|
矢吹康夫, 2010,「書評 西倉実季『顔にあざのある女性たち――「問題経験の語り」の社会学』」『立教大学大学院社会学研究科年報』17: 59-60.
大学院の紀要に書いた書評です。長くないので以下、全文載せます。序章でほんの少し言及があるものの、アルビノを主題とした本ではないです。でも、共有できることがたくさん書いてあります。 版元の生活書院の詳細ページはこちらです。多分大丈夫だと思うんですけど、以下は赤入れ校正前の原稿です、一応。 【書 評】 西倉実季『顔にあざのある女性たち――「問題経験の語り」の社会学』(生活書院 2009年) 疾患や外傷によって顔に著しい特徴をもった人びとがいる。これら異形の人びとは、学術的な関心を向けられず、社会的にも認識されてこなかった。本書は、特に顔にあざのある女性たちへのライフストーリー・インタビューをもとに、これまで不可視化されてきた彼女たちの苦しみ(問題経験)を可視化することを試みた意欲作である。 まず第1章では先行研究が批判的に検討される。異形の人びとは、外見の改善を目的とした医学的アプローチ以外ではほとんど研究対象にされなかったうえに、されたとしても困難ばかりを強調した心理学研究が主であった。だがそれらは、個人的経験にもとづく病いの意味を見落とし、人生における変化に対応できておらず、さらには彼/彼女たちを無力な存在と見なして当事者たちによる問題への対処法を軽視していた。 こうした問題点を乗り越えるために、第2章では、ライフストーリー研究法の有効性が示される。ライフストーリー研究法は、顔にあざのある女性たちを無力な存在と見なさずに問題経験とそれへの対処法にアプローチすることができる。また、対処には不安を軽減する一方で行動に制限を課すという陥穽がある。人生における変化にも照準する本書の特徴は、問題に対処したことで一件落着とせず、対処によってもたらされた結果にも目を向けたことである。 例えば、第3章に登場するAさんは、幼い頃から他人の視線にさらされ、アルバイト経験をとおしてあざのある顔で就ける職業が限られていることに気づかされ、さらには恋愛・結婚もあきらめていた。従来の先行研究であれば、Aさんは、困難に翻弄される無力な存在か、あるいは大学時代に始めたカムフラージュメイクによって問題を解消し、社会に「適応」した女性として描かれただろう。だが本書は、Aさんの人生のなかにカムフラージュメイクを位置づけ直し、それ以後の問題経験と対処法にも着目する。確かにカムフラージュメイクは彼女にとって「良い意味での転機」になったが、隠すことで親密な人間関係が築けず、あざが露見しないように行動や考えが制限されるなど、新たな問題経験を生じさせたのである。 次に第4章では、いじめや罵倒などの周囲からの攻撃をへて、高校進学を機に個人的努力によって問題経験に対処してきたBさんの人生が描かれる。彼女は、人とのコミュニケーションに積極的になり、趣味や特技、さらには内面を磨くことで「きれいと認識される存在」になれるよう「努力」を重ねてきた。だが、それら個人的努力では「自信のなさ」は解消されず、あざのある自分を認められないという否定的な感情を導くことになってしまったのだ。その後Bさんは、セルフヘルプ・グループ「ユニークフェイス」に参加したことで、補償努力に駆り立てられていたかつての対処法が「間違いだった」と評価するにいたり、新たに価値の取り戻しとクレイム申し立てという戦略に向かったのである。 AさんとBさんが時間的推移のなかで人生を再構成したのに対し、第5章では、ひとつの問題経験に対するCさんの対処法のバリエーションが語られる。そのひとつとは「自分の顔は普通じゃない」という強烈な意識であり、彼女は「普通の顔」を手に入れるために手術を選択する。また、仕事や恋愛の経験によって「自分の顔に対する重要度」が徐々に低下していったことも語られる。仕事や恋愛は、現在から遡及的に振り返ったときに意味のある出来事として語られたものであり、必ずしも明確な対処法ではないのだが、顔に対する考え方の変化をうながした経験である。 以上3人のライフストーリーの詳細な検討をふまえて、第6章では、顔にあざのある女性たちの問題経験が、(1)否定的な自己認知、(2)対面的相互行為の困難、(3)ライフステージごとに直面する困難、(4)家族関係の困難、(5)社会的認知の不足の5つに整理される。だが、これまでの議論からも明らかなように、彼女たちはただ困難に翻弄されるばかりではなく、その時々において問題経験に対処している。しかし著者は、問題→対処→問題→対処といった階段を一歩一歩上っていくようなモデルで表現するために人生の時間的推移に着目したのではない。各章の後半部分で「現在進行形の問題経験」が語られていることからも、安易な結論が目指されていないことは明らかだろう。むしろ、医学的・心理学的な介入によって個人が抱える問題を「改善」し、段階的な「適応」やら「回復」の過程をへてゴールとしての「克服」を目指すようなアプローチからは明確に距離をとっているのだ。克服した人や無力な存在といった結論に飛びつくことなく、注意深く彼女たちのリアリティを描き出そうとする態度は、本書がライフストーリー研究法を採用したからこそであり、第7章では、インタビューの相互行為過程の分析から調査者の構えが省察される。こうして、第1章で批判された医学・心理学だけでなく、著者自身が保持していた社会学的な知のあり方も相対化される。 多様な対処法を聞き取り研究成果としてまとめることは、当事者たちの困難の軽減に資する豊富な選択肢を提供するはずであり、それも本書の目的のひとつである。と同時に著者は、困難の軽減・解消を当事者だけに課し、社会的責任を問わずにすませてしまうことの問題性にも自覚的である。そうせざるをえなかった人びとによる対処の戦略の豊かさ、巧みさを評価することで、そうせざるをえない状況に追いやった社会が免罪されるわけではないという点は、何度強調してもしすぎることはない。むしろ本書は、対処に次ぐ対処の結果、問題は軽減したものの、完全な解消にはいたっていないことを示しており、彼女たちの問題経験がどこに起因するのかをより鮮明に描き出していると言えるだろう。 だからこそ本書は、異形の人びとの苦しみを可視化することを目指したのである。終章では、第6章で整理した困難のうち、社会的認知の不足と対面的相互行為の困難の2つが検討される。そこでは、異形の人びとにふりかかるる困難は徹底して社会的なものであることが示され、個人レベルの問題にすり替えることなく非当事者の側にできること/すべきことが具体的に提言されるのだ。 顔にあざのある女性たちの語りを聞き届けず、その苦しみを不可視化しているのは一体誰なのか。それは他でもない〈私〉なのであり、本書には、調査の過程でそれに気づかされ変化していった著者自身の構えを追体験できるだけの力強さがある。読了後は誰もが、異形の人びとの問題を「対岸の火事」とは思えなくなっていることだろう。 |
全体表示
[ リスト ]



