アルビノについてのマニアックな知識をひけらかすブログ

長いので「アルビノについての(略)ブログ」でいいです。基本的に文献レビューです。

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   三浦哲郎の『白夜を旅する人々』がどれくらいの年月をかけて構想されて、発表にいたったのかを大雑把に見ていきます。自作を振り返った『雪の音、雪の香り』のなかで「この作品の構想が、自分の脳裏に萌しはじめたのはいつごろだったか、もう思い出せない。思い出せないくらいだから、随分以前のことである」と述べてますが(三浦 1994: 215)、それがいつ頃だったのかについてです。
   「なまんだうち抄」という短い随筆があります。初出は1984年4月号の『すばる』で、その後『春の夜航』(1985)に収録されました。『文集 母』(1994)にも再録されています。その「なまんだうち抄」の最後のページに次のようなくだりがあります。

   十数年前、私は帰郷したついでに、おふくろから、私がまだ子供だったころ突然生家に吹き荒れた嵐のような一連の出来事について、ノートをとりながらくわしく話を聴いたことがあるが、そのとき、おふくろは、もしこれを書きものにするつもりなら、自分が死ぬか、死んだも同然になってからにしてくれといった。私はいま、それを書いているのだが、毎日、何度となく、見ようとしなくても目がひとりでにおふくろの写真に引き寄せられて、その都度、私は蔭でやましいことを働いている子供のような気持になって、目をそらす。(三浦 1985: 113)

   「私はいま、それを書いている」のが何かと言えば、雑誌『新潮』の1981年5月号から1984年10月号まで連載していた『白夜を旅する人々』(1984)です。「突然生家に吹き荒れた嵐のような一連の出来事」については『白夜』を読んでください。また、「自分が死ぬか、死んだも同然になってから」書くようにと話した母は、1979年に倒れて入院し、亡くなったのは1983年9月のことです。
   さて、母から書きものにするのを止められていたという「嵐のような一連の出来事」について三浦がそれまでまったく書いてこなかったかというとそんなことはないです。2人の姉が自ら命を絶ったことや2人の兄が失踪したことなどは、いろんなところに書いてます。『白夜』以前に比較的まとまった量を書いているものとしては、1972年4月から1年間『毎日新聞』に連載した短篇を1冊にまとめた『笹舟日記』(1975)があります。自作を振り返った『雪の音、雪の香り』のなかで、『笹舟日記』は「私にとって一つの決算だった」と評価してます(三浦 1994: 30-1)。
   それ以外に『青い鳥』という雑誌の1976年9月号から1977年8月号に連載されていた「わたしの白夜」があります(追記:年譜によれば(デーリー東北新聞社 2005: 72)、連載当時のタイトルは「白夜ノートから」で、連載は1年で「中断」だったとのことです)。ただこれは、2005年に出た『恩愛』に収録されるまでずっと単行本未収録のままで、あとがきで三浦自身も「私の書いた連載もののなかでは、最も初期に属するものの一つで、長年雑駁な仕事に埋もれて、その存在すら忘れかけていた」と言ってます(三浦 2005: 321)。また、本文でも「わたしの出生の事情をくわしく語ることができれば、わたしたち一家のことをもっとよくわかってもらえるのだが、残念ながらその余裕はない。このことは、いずれ改めて語る機会があるだろう」と書いてます(三浦 2005: 28)。
   なお、この「出生の事情」は短いながらもずいぶん早くにすでに書いていて、それが雑誌『文学界』に1966年に発表した「亀徳しづさん追悼」です。亀徳しづさんというのは、三浦をとりあげた「産婆さん」で、彼女がいなかったら自分は生まれてこれなかったかもしれないという話を病床の亀徳さんから聞き取ったそうです(三浦 1979: 95)。『雪の音、雪の香り』で亀徳さんをモデルに書いた「しづ女の生涯」のことを振り返っていますが、そこでの「あなたがお生まれになったときのこと、お母様がなにか話してくださいました?」「いいえ、なんにも」というやり取りを読む限りでは、三浦自身もこのときこの事実を初めて聞かされたようです(三浦 1994: 62-5)。
   ちなみに、『笹舟日記』のなかに「おふくろの消息」というのがあります。そこで、兄や姉がずいぶんとお世話になった叔父の突然の訃報に触れています。それによると「私は、この秋、せっかちにも自分から生涯を閉じてしまった兄や姉たちの足跡をつぶさに辿って、私たち一家の忌まわしい血の歴史を長編小説に書くつもりだが、この叔父にはたくさん聞かせて貰いたいことがあったから」突然の訃報に茫然としたそうです(三浦 1975: 28)。
   それから、1967年から3年間、長編小説『海の道』を『文学界』に連載していた最中に、資料調査のために郷里の図書館に毎月通っていました。そこで偶然、姉の投身自殺の新聞記事を見つけています(三浦 1975: 362-3; 1994: 55)。
追記:2012.12.31 1983年から84年にかけて『婦人画報』に連載していた「みみずくの章」という随筆が『旅雁の道草』に収録されています。入院した母を毎月見舞っていた頃の話ですから、1979年から83年の間のことです。あるとき三浦は、病院に母を見舞った後、墓参りをしてから八戸に向かいました。二番目の姉の最後の後ろ姿を見送った姉の友人に会いにいくためです(三浦 1984: 32-3)。これも、取材と考えてよさそうです。

   時系列が行ったり来たりしてわかりにくくなっちゃいました。整理しますと、亀徳さんから聞き取りをしたのがおそらく1966年かそれより少し前。姉の記事を見つけたのが1967年から69年の間。「なまんだうち抄」に「十数年前」とあるから、母から話を聞き取ったのがだいたい1970年前後(これの時期が一番曖昧)。叔父から話を聞き取ろうと思っていたけどかなわなかったのが1972年。姉の友人に話を聞きにいったのが1979年から83年の間で、後半は『白夜』の連載中です。
追記:2012.1.2 「亀徳しづさん追悼」の最後に、「出生の事情」を聞かされたときの衝撃を「『かな女覚え書』という作品に書いた」と書いてました(三浦 1979: 96)。見落としてました。「かな女覚え書」は、1964年1月『文学界』発表なので、聞き取りをしたのはそれ以前になります。
   亀徳さんからぜひ会いたいとお誘いがあって出かけていったり、新聞記事を偶然見つけたりしたのは受け身の出来事ですが、自分から調べて聞き取りをした/しようとしたのは主体的な行動です。もちろんそれ以前から「吐き出したくてうずうずしていた」ものはあったから、デビューを起点に構想20年と言ってもいいし、最初に姉が亡くなった日を起点にすれば構想40年以上となります。でも、取材をしたり資料を集めたりして、明確に『白夜』を書くという意志をもって動き始めたのは1970年代初頭ですから、構想10年くらいでしょうか。

   この話、続きます

参考文献
三浦哲郎, 1975,『笹舟日記』新潮社.
三浦哲郎, 1979,『おふくろの妙薬』三月書房.
三浦哲郎, 1984,『白夜を旅する人々』新潮社.
三浦哲郎, 1984,『旅雁の道草』講談社.
三浦哲郎, 1985,『春の夜航』講談社.
三浦哲郎, 1994,『雪の音、雪の香り――自作への旅』新潮社.
三浦哲郎, 2005,『恩愛』世界文化社.
デーリー東北新聞社, 2005,『作家生活50年――三浦哲郎の世界』デーリー東北新聞社.



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