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文学研究や批評は専門ではなくて方法論とか作法がよくわからないので(もちろん理論も)、とりあえず僕にできることは、書いてあることや語られたことを整理して、そこから言えそうなことをひとつひとつ確認するくらいです。
またしても、冒頭から言い訳です。 さて、どんな人がどんな理由で作家になったのか、一般的なことはわかりません。ですが三浦哲郎⇒は、作家を志してなったのではない、小説を書きたくて書き始めたのではないとくり返します。 また、三浦哲郎はもっぱら「私小説作家」として紹介されます。でも本人によれば、私小説を書こうと思ってこの方法を選択したのではないし、自分が書いてるものが私小説なのかどうか自信がないとも言います。 「忍ぶ川」で芥川賞を受賞した翌年の1962年に、三浦は「私と私小説」という短い文章を書いています。そこには、取材にやってきた人から私小説を書く動機を問われたエピソードが描かれています。 「あなたが〈私〉を主人公にした小説を書くようになった動機はなにか」と問われたのに対して三浦は、「これといって動機はない」、あるいは「私が生まれたことと、小説を書くことをおぼえたこと」だと答えました。でも、質問した人はそれでは納得しませんでした。要するにその人は、私小説を書こうという動機のない若者が、今さら私小説という「古い方法」を選んだことが納得できなかったようです(三浦 1962: 54-5)。 簡単に背景を説明すると、1960年代初頭といえば、60年安保などなど政治闘争・学生運動真っ盛りの時代であって、文学作品にもその影響はありました。そんな最中に芥川賞を受賞したのが、政治とは無縁に思える「古風な恋愛小説」だったものだから、いぶかしがられたのだと思われます(三浦・栗坪 1981: 190)。 「私と私小説」に話を戻しまして。その後、三浦も思いをめぐらせて改めて考えています。自分が「はじめての小説を書こうと思ったとき」にまっさきに思いうかんだ題材は、長い年月の間「そのことを思い患い、思いあまって、早く吐き出したくてうずうずしていた」ことでした。それが具体的に何なのかは三浦作品を読んでもらうとして、とにかく「吐き出したくてうずうずしていた」三浦にとっては、そのための「最もぴったりした方法」で書いただけであって、吐き出した後になってそれが私小説だと評価されたにすぎません(三浦 1962: 55)。 したがって三浦は、「厳密な意味で私の書くものが〈私小説〉といってよいかどうか自信がない」と言い、ただ「切実な問題を語る」ために「私小説の方法を借りているだけ」なのだと述べてこの短文をしめくくります(三浦 1962: 56)。 「吐き出したくてうずうずしていた」「切実な問題を語る」というあたりにほとんどが集約されているんですが、他にも動機について語ったものがあるので、もう少し紹介します。文芸評論家の秋山駿との対談で次のようなやりとりがあります。 秋山 三浦さんの方でもさ、小説というものをまず選んで、それから三浦さんがやってる小説のスタイルを選んだ―― 三浦 いや、僕はね。選ぶほど文学青年じゃなかったですね。(三浦・秋山 1974: 79) 多分これは、秋山の言葉を遮って三浦が否定した場面だと思います。「文学青年じゃなかった」から、小説という媒体・ジャンルを選んで、そのうえで方法・スタイルを選んだわけではないと言ってます。 これに続けて「文学少年時代ってものが全然なかった」と語る三浦は、「もやもやした煩悶みたいなもの」があって、それを誰かに訴えたくて、「どう書けば一番自分の言いたい事がわかってもらえるか」を考えた結果、私小説に落ち着いたと説明します。ここで対比させているのは、「いろんなものを読んで」きた文学少年・文学青年が「自分に適したものを選んで」小説を書き始めるというプロセスであり、自分はそうではないと言ってるわけです(三浦・秋山 1974: 80)。 実際に文学少年が作家になるというルートが一般的なのかどうかは知りませんが、作家になった理由としては理解しやすいように思います(例えとして適切かどうかわかりませんが、プロ野球選手のほとんどは野球少年だったはずです)。どうやら三浦は、そのような動機づけとは距離をとろうとしていたみたいです。 また、近代日本文学の研究が専門の栗坪良樹によるインタビューでは次のようなやりとりがあります。 栗坪 三浦さんは、少年時代スポーツ少年であったから書いたりするような文学少年とは無縁であったということにもなりますか。 三浦 結局、自分の家族のことからくる陰気さを隠すためにスポーツがあったわけですね。その延長で身体を鍛えて軍人になることを、特に望むような少年になったんですね。(三浦・栗坪 1981: 193) 少年時代の三浦はバスケットボールに熱中していて、「ハヤブサの哲」の異名で呼ばれる俊足フォワードだったことは有名です(デーリー東北新聞社 2005: 14)。 で、上記のやりとりでもやっぱり文学少年が否定され、スポーツ少年だったことを確認しています。その動機は「家族のことからくる陰気さを隠すため」と説明しています。しかも、スポーツ少年の延長には軍人もあったと語っています。 「吐き出したくてうずうずしていた」ことや「もやもやした煩悶みたいなもの」や「家族のことからくる陰気さ」など、いろんな表現を使ってますが、全部同じものであって、それが三浦を突き動かしていたということです。少年時代はスポーツや軍人(を目指すために体を鍛えること)でそれを隠そうとしていたけど、その後小説という形で吐き出そうとして、結果的に作家になったのです。 ここまでくると、作家になった動機というよりも、生きる動機と言ってもいいのかもしれません。実際、兄や姉たちについて表現することを「生きのびるための糧にしようと私は思った」とも語っています(三浦 1962: 56)。また、結果的に私小説(と評価される)スタイルに落ち着いたけども、吐き出すために「最もぴったりした方法」ならば音楽でも絵画でもよかったのかもしれないです。 ともかく三浦が否定し続けているのは初発の動機としての文学であり、少年時代に文学をたくさん読んで感動した、救われた、憧れた、目指そうと思ったなど、読者が作者になったという説明です。根源にあるのは文学ではなく家族であって、それを表現したらいつの間にか「私小説作家」と呼ばれるようになったってことです。 参考文献 デーリー東北新聞社, 2005,『作家生活50年――三浦哲郎の世界』デーリー東北新聞社. 三浦哲郎, 1962,「私と私小説」『国文学――解釈と鑑賞』27(14): 54-6. 三浦哲郎・秋山駿, 1974,「紙足りて文学細り(早稲田文学平土間巷談2)」『早稲田文学(第7次)』6(2): 78-85. 三浦哲郎・栗坪良樹, 1981,「三浦哲郎氏にきく」『すばる』3(3): 190-7. |
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