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自称旅師初段(じしょうたびししょだん)を名乗ることにしました。

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竹子島の首都のある中王山地を貫通する鉄道は前回紹介した舞糸高速鉄道のほかに
森田鉄道(この後社名変更の発表があります)、酉武鉄道(とりぶてつどう)、中王電鉄、そして今日取り上げる朋江組合鉄道があります。
朋江組合鉄道は今でこそ舞糸高速鉄道の子会社となっており、起点である「とうしん」からごりたざで舞糸高速鉄道に乗り入れ舞糸市内の駅であり舞糸市役所が入居するセントラルタワー駅を目指します。140キロ運転ができる舞糸高速鉄道線内の条件に合わせた車両「COMITA02」基本2両編成が使われており、スタンダード快速と併結運転が行われます。ただこの運用方法も「竹子島ハイスピードバーン」が開業するとグレイト快速の運用がそれに移るため線路容量に空きができることになるのでやがては併結運転をすることがなくなるかもしれません。それと同時にとうしん-ごりたざ間の線路容量を増やすべく全線複線化、そして区間内全駅4両編成対応化工事が行われることになりました。
またごりたざ-平波間では「COMITA03」基本2両編成が使われております。これは「竹子島ハイスピードバーン」の一部であり「北松高速鉄道」運営区間であるごりたざ-北松港にも乗り入れています。

舞糸高速鉄道の子会社になる前はごりたざ駅は朋江組合鉄道の前身であるオレンジラインの所有駅でした。その頃はとうしん-ごりたざ-平波間は通し運転が行われておりましたが、その頃の乗降客は少なく柑橘類を中心とした農作物運搬が中心でした。40年前あたりに舞糸高速鉄道の生みの会社となる舞糸渡船が創立された際、湾岸設備が貧弱なとうしんと平波にかわって舞糸港を使った柑橘類の外国への出荷が始まるようになります。一見、島の端と端を結んで外国への出荷は意味が不明で当時は柑橘類農家から理解がなかなか得られませんでした。しかしまだ軍事にしか興味が無かった頃の中央政府の助けは一切期待できず湾岸設備が強化されないままのところで腐らせるよりも、産地からは遠くても迅速に対応できる資金力のある舞糸渡船の港を使った方が最もよい方法だったのです。
そして舞糸高速鉄道が創立された数年後にオレンジラインは農産家が資本を出し合う組合鉄道として再スタートを図ります。それが朋江高速鉄道でした。ちなみに朋江駅はごりたざ-平波間の中間に位置する駅です。
再スタートを図った後にごりたざで運用形態が分割されました。とうしん-ごりたざ間を「中畑線」ごりたざ-平波間を「朋江線」としました。そのときに中畑線から舞糸市内への乗り入れが計画されることになります。これは当時竹子島の中ではとにかく画期的なことでした。
そして「貨物電車」が設定されます。2両編成のとうしんより車両の半室を柑橘類運搬に使ったのです。これはまだとうしんから舞糸市内へ行く人がそんなにいなかったから出来たことでした。今は4両編成の柑橘類専用電車が作られ「みかんとみんながのりあう」と言うキャッチフレーズのようなことはなくなりました。昔の姿と今を比べると組合鉄道側は「大躍進をしたから中央政府から褒美をぶんどりたいwwww」とよく言います。
柑橘類の出荷はとうしん駅の手前の駅である千ヶ滝駅からなので中畑線ではとうしん-千ヶ滝間が唯一の旅客のみの区間です。この千ヶ滝、選果場をボキャぶって作った名前です。とはじめは選果場職員のお遊びだったのですが、その後なぜか探索家がいくつもの滝を見つけてしまい竹子島で一番新しい観光地となりました。無論「この責任をとるため」選果場職員はその観光客に特産物を販促することに余念がありませんwww
とうしんから舞糸市内への乗り入れには有名なエピソードがあり、とうしん出身の女性が舞糸市内にある当時の芸能事務所に所属した後というのか、音楽グループに所属しその後世界的にヒットを収めその後自身でレコード会社を立ち上げた後、舞糸市の建設課の建設デザイナーとしても手腕を振るい「竹子島一番の芸術都市」を作り上げました。その人の出身地から舞糸市へ直通列車を走らせるのは至極当然と言うことになったようで、それでかなった直通運転と言われているそうで一部の人からはその人の名前から「あみでん」といわれているそうです。

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