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三浦哲郎⇒が『白夜を旅する人々』を書くにいたるまでのお話です。すでに2つ記事を書きましたが、さらに続きです。
八戸に行って市立図書館でコピーしてきてたのをしばらく放置してまして、今さら発掘しました。奥付に「非売品」って書いてます。
三浦哲郎, 1973,「人間の目、文学の目」八戸市教育委員会内'72八戸市民大学講座講演集「伝統と未来」編集委員会『'72八戸市民大学講座講演集 伝統と未来』, 57-66.
八戸市民大学講座という、八戸市がやってる生涯学習のための講演会の講演録です。先の記事では、三浦自身が書いたものや⇒、商業誌に載ったインタビューや対談で話したことをまとめましたが⇒、そのなかでもけっこう早い1972年の講演で話したことです(出版は翌1973年)。
青森市に酸ヶ湯という温泉があるのだそうで、そこに行ってきたというエピソードから始まります。目的のひとつは疲れをいやすためで、もうひとつが長篇小説の構想をねるためです。1972年のこの段階で「『新潮』という雑誌に450枚の小説を発表するつもり」だと言ってます。
三浦 これは大変辛いことを書かなくてはいけない。できれば先にのばして、来年あるいはさ来年にしてもいい。なるべく先にのばしておきたい作品である。世の中には潮どきということがあって、辛いことは辛いうちに書くのが本当で、辛くなくなってから書くのは生きの悪い魚を刺身にするようなものである。辛いうちに自分に教えこむ。因果を含める意味でだ。それも1つの目標であったわけである。よく小説家で今だからこれを書けるという人がいるが、色々障害がなくなったら、書けるというのに、私は反対だ。障害があるからこそ書けるので、だからこそ感動をうける。障害が過ぎてからでは、それを書き初めた時から生命がないと私は考えるわけである。(p.63-4)。
この後、「その作品の内容を詳しくいうことは、今さけたい」と続けてますが、言うまでもなく『白夜』のことです。
さて、上記では「今だからこれを書ける」と言ってる小説家を批判してます。でも、先の記事の田久保との対談では「年齢的なもの」も関わっていて、ある年齢になってからこそ書ける作品もあると三浦自身が言ってます。ただ、これは矛盾ではないと思います。「色々障害がなくなっ」て、辛いことが辛くなくなったから『白夜』を書くことができたかというと、必ずしもそうではないはずです。
いなくなった者たちの再生の物語を書くというのは、辛いことがどういう意味をもつのか理解できるようになったという感じで、それは「辛くなくなった」と同義ではないでしょう。先の記事にも書いたとおり、『白夜』にいたるまでにずいぶんと年月がかかったのは、乗り越えなくてはならない課題がいくつかあったからで、辛くなくなるのを待ってたわけではないです。
例えば、ひとつクリアしなくてはならなかったのは、秋山や田久保との対談でも度々出てきた、作品としての「甘さ」です。
三浦 私の兄弟のことを話さないと、この小説は言えないのだが、いろんなことをした兄弟がいて、私とおふくろと姉が残っている。自殺をしたり、なくなった兄・姉がいる。自分の身内の事を私という題目で書くと、どうしても現在残っている者達の、たとえば、おふくろや姉の味方になってしまう。私達を捨てていった連中の小説は書けなくなる。それは文学作品としても、正しいかということになる。どこかあまさがあるわけだ。
先に死に、失踪した連中にも、それだけの責任感、あるいは死ぬだけの理由があり、彼なりの人生があった。それも認めてやらなければならない。人間みんな悲しくて、小さくて、間違いだらけの存在である。もっと大きな目でみて、それを包むような小説を書こうと思い始めた。それが「文学の目」である。いろんな短篇形式で、自分の身内のことを残っている者のために書いてきたかった一つの真実というものがあるわけである。今度、客観的に書いてみようと思っているのが、「私のカラマゾフ」での行程である。私は今それを書かなければ、今おまえの潮時なんだから、辛いうちに書くというが本当なんだということを自分自身に言い含めるつもりでいる。(p.65-6)。
栗坪によるインタビューで話していた、いなくなった兄や姉に「人間性を与え」るということが、ここで「文学の目」と表現されています。この段階で『白夜』を書くために乗り越えるべき課題のほとんどには自覚的だったようです。
いずれにせよ、全体の印象では、自分自身に対して、あるいは自分の作品に対して厳しかったということはよくわかります。この講演で話したことが結実するのがおよそ10年後というのもうなずける気がします。
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