまで頼んじゃったしなあ」
「それと何て言ったっけ、交通課の……」
「斉木。あ、そうだ、先週末の射撃大会県予選で、うちからは彼女が出たんだが、二位に入賞したらしい」
「すごい!」
 黒髪を肩まで伸ばした早紀は大きな目を細めて顔を綻ばせた。
「で、金曜に祝勝会と手伝いのお礼を兼ねて、駅前で飲もうって話になった。OKって返事しておいていいかい?」
「ええ」
 客室備付けのコップを並べ、中川はワインの封を開けた。
「安物だけど」
「いいけど、それ、プライムホテルの下で買ったでしょ?」
「あれ、何でわかった?」
 早紀は苦笑して、中川が提げてきたビニール袋を指した。見ると表に、ホテル名が青々と印刷されてある。
「あ……」
「来る時、フロントで変な顔されなかった?」
「どうだったかな?俺、全然気づかなかった」
 中川も苦笑した。
「でも、無言電話もあれきりみたいだし、何かあっても目と鼻の先だし、もう心配ない」
「ありがとう。ところで……何か臭いよ?」
 早紀は顔をしかめた。
「あれ、まだ臭うか?実は今日、川浚いでさ……」
「やだあ!あとでシャワー浴びてね。川浚いって、そこの鶴見川?」
「そう」
「じゃあ、河口で見つかった変死体と関係があるのかしら?」
「……あれ、何で知ってるんだ?」
「お昼のニュースで言ってた。ごめんね、忙しい時に……」
「いいさ。無言電話も録音してあるし、いざとなったら後悔させてやるさ」
「ありがとう」
「早紀、君は俺が守る。何があっても……」
 中川は早紀を抱きしめた。

 四月二十五日。
 ホテル・グレコ二階の居酒屋「三千院」に、中川夫妻を囲み港北署刑事課の面々が集まっていた。日頃からムードメーカーの加藤が、容赦なく出席者を片端から槍玉にあげている。
「新婚早々、カミさんだけホテル住まいってのは怪しいな。早速夫婦喧嘩か?」
「やめろって」
 案の定中川に矛先が向いてきて、事情を知っている柳沢が苦笑しながら止めた。
「そうよ。余計なお節介を焼くんじゃないの」
 尚子がそう言うと、加藤は舌を出してあっさり矛を収めた。
 中川がトイレに立つと、追うように柳沢が隣の便器に立った。
「色々ご迷惑をおかけします」
「気にするな……加藤の奴、飯田君に気があったとはな」
「え?」
「何だ、お前、全然気づかなかったのか?」
「……はい」
「まあいい……例の無言電話は?」
「幸い、ホテルのほうにはないようです」
「そうか。尤も、こちらもしばらく、それ以上は何もできそうにないが」
「わかってます。今回は全署を挙げての任務ですから……鶴見署の事件(ヤマ)、まだ手がかりはないとか?」
「ああ。身許もまだ不明らしい……それがどうかしたか?」
「いえ、ただ……うちの下流でしたよね?」
「しかし、川浚いでは何も出てこなかっただろう?」
「そうですが……今度の親善試合とは関係ないですよね?」
「さあ?金総書記観戦はオフレコだから無関係の筈だが……まあ、何かあれば上のほうから指示があるだろう」

一.親善試合(上)

 四月十九日。
 斉木は、横浜国際総合競技場の北側一階スタンドにいた。隣席には港北署交通機動隊の伊東秀昭(いとうひであき)巡査部長。共に今日は非番で、上半身には横浜マリオスのジャージを着込み、Jリーグの観戦。試合は既に後半ロスタイム、〇対〇ながら相手チームがゴール前で攻勢をかけている。斉木は周囲に負けず黄色い声を発し、チャンスやピンチに一喜一憂していた。
 ディフェンダーと接触した相手フォワードが転倒、ファウルの宣告に北側スタンドからブーイングが起こる。
「レフェリー、どこ見てるのよ?」
 斉木は口を尖らせたが、伊東は少し冷静だった。
「シミュレーションの可能性もあるが……」
 南北スタンド後方の大型スクリーンに、今のプレーの録画が再生される。スタンド天井やコンコースに並んだテレビ受像機にも、同じ映像が流れている筈だ。
 フリーキックを蹴るのはブラジル人のテクニシャン。そしてキーパーの裏をかいたボールがゴール隅へ吸い込まれた次の瞬間、右背後の悲鳴に振り返るとスタンド一角から閃光と白煙。警備員が駆けつける騒ぎを尻目に、後半終了のホイッスル。場外へ流れ始めた観客に混じり二人がコンコースに出ると、火の消えた発煙筒片手に興奮気味の男を警備員が囲んでいた。
「どうしました?」
 話しかけた伊東を男の仲間と思ったか、胡散臭げに振り返った警備員は、示した手帳に態度をがらりと変え、男は大人しくなった。
「頼まれたんです、一万円で」
「嘘は言ってないと思います。時々馬鹿もするけど、発煙筒なんて初めてだもの」
 側にいた長髪の女が助け舟を出す。
「じゃ、どういうこと?」
「試合前、知らない男に発煙筒と一万円を渡され頼まれたんです。理由は言わなかったけど、金も貰えるし……」
「金を貰えば何でも引き受けるのか?これがダイナマイトだったらどうする?」
 伊東がそう言うと、男の顔色が変わった。
「付き合ってもらうぞ?男の特徴を教えて欲しい」

 中川は、都筑ニュータウンに近いワンルームマンションでテレビのスイッチを切った。Jリーグ、横浜―島田戦の生中継が終わったばかりだ。部屋着のままのTシャツにGパンを穿き、夕食に出る。市営地下鉄を挟み広がるのは、まだ造成が進む港北ニュータウン。先日その一棟に一室を契約、駅からは五分ほど近くなる。
 壁に胡麻油の匂いが染み付いた中華食堂で、定食を摂りながら夕方のテレビニュースを見る。都内ではまた中国人による強盗殺人事件が発生、自他共タカ派と認める都知事が記者会見で強い憤りを表明していた。
 帰途コンビニに立ち寄った中川がふと視線を感じ屋外を見ると、男がこちらを向いていて、目が合った途端くるりと背を向けた。気づかぬ風で中川が店を出ると、男の姿は消えていた。

 三浦達哉(みうらたつや)、二十一歳。大正学院大学経済学部三年生。彼の供述によればその男は黒っぽいダウンジャケットと帽子、白髪混じりの口ひげにサングラス姿。
「……もし誰か火傷してたら過失傷害だよ。わかる?」
「すみません」
「だってあいつ、代表からも外れてるのよ?そんな奴に……」
 斉木はマン・オブ・ザ・マッチ(その試合の最優秀選手)をこき下ろしている。服装と言い、これでは誰が警官かわからないなと、伊東は思いながら言った。
「まあ、ブラジルはそれだけ選手層が厚いってことだろう……君も危ないことはやめようや。な?」
「だって、外国じゃよくやってるじゃん?」
「外国は外国だよ。何でも真似してどうするの?」
「それは、まあ……」
「まあ、今日は調書をとっておしまいだけど、怪我をした人とかいたらまた来てもらうよ。いいね?」
「はい。すみませんでした」
「よし」
 三浦という学生に頷くと、当直の警官が苦笑し用紙を取り出す。若者達を帰すと、二人もやっと時ならぬ公務から解放された。
「今日はうまく処理したわねえ」
「大概は話せばわかるんだよ。外国のフーリガンも、捕まえてみたら大学教授ってこともあったらしい」
「こういうことがあると心配になるわね。ゲートの検問だけで大丈夫かとか」
「スタンド内側に溝があるから、グラウンドに乱入することはない筈だが……茨城では逮捕者も出たらしいし」
「代表戦でもこういうことなかった?確か、中継で……」
「二〇〇一年の対パラグアイ戦だ。その後しばらくここで中継をやらなくなったしな」
「知らずにユーゴ戦の日に来たりしたしね」
 日が落ちた駅前に近づくと、観戦帰りのサポーターがまだちらほら流れていく。左に視線を転じると、新横浜プライムホテルの円筒形ホテル棟が夕闇の町並を見下ろしていた。

 帰宅した中川は、しばらく灯りも点けず考え込んでいた。先刻の男の顔が瞼の裏から離れない。自分には全く人相に憶えがなく、しかしでは早紀が目当てだったのか。
 香川県高松市出身、都内に住む弁護士の卵だが、昨年交通事故で療養中の病院を偶然中川が訪れ、どちらからともなく恋に落ちたのだった。挙式を待つかのように管内は連休の特別警戒を控え、ともあれ警察官としては普通の新婚生活が始まる……筈だった。
 異変の始まりは一週間前の未明、中川の部屋に響いた電話。相手を確かめ受話器を取った……最初の数秒の空白が早紀の、恐怖の大きさだと中川は解釈している。その後中川が一度応対してからは一旦止んだが留守番電話には入っており、アパートを空けることにしたのだった。
 あの無言電話の記憶が脳裏を走る。尤も顔も声もわからない今、それはこの数年で培った、いわば刑事の勘だ。どうにも気になった中川は受話器を手にした。
――はい、XXXX号室です。隆行?
「早紀か?どうだ、変わりはない?」
――ええ。
「明日、顔を出すから。大体昼頃になると思う」
――待ってるわ。どうかしたの?
「え――どうして?」
――ううん、何となく。
「いや……俺も何となく、急に声が聞きたくなっただけだ。じゃあ、お休み。ちゃんと部屋にロックしろよ」
 電話を切った後も、中川はその場をしばらく動かなかった。新たな異変はないようだが、無言電話の正体が不明な事実に変化はない。週明け、上部にまた相談すべきか……

 プライムホテルの客室フロアーは中央の吹抜けを囲み、奥に行くにつれて間口が広がる、切り分けたバウムクーヘンのような平面の客室が並んでいる。
 斉木が浴衣を羽織り浴室を出ると、先にシャワーを済ませた伊東は裸体の腰にバスタオルを巻き、競技場を見下ろしていた。斉木はその背中にもたれかかる。彼女のサッカー初観戦は数年前、そしてホームゲームで偶然競技場警備任務中だった、幼馴染の伊東と再会したのだった。
「上から見て気づいたけど、ここってプールもあるのね」
 窓の真下、駐車場棟屋上にプールがある。ライトブルーに塗った水底が水中照明に照らされ、真っ暗な夜景に浮かび上がっていた。
「この次はプール付きで来たいなあ……二〇〇二年は大会直前の時期で、満室だったわねえ」
「閉幕後は観客も関係者も一斉に引き揚げて、逆に静かになったけど……」
 ともあれ今は日々、各自の職分を全うするだけだ。間近の親善試合が世界中を震撼させるとは、そして夕刻の騒ぎがその前兆とは二人共知る由もなかった。
 背後から斉木の肩を抱いていた伊東の手が包み込むように体の向きを変えさせ、唇を重ねる。斉木の肩から浴衣が滑り落ちると、伊東のもう一方の手がカーテンを引き、二人の体はゆっくりとベッドに沈んでいった。

プロローグ(下)

 同日夕刻。
 中川隆行巡査部長(なかがわたかゆき)の運転する乗用車は隣席に新妻の早紀(さき)を乗せ、環状二号線を一路北上していた。鶴見川の末吉橋から磯子まで、横浜市郊外をぐるりと貫くこの道路は片側二〜三車線、急カーブも少なく、所々思い出したように現れる信号がなければ、料金不要の一般道とは思えない。
 中川は今年三十四歳。殉職者を親類に持つ母の反対から一般企業に就職、しかし不景気を背景に中途採用に挑む彼を病床の母は止めなかった。その母も亡くなり数年、職務にも馴染んできた。
「悪いねえ、休日に」
「いいええ、昨日のお礼代わりですから」
 中川の言葉に答えたのは後部座席の斉木だった。長髪を非番とて梳き流し、三日月眉の下、切れ長の目尻が少し吊り上がった美人だ。
「それより荷物少ないですけど、着替えとか困りません?」
「その時は俺が持って行くから」
「そうですか」
 突然始まった無言電話で早紀がノイローゼになったのは数日前。取るものもとりあえずホテルを急遽手配。日もすっかり沈み、ナトリウム灯が真昼のように照らす路面が金色の大蛇のように、行く手に伸びていた。先程から見え隠れしていた新幹線が左手に並行、下り線路を数色の光の束がすれ違って行く。この線路を跨ぎ、右手に臨むようになれば間もなく新横浜だ。

 四月十八日、東京都千代田区。
 原太一(はらたいち)課長代理ら警視庁公安部外事課捜査員は、外務省アジア大洋州局北東アジア課長補佐失踪の情報に霞ヶ関本庁舎へ赴いた。稲生正賢(いなおまさかた)、五十九歳。任官以来初めて昨日の朝無断欠勤、ところが自宅に問い合わせたところ、通常の時刻に出たと言う。
「所轄には届けていないそうですが、お心当りが?」
「まず、これを見てくれませんか」
「これは……今度の、北朝鮮総書記訪日の日程表ですね」
「問題は横浜滞在の二日目です。当初予備日でしたが、同地開催のサッカー親善試合を……」
「観戦……ですか?随分急な話ですね」
「拉致・核問題から国交樹立交渉も膠着ですし……今回の訪日も、事態打開への突破口狙いでしょう」
「失踪もこの件絡みだと?」
「原因が他には思い当たらないのですよ……警備の都合上石崎(憲二・いしざきけんじアジア大洋州)局長から間もなく準備を要請しますが」
「そう言えば水口(順子・みずぐちじゅんこ外務)大臣も会見で半島情勢を懸念されていましたが、外国絡みでなければ我々外事の出番はありませんし」
「あと、ここのデスクで、気になる物を見つけまして」
 課長が取り出した数枚綴りのメモを、警察の先に触れさせたくなかったがと思いながら原は目を通した。
「何かの名簿……のようですね」
「ただ、共通項の見当がつかなくてね……個々の相手にぶつかるとなると警察の仕事ですから」
 あらためて職場、次いで調べた官舎で手応えはなく、唯一の手がかりはデスクにあったというメモ。片端から洗った結果、チケット個人取引サイトにアクセスしたユーザー一覧と判明。
 幸運だったのは稲生が危険を感じたか、捜査などあれば協力するようサイトの管理人に言い残していたことだった、メモはやはり五月十八日の親善試合関連。買取希望、売却希望へのアプローチ。いくらでも出すというユーザーは特に重点チェック。最高額面七千円のチケットの大半が、ここで倍以上の値段に跳ね上っていた。
 地道な洗出しの結果、捜査員は一人の人物にたどり着いた。本多正勝(ほんだまさかつ)、四十六歳、横浜市港南区在住。横浜市港南区在住。だが売り主との接触に失敗したこの男は、住所からも勤務先の中華料理店からも姿を消していた。

 同日、ニューヨーク・マンハッタン東南隅、国連本部ビルを真北に望む超高層ホテル最上階のペントハウス。
 西日に赤く染まったリビングで、二人の男女が腰掛けている。グレーのスーツの男の斜め後ろには直立不動で、護衛らしいダークスーツの男。女は、黒のブラウスに濃紺のパンツルック。
「で、北朝鮮のお偉いさんが何のご用?」
「近く、総書記が日本を訪問する」
「それが標的?」
「まあ聞きたまえ。確かに狙撃計画はある。その阻止が君の仕事だ」
「なるほど、カードには絶好の舞台ですものね」
 鰓の張った容貌のダークスーツが横目で彼女をじろりと睨んだが、中年の男はむしろ相好を崩して、上半身を乗り出してきた。
「来意もお察しのようだな……なら話は早い」
「なるほど?でもこれで、狙撃計画とやらは確実に阻止できるのかしら?」
 男が内ポケットから出して見せた写真を女は辛辣にコメント、ダークスーツは再び睨むが、男は顔の下半分の微笑を絶やさない。
「我々も手は打っているよ。日本でも、そろそろ関係部署が動き始める頃だ」
 彼女は日没直前の窓際に立った。以前は冬になるとマンハッタン南端、世界貿易センタービルの間に太陽が吸い込まれる光景が見えたものだが。
「まあ、いいわ。指定の口座に一〇〇〇万ドル振り込んで頂戴。それを確認し次第準備に着手します。飢餓に苦しんでいるお国には大金でしょうけど……極上のシャンペンを冷やしてあるけど、前祝いにいかが?尤も、本当にそうなるならね?」

 同日、神奈川県下某所。
 高い壁で囲った空間の一方に、耳当てを着け居並んだ男女が拳銃を構え、もう一方には人体を描いた標的。係官の号令で男女は一斉に発砲、そのたびに落雷のような銃声が轟く。
 彼らの背後で、一人の男がその様子を見守っていた。

プロローグ(上)

 二〇〇六年十月十八日。
 新潟県警察が或る女性の捜索願を受理。片桐幸子(かたぎりさちこ)、三十二歳。東京から帰省中で、前日夕刻に外出したきり失踪。同日東京の恋人から彼女へ、会いたいとメールが送られていた。待合せ場所は市内北部の高台を抜けた海岸線近くの林。だが恋人は数日前携帯電話を紛失したと供述、アリバイも判明。迷宮入りの可能性が出てきた一年後、北朝鮮(朝鮮社会主義人民共和国)からの所謂脱北者が彼女らしい女性を目撃したと証言。彼女の或る経歴から関係者が抱いた忌わしい直感は……一年後、最悪の形で的中した。

 二〇〇七年五月二十日。
 神奈川県警察が或る女性の捜索願を受理。浮田秀美(うきたひでみ)、三十一歳、横浜市青葉区あざみ野南二丁目在住。数日前、中国旅行中に同室の客が急死、帰国後もショックで自宅に籠っていたという。
 五月二十一日、東急田園都市線あざみ野―江田間に架かる陸橋から女性が落下、通過列車に轢かれ即死。浮田秀美の家族が同日、本人と確認。他殺・事故の形跡はなく、警察は発作的な自殺と断定。

 二〇〇八年二月十九日、北朝鮮政府は、軍の重鎮で対外強硬派でもあった魚珍禹(オジンウ)人民武力部長(国防大臣)の解任を発表した。
 初代国家主席・金一成(キムイルソン)は息子・金正一(キムジョンイル・現朝鮮労働党総書記兼軍事委員長)の後継者指名に際し、三人の補佐役を就けた。金正一の妹婿・黄沢究(ファンテクグ)、政治学者の王長耀(ワンジャンヨプ)、そして金一成の戦友でもあった魚珍禹。金一成と同世代の魚・王はこの国の実情に通じ、また黄は若年ながら恩師である王の薫陶を受け、有能な政治家に育っていた。
 だが老衰した金一成の判断力が低下、実権を握った金正一の許で黄と魚が対立。同時多発テロ以降の国際情勢にも翻弄される折しも年明け早々、アメリカで政権奪回を狙っていた民主党であるまじき醜聞が発覚。大統領候補本命のビル・ケイン上院議員が、同性愛の経歴を隠していたのだ。致命的なのは前回の選挙で現大統領の娘が同性愛者だとの噂をばら撒いたことで、人権団体にも手法を非難された民主党はそれまでの追上げも失速し敗退。そういう失策の上塗りとなるこの醜聞も宥和政策復活に望みを託す平壌を追い詰めたと思われ、金正一の後継者問題まで絡み武力抗争の憶測も出ていた中、このニュースを周辺諸国は程度の差こそあれ歓迎した。
 二月下旬、日本・北朝鮮は両国サッカーA代表の親善試合開催を発表。日時は五月十八日、開催地は神奈川県・横浜国際総合競技場(横浜市港北区)。
 三年前のワールドカップドイツ大会最終予選では日本が連勝、しかも二戦目の結果日本の本大会出場と北朝鮮敗退が同時確定と、平壌には散々の結果だったが、それでも政治的難局下での対戦実現という事実は残った。今回は年明けのニュースのお蔭もあって、親善試合実現への障害と日本国内の抵抗感は、主催者が拍子抜けしたほど小さかった。
 三月、魚前国防相が政府の許可なく出国したとの情報を韓国国家情報院(NIS)がキャッチ。北朝鮮政府はこれを否定、情報の真偽も確認できない状態がしばらく続いた。
 同中旬、北朝鮮政府は、金正一総書記が日本を訪問したいとの意向を伝達、日本政府はその真意を測りかねながらもこれを受諾。日程は五月八日から二十一日。実現すればもちろん、北朝鮮建国後初のことだ。
 先年の総選挙では対朝強硬外交を標榜する与党が過半数を確保する一方、従来の親朝方針を貫いた社会党は壊滅的惨敗。先年成立していた改訂外国為替法・改訂外国貿易法・特定船舶入港禁止法も一部施行。この動きを北朝鮮は時に「宣戦布告だ」、また時に「共和国(北朝鮮)の農業生産は高く実効性はない」と非難していたが、某NGO(非政府活動組織)が推測した今冬の餓死者は九十万人。そんな中での総書記訪日の真意が全面制裁阻止なのは明らかだった。
 同下旬、CIAが魚前国防相の香港滞在確認を発表。先年の王長耀亡命を思い出させるニュースに、平壌から暗殺部隊出動の情報も流れ中朝国境は緊張、周辺各国は緊迫する情勢に神経を尖らせていた。

 四月十三日早朝、横浜市港北区。
 神奈川県警察港北警察署は環状二号線に面した、三階建の平凡な建物である。周囲には区役所やスポーツセンターなどしかなく、ホテルが建ち並ぶ駅前に比べ、まだ郊外の静けさを残していた。
 飯田尚子(いいだなおこ)巡査部長は仮眠室で目を覚ました。二日酔で鉛のように重い頭蓋骨を抱えて洗面所へ行き、冷たい水で顔を洗うと、靄が晴れてきた脳裏に昨日の情景が嫌でも甦る。薄暗いチャペルに浮き上がるヴァージンロードに尚子は、自分がこの日をいかに恐れていたか初めて認識した。新郎の手を取り、古い映画のように逃げ出せたら……そんなことをすれば間違いなく、全てを失うだろうが。
 正面の入口から、父親にエスコートされた新婦が稲光りを背景に入場。純白のヴェールがゆるやかに背後へ広がり、オルガンの音色に乗って眼前を流れていく。黒い大きな瞳はここ数日の心配事も忘れたように、人生最良の時を迎え喜びに輝いていた。尚子は周囲に合わせ笑顔で通過を見送ったが、その目は掠奪者への形容しがたい感情を湛えていた。
 オープンテラスに階上の新婦が投げたブーケを女性が黄色い声を上げ奪い合う中、尚子は金縛りにあったように動けなかった。手にしたのは後輩の交通課・斉木美奈子(さいきみなこ)巡査だった。


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