ここから本文です

書庫全体表示

日本労働組合物語 4

《4 共産党の再建運動》

《大正11年7月に創立された共産党は、12年6月に、数人の亡命者や検挙もれをのぞいていっせいに逮捕され、※治安警察法第28条によって起訴された。》
※「秘密の結社を組織し、または秘密の結社に加入したるものは6カ月以上1年以下の軽禁固に処す」

《6月検挙後の共産党は、佐野文夫、青野季吉、赤松克麿、北原竜雄らによって仮執行部が設けられたが、震災の混乱ののち、党の解散説が高まった。同年末から13年初頭にかけて、検挙された党員がつぎつぎに帰ってくると、…》

・13年2月に、議題を今後の問題とする党協議会が開かれ、荒畑寒村が反対を唱えたが、大勢は解党に傾いた。

《1、大衆より遊離しセクト(宗派)的組織におちいらざる共産党の建設のため、現在の事実上崩壊状態にある党を解散する
1、解散後の残務を処理するため、1つのビューロー(事務局)を設ける》

《ビューローには青野季吉、佐野文夫、北原竜雄、徳田球一、荒畑寒村の5人が選ばれた。なお、赤松克麿は、このころ離脱して「科学的日本主義」を唱え、総同盟の松岡駒吉、西尾末広、塚本重蔵に現実主義右派の理論的支柱になつていった。》

・大正13年5月、ビューローによって雑誌『マルクス主義』が発刊された。
《同誌は、実質的には共産党の理論機関紙として出されたものだった。》

《そのころ党員のあいだには、当分情勢や政策の研究をして再建は提唱にとどめようという「提唱派」と、再建のために行動を起こすべきだとする「行動派」とが対立していた。一方、この年6、7月にコミンテルン(国際共産党)第5回大会が開かれたが、日本共産党の解党が問題になり、片山潜、佐野学をふくむ日本委員会が設けられ、ただちに再建するよう指示が出された。これに力をえた荒畑、徳田をはじめ、労働者党員によって共産党の再建運動がすすめられた。》

《大正14年1月、行動派の荒畑寒村、徳田球一、提唱派の佐野文夫、青野季吉の4人が上海によばれ、モスクワからやってきた佐野学、コミンテルン極東部長ヴォイチンスキー、プロフィンテルン(国際赤色労働組合同盟)代表ヘラーと3日間にわたる会議が開かれた。討議の結論は、
1、解党の誤りを認め、再建のために積極的な運動を開始すること
1、そのため現在のビューローに数名の労働者メンバーを加えること
1、大衆的な新聞を創刊すること
など、簡単な5項目の決議にまとめられた。これらは「上海テーゼ」、または「1月テーゼ」とよばれている。》

・提唱派の佐野文夫、青野季吉はテーゼの起草には参加したが、帰国したのち脱党した。

《共産党の再建運動の労働組合内における活動は、テーゼの決定にしたがって左翼の結集に集中されたが、この間、総同盟内の左右対立がぬきさしならない悪化の一途をたどった…》。
・そして総同盟の分裂、日本労働組合評議会の創立にいたる。
・9月、佐野学を編集長とする、月2回刊の『無産党新聞』が創刊。《これで共産党再建運動が一段と発展したわけで、労働組合運動、左翼文化運動などをみるばあいには、非合法の共産党の動向を無視できないことになった。》

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
  • 名前
  • パスワード
  • ブログ

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事