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日本労働組合物語 3

《3 プロレタリア文学の勃興》

・大正14年 細井和喜蔵『女工哀史』が改造社から出版され、ベストセラーになった。
《細井は、19歳のときに大阪に出て、鐘紡その他の紡績工場を転々とし、やがて労働組合運動に手を出したために雇い入れる工場がなくなったので、23歳のときに東京に出て、東京モスリン会社亀戸工場にはいった。》
《小学校もろくに出ない一職工が、一流の出版社から著書をだし、しかも何回となく版を重ねたのは、めずらしいことだった。》
・大正10年に総同盟の労働学校が開講し、細井氏はそこで相当の勉強家だったとされている。
《作家藤森成吉の斡旋で、改造社が冒険的に出版し、意外の売れ行きをしめしたが、当の細井は、第2版をみることなく、出版翌月の8月17日、29歳の若い命を閉じた。》
・『女工哀史』は以前に読んだことがあるが、女工をめぐる状況についての資料的価値が高い。

《さて、こうした労働者の手になる名著とともに、このころ、労働者の立場に立った新しい文学運動−いわゆるプロレタリア文学運動がおこっていた。》
・この源流は、明治の木下尚江などの社会主義小説、石川啄木の詩にさかのぼる。
《大正期にはいって、民衆自身による「民衆文学」、また「労働文学」が提唱され》た。《しかし、これらの作家の作品は、労働者のみじめな生活や自然発生的な反抗を描写したにすぎなかったが、大正10年2月、秋田県土崎港で発足し、ついで同年10月に東京で再出発した種蒔き社は、階級的自覚のうえにたった最初のプロレタリア文学運動といえた。》
・後に、平林初之輔などが加わり、細井氏も小説を寄稿したとのこと。
《だが、関東大震災の中の社会主義者にたいする圧迫は、『種蒔く人』(※同社の雑誌名)にも打撃をあたえ、「亀戸事件」の調査記録を特集した『種蒔き雑記』を発行したのを最後に、廃刊を余儀なくされた。》

《大正13年6月、旧種蒔き社同人によって、「われらは無産階級解放運動における芸術上の共同戦線にたつ」、「無産階級解放運動における各個人の思想および行動は自由である」、との綱領のもとに雑誌『文芸戦線』が創刊され、プロレタリア文学運動の拠点になった。この雑誌には、青野季吉の論文「調べた芸術」「自然成長と目的意識」などがのせられ、自覚したプロレタリアの「目的意識」につらぬかれた文学が提唱され、ようやくイデオロギーで武装したプロ文学運動が確立した。》
《しかし、プロ文学がじっさいの作品をもって文壇で認められるにいたったのは、葉山嘉樹が『淫売婦』、『海に生きる人々』、『誰が殺したか』、『セメント樽の手紙』などをひっさげて、同誌上に現れたときに始まる。》

《大正14年12月、『文芸戦線』を中心に日本プロレタリア文学連盟(プロ連)が結成された。》
・林房雄、中野重治、鹿地亘、亀井勝一郎、平林たい子、蔵原惟人らが加わる。
《大正15年末には、マルクス主義思想に立った、演劇、美術、音楽などの部門をふくむ日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)に改組された。》

《プロレタリア文学運動、芸術運動は、やがて新感覚派の片岡哲兵らをその陣営に加え、インテリ、または労働者出身の新人をそだて、文壇にはなばなしい勢力をきずいたが、これは大正期にはなかった昭和時代の新しい発展だった。しかし、プロレタリア文化運動にも思想的対立が持ち込まれ、分裂、抗争が跡をたたなかった。》
・思い切り飛躍して分裂の構造だけをみると、現在でもある党派性をもつものには分裂、抗争は起るわけだが、分裂や抗争を免れるには調整が必要となり、また調整に執着すれば党派性を失い求心力が色褪せてしまう。これは単純なことである。この単純さに留まる限り、およそ自発性というものは頭を押さえつけられた状態となる。

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日本労働組合物語 2

「大正から昭和へ 2」

《大正末期から昭和初期に端を発したものは、まだまだ数多くある。》
・大正14年 東京放送局がラジオの仮放送を開始。
《『東京朝日新聞』によると、初代総裁後藤新平は、マイクを通じて、「従来、男子は外に出て活動しているために、多くの機会にすべての文化をうけて来たが、家庭に取り残された女性は、いつも文化に遅れなければならなかった。しかるにこれからは、ラジオの力によって、みんなが共通に文化の恩沢に浴することができる…」と祝辞をのべ、いわば文化の大衆化を予言している。》

雑音がひどく、かすかに声が聞き取れる音質であったが、聴取者数は1年後には20万人を突破した。
・大正15年 大阪放送局、名古屋放送局、東京の愛宕放送局の3局が統合して、日本放送協会(今日のNHK)が誕生した。
《当時はもちろん民間放送局などはなかったし、放送内容は逓信省の監督を受けていたので、容易に政府の思想統制の道具となったともいえる。》

《ラジオとならんで、朝日、毎日、読売の3大新聞の制覇が成ったのも、この頃からだ。》

《また、出版界に旋風を巻き起こした大日本雄弁会講談社の通俗雑誌『キング』が創刊されたのが、14年1月号からだ。「日本一おもしろい、日本一ためになる、日本一やすい」と銘打ち、名士の出世談や逸話、教訓やたとえ話、その頃文壇を風靡しはじめた大衆文学、通俗小説を多彩に盛り込んだこの雑誌は、50銭で他誌の追随をゆるさぬ頁数で登場し、創刊号だけで75万部を売りつくした。》
《国士風の同社社長野間清治は》『雄弁』『講談倶楽部』『少年倶楽部』『面白倶楽部』『現代』『婦人倶楽部』『少女倶楽部』『幼年倶楽部』を刊行し、《これら9雑誌を合わせると、一時は発行部数1千万部に近く、わが国雑誌の7、8割に達した。》

《こうして新聞あるいは雑誌が多数の部数を発行し、各階層の人びとの読書欲が旺盛になるとともに登場して来たのが大衆文学、通俗小説だった。》
・中里介山『大菩薩峠』
・白井喬二『富士に立つ影』
・吉川英治『鳴門秘帖』
・大仏次郎『鞍馬天狗』
・菊池寛『真珠夫人』
《大衆文学、通俗小説は、大正初期以来の自然主義文学が、作家身辺の私小説、心境小説に終始して読者が離れていったのに対し、常識的でしかも波乱に富んだ「つくられた小説」が、全国各階層の老若男女の人気に投じ》た。
《このような文学の隆盛は、同時に日本映画にも反映し》、演劇界にも反映した。

《以上のような、大正末期から昭和初期にかけての芸術文化の大衆化に対し、これを卑俗化と目した人びともいないではなかった。大衆的文学、映画、演劇などが、民衆の封建的気風と妥協しつつ、そこに現代的人間感情を盛り込もうとしたのに対して、これらの高踏的芸術家たちは、欧米の現代演劇、文学を輸入しようとしていた。》
演劇で言うと、新劇がこれらあたるようである。イブセン、ゴリキー、チェホフ、ゲーリングなどの作品を上演したとのこと。

《さて、話はまた文学にもどるが、ここにも新しい翻訳調が抬頭していた。》
これが横光利一などの新感覚派である。
《たとえば、横光の『ナポレオンと田虫』では、英雄ナポレオンが諸国を征服し、ついには破滅的なロシア遠征をくわだてたのは、かれの腹にはびこった田虫のかゆさに対する怒りからだったというような、奇警な着想によってインテリ青年の関心をとらえた。》

《こうして大正期は、徐々に終りを告げ、昭和期が開かれていった。》

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日本労働組合物語 1

「大正から昭和へ」

《大正13年から15年、さらに昭和という時代にはいると、政治、経済、文化などだけでなく、世情、風俗にしても諸事が新しくなり、何か今日とつながる現代が始まったような気がする。》
《大正12年の関東大震災を境界として、東京市内の生活様式が一変し、時世にひと区切りつけられたためだろう」。

・都心の住宅地が焼失→「文化住宅」と呼ばれる半洋風の家が建ち並ぶようになった。
・震災の年に竣工したコンクリート建のビルが震災で無傷だったため、丸の内はビルブームに湧き、オフィスセンターになった。
・郊外の文化住宅から丸の内に勤務するサラリーマンが増え、渋谷、新宿が発展し、1日の乗客数が震災後の2か月足らずで3万余人から6万5千人に膨れ上がった。
・大正14年11月1日、山手線開通。昭和3年、飯田町・中野間の複々線工事が完了し、通勤客がますます増えた。
・浅草6区に限られていた「活動写真小屋」が「映画館」として全市の繁華街に広がった。洋画が喜ばれ、当時はサイレント映画のため「活弁」の人気が確立した。
・復興した銀座には「カフェー」が進出。街角には今のスタイルと思われる「喫茶店」が並んだ。
・明治37年の早慶戦は39年熱狂のため中止。大正14年復活、それから早慶明法立東の6大学野球リーグ戦が成立した。
・大正末には欧米からの日本訪問飛行が決行され、日本からも東京・大阪朝日新聞社の訪欧機「初風」「神風」をモスクワに送る。

《のどかな大正から、何かせちがらい昭和への、世相の移り変わりを反映しているように思われる」こととして、犯罪事件がある。
・鬼熊事件−「大正15年8月、千葉県香取郡久賀村の荷馬車ひき岩淵熊次郎が、情婦をはじめ数人を殺傷し、放火して付近の密林に逃げ込み、さらに関係者をつけねらった事件」。この概括を見る限り、同情の余地はなさそうだが、当時の者は違っていて、人気が出たという。
妻子持ちだが、情婦にひとすじの恋を投げ出した律儀な男、というところがいかにも大正時代。また、「延3万6千人の警官、10万円の経費を使った大捜査陣を翻弄したのが小気味よかった」ものと推定している。
・説教強盗−大正15年から昭和4年にかけ、東京市内を騒がせた「左官職妻木松吉は、押し入った家で金を取ってからも座り込んだまま」この家は強盗に入りやすいから戸締りを厳重にするようになどと説教を始める。
・大正14年年末、京浜、阪神を股にかけた「ピス健」こと大西精次郎の残忍さ。「かれは、騒いだり、抵抗したりする者を容赦なく射殺した。」
逮捕時の14年12月13日の東京朝日新聞の記事では「出獄後のかれの思想は非常に左傾し、"もはや如何に悔悟しても、自分は怖ろしい前科者としてとうてい社会に容れられるべくもない、この上は世間の人びとがびっくりするような大罪を犯し、悪魔としての名を残すのだ"と常に豪語していた。」と記す。
《世をすねたこの凶悪犯に、「左傾」の文字を用いているのもおもしろい》と大河内氏は結んでいる。


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近代合理的精神やヒューマニズムは明治以来輸入された、もしくは明瞭に言葉としてとらえるようになった発想といえる。
一方、明治期は先進諸国からの属国化を退けるための国家設立が急がれ、近代合理的精神やヒューマニズムという文化上の言葉は現実への皮肉とも見えた。
明治生まれ(明治を牽引した者の2代目)の教育では、近代合理的精神やヒューマニズムを教わることから、その2代目が現実を目の当たりにするとき、その教養はどういった行動をもたらすのか。うまく少しずつ現実化していくことができるに越したことはないが、歴史の進展は遅い。
したがって、明治、大正、昭和、平成のそれぞれの時期において、思想と現実との衝突が起きる。尤も、こうした衝突は近代以降に限らないが、近代以後の特徴は思想と実生活を具体的な事業として現実化するという命題が前提としてあり、文化・教養ジャンルに限定されない運動として行動するものである。

近代合理的精神やヒューマニズムが社会主義となり、プロレタリア運動となり、国際的影響を受けて社会科学的根拠をもつとされた共産主義運動と進む。
.......................................................
《この物語の「大正」の巻は、日本の労働組合運動の中心をなす日本労働総同盟の左右両派の内紛と、その結果としての悲劇的な分裂、大正十四年五月二十五日の左翼労働組合=日本労働組合評議会の創立をもつて筆をおいた。》

「総同盟」はもともと親睦会的な互助組織である友愛会が、労資紛争の解決をするようになり発展をしてきたもので、「日常的・経済的利益の擁護を目的とする、現実主義」色の強い性質がある。一方、「評議会」は「急進的な少数精鋭」による革命を追求するものであった。
《こうしてできた二大勢力の争いは、あたかも明治末期の「赤旗事件」、「大逆事件」などをめぐる、社会主義の硬・軟両派の抗争を彷彿させるものがあった。》

大正十四年四月二十二日 治安維持法公布、五月五日 普通選挙法公布、とこちらも硬軟が揃っている。

《大正十四年六月、左右対立の圏外にある日本農民組合の提唱により、無産党創立運動が着手された。》
《しかし、総同盟と評議会の無産党創立運動における主導権争いは、両者間の反目をいっそう激化させ、結成された無産党は、まさに七花八裂の有様だった。》


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テキスト『日本労働組合物語』(大河内一男・松尾 洋/筑摩書房 昭和40年)

これは全3巻になっており、それぞれ明治・大正・昭和に分けられている。

プログ本来の趣旨に戻るため、『昭和十年代史断章』(伊藤 隆/東京大学出版会 1981年)を考えていた。これは「戦前」と「戦後」を埋める作業として適当であるとみえた。近年は、冷戦構造前の構造がちらちらと見え、明治からの歴史にまで一気に回帰してしまいそうな思想背景であるとともに、戦中から今日までの歴史もまた実態としてあるわけで、そうした歴史的脈絡の二重性に見舞われている。そういうなかにあって、日本の戦中史は特別複雑であり、俗にいう親から子に伝え聞かす物語にならない。これは国民の状態としては全くよくない。何か起きれば、意見の分立、対立が起こることは避けられない状態として置かれている。したがって、私はこの時代について人と議論しない。こうした直接利害関係が生じなそさうな議論もまた白熱化、過激化は避けられず、実証が弱い分だけ徒労で悲惨である。そのうえ、情報戦略のカビも戦中戦後通じてかまびすしい。カビは虚だが、行動化すれば実になる。虚な実、実な虚という般若心経のような世界観とも距離を取りたい。

ただ、伊藤氏の関心は政治外交であり、労働体制とは異なる。これもちょっと違うということから、これを機に、新書版で世話になっている大河内氏の著作にした。労働組合物語なので総同盟の解散⇒大日本産業報国会創立の昭和15年までとなり、労働体制としては空白が残るのが惜しくはある。


他に、『逆説の軍隊』(日本の近代9 戸部良一/中央公論社)もお勧めである。帯には「時代を牽引した巨大組織は、なぜ〈反近代の権化〉となったか」とあり、興味深い。
これも積ん読状態が長いので何もいえないが、日本の職場秩序と関係するとだけは言える。商人の職場秩序はもっと古いが、またそれも念頭に置かねばならぬが、今日の組織化された(みたいな)職場秩序は軍隊状況から流れたものが多い。悪いことも合理的なものも。

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