|
三浦哲郎⇒の『白夜を旅する人々』が構想から発表までどれくらいかかったのか、主に三浦自身が書いたものをもとに別の記事⇒にまとめましたが、その続きです。今回は、インタビューや対談など、三浦が話したことです。ちょっと抜粋が長いです。
先の記事では、母親から書かないようにと止められていた話が出てました。でも三浦は、少なくとも1970年代初頭には『白夜』を書くつもりで取材や資料収集に着手していたものと思われます。そして、実際に連載がスタートするのが1981年春です。
まずは『白夜』から10年以上たってからの話。1997年、作家の佐伯一麦との対談で、当時を「僕も短篇で、自分の生家のことをいろいろ小出しにしていましてね。それがなかなかうまくいかないんで、長篇で書こうと思って書いたんだけれど、やっぱり難しかった」と振り返っています(三浦・佐伯 1997: 172)。これはもちろん、長篇小説『白夜』を書くのが「やっぱり難しかった」ということです。
では、何が難しかったのでしょうか。1974年の文芸評論家の秋山駿との対談では、それまで一番肝心なことを書けなかったと吐露しています。
三浦 肝心なことを今まで書かなかったから、どうしても作品が弱くなるわけです。で、しかも、ごたごたにまき込まれたんだけども、かろうじて生き残った連中もいるわけですね。その生き残った連中の、どうしても味方になってしまう。だめになった連中を、一方的に非難するような立場になるわけですよ。つい、その生き残った連中に味方をしてしまう。そうするとね、どうしても甘ったれたところが出てくる。(略)なんども、そのやりきれない気持ちになってくる。それがね、いままで、ずっとたまってきた、十年間――だから、たまらなくなってね、こんど、その一番辛いことをね、書く。(三浦・秋山 1974: 83)
それまでなかなか書けなかったのは、三浦の言葉によれば「残った連中に対する配慮」です。この対談では、この後「一人や二人死んでもいいと思って、書く決心をする」と意気込んでいます。
それから3年後、作家の田久保英夫との対談でも同様のことを話しています。『毎日新聞』での短篇の連載を経験して(後に『笹舟日記』)、そこで「相当につらいこと」でも肩の力を抜いて書くことを覚えたそうです。それだけでなく、「相当につらいこと」を書くには年齢的なことも関わっているかもしれないと続けます。
三浦 やはり年齢的なものもあるかもしれません。いままでは、自分ぐらい不幸な境遇はないというような気持で、しかも危うく生き残った者たちを自分が庇っていかなくちゃいかんという、ふつうの日常生活でもとても力んだ暮し方をしてきたわけです。ところが、力めば力むほど不思議に小説っていうのは甘くなるんですよね。つまり美談の匂いがしてくるわけです。まあ、実生活ではそれでいいかもしれないけれど、それを小説に書きますと、なんとも厭味なものになってしまう。(田久保・三浦 1977: 183)
秋山にも「甘ったれたところが出てくる」と言ってますが、生き残った家族への気遣いや配慮があり、そのことが作品に如実に反映されて「美談の匂いがして」きて、「厭味なものになってしまう」と感じていたようです。これもまた、なかなか書けなかったひとつの要因で、作家としては乗り越えなくてはならないことなのでしょう。
さらに、日本近代文学研究者の栗坪良樹によるインタビューは『すばる』の1981年3月号掲載ですから、『白夜』連載開始の直前です。母のことをいろいろと短篇小説に書いてきたけれど、「これは長編で書くべきだ、短編で書くべきじゃない」と言われることもあり、長篇を書くつもりだと続けます。
三浦 実際それも近々やらなくちゃいけないんですが・・・。結局、今までは〈私〉で書きますとね、どうしても生き残った母なり姉なり僕なりの側に立って書くことになって、こういうふうにしたのは、兄や姉たちが悪いんだ、お前たちが早まったことをしてくれたからなんだ、というような形になってしまっていたんですね。これを長編にすることにしますとね、今度は兄や姉たち一人一人にね、人間性を与えて、彼らも悩んだ末にこうなったというふうに、僕自身考えを改めてもっと広い立場に立たなくちゃならんわけです。そんな考えで改めて今まで短編で書いてきたことを、書き直そうかって考えてはいるんですが、ただ家族のことはそう変えるわけにもいかないわけですから、どうしてもむし返しのようなところも出てくる。それがどうも引っかかって、手がかじかむんですよね。(三浦・栗坪 1981: 196)
ここでも新たに『白夜』のために乗り越えなくてはならない課題があると述べています。それは、すでにいない兄や姉たちに「人間性を与えて、彼らも悩んだ末にこうなった」とわかるように書くということです。例えば『雪の音、雪の香り』などで度々、三浦は『白夜』に対する「自伝的私小説の集大成」という評価だけは「気に入らない」と反論しています。『白夜』はあくまでも「想像の世界」の話であり、兄や姉たちの「人生の再現」なのだと(三浦 1994: 218-9)。上記のインタビューを読むと、それも納得できるような気がします。
具体的にどうやって「人生の再現」をしたのかは、『白夜』からしばらくたった1986年、文芸評論家の武田勝彦によるインタビュー「白夜をゆく家族たち」に詳しいです(三浦・武田 1986)。が、ここでは省きます。本当に具体的に構成や表現方法などのテクニカルな話をしています。
最後にもうひとつ、『白夜』からおよそ10年後、文芸評論家の新船海三郎によるインタビューで次のように話してます。ちょっと長いです。
三浦 話に出ましたけど、「白夜を旅する人々」というのは、ぼくには、あれを書くためにずーと瀬踏みをしてきたようなところがありましてね。短篇で、小出しにして、これでもだめ、これでもだめ、なんべんも書いてみて、もう、死屍累累ですけども。ところが、そうか、これは姉の再生の物語だな、ということがなんとなく分かってきた時期があるんですよ。どうして分かったのかといわれると困るんですけど、年齢のせいもあるでしょうし、自分の中になにかが成熟したということもあるでしょうね。
(略)いろんなことを考えているうちに、一つの理解に達するわけです、ひょっとしたら、姉はぼくの中に再生を願ったのではなかったかと。そうでなかったら、ぜったいにぼくの誕生日に死ぬわけないと、ひとつの確信に達するわけですね。それで、結果的には「白夜を旅する人々」という題になりましたけど、これで、自分の姉や兄のこと、自分の生家のことはぜんぶ書けるという気持ちになったのです。
それからです、いままでの死屍累累をのりこえて「白夜を旅する人々」を書こうと思ったのは。
あれは、自伝的な事実をふまえていますけど、すべてがぼくの創造、空想ですから。ですから、こうであってほしかったという願望の小説ですね。現実は、あの通りでなかったかも知れませんし、ああだったかも分からない。ただ、ぼくに考えられる姉や兄の悲劇はあのようであったわけですよ。(三浦・新船 1993: 159-60)。
生きている者への配慮をしながら、いなくなった者の「再生の物語」を書いたというのが後年の三浦自身の評価と言えそうです。長いこと葛藤があったと語っていることからもわかるとおり、この両立が難しくてなかなか『白夜』を書くにいたらなかったのではないでしょうか。
この話、まだ続きます⇒。
参考文献
三浦哲郎・秋山駿, 1974,「早稲田文学平土間巷談2 紙足りて文学細り」『早稲田文学(第7次)』6(2): 78-85.
田久保英夫・三浦哲郎, 1977,「短篇小説と方法――実感的創作論として」『文学界』31(2): 178-90.
三浦哲郎・栗坪良樹, 1981,「三浦哲郎氏にきく」『すばる』3(3): 190-7.
三浦哲郎・武田勝彦, 1986,「白夜をゆく家族たち」『知識』50: 124-31.
三浦哲郎・新船海三郎, 1993,「訪問シリーズ4 三浦哲郎――短篇の心、師への思い」『民主文学』376: 152-63.
三浦哲郎, 1994,『雪の音、雪の香り――自作への旅』新潮社.
三浦哲郎・佐伯一麦, 1997,「対談 自然の中にことばを求めて」『すばる』19(1): 170-87.
|
全体表示
[ リスト ]



