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三浦哲郎⇒ほどの作家ともなれば、三浦哲郎論といえるような評論や論文の類いはたくさんあります。最近、それらを読んでいて⇒、僕がこのブログで書いてるようなことはもうすでにどこかで誰かが論じているのだと痛感しております。だからというわけではありませんが、そういった既存の三浦哲郎論があまり注目していないところに執着するのがそもそものこのブログの方向性です。
さておき。
三浦哲郎がインタビューのなかで話していることがずっと気になってました。以下は、三浦文学の原点としての母について尋ねられている場面で、1981年、『白夜を旅する人々』の連載が始まる直前に『すばる』に掲載されたものです⇒。
もう最近は書くようにしてますけど、つまり〈先天性色素欠乏症〉ということがあるわけです。それは病気でもなんでもない、遺伝すらしない、いわゆる〈白っ子〉というかなあ、そういう人が突然生まれる場合がある。(三浦・栗坪 1981: 195)
「遺伝すらしない」と言ってしまってるのはまぁ横に置いておくとして、何が気になってたかというと「もう最近は書くようにしてますけど」という前置きです。「最近は書くようにしてます」ということは、以前は書かないようにしていたのだろうか、と思ってしまいます。
また、書かないようにしていたことが何なのかというと、とりあえず上記のインタビューでは「先天性色素欠乏症」についてだと思われます。姉たちの自殺や兄たちの失踪については初期の頃からくり返し書いてきたのに対して、確かに「先天性色素欠乏症」のことは最初のうちは書いていません。
例えば、新潮文庫の『忍ぶ川』(1965)には、芥川賞受賞作である「忍ぶ川」をはじめ、自身の結婚や父の病死、妻の懐妊などにまつわる一連の初期短篇小説が収録されています。
そのうち最も初出が早い「忍ぶ川」は、1960年10月『新潮』です。結婚式をあげるために帰郷した場面で姉についての説明があり、「姉は病弱で、目がわるく、いつも青いガラスの眼鏡をかけて」いるとだけ書いてます(三浦 1965: 45)。
次が1961年3月『新潮』に掲載の「恥の譜」です。父危篤の電報を受け取ったとき、その電報を送った姉のことを思い浮かべ、「この姉は、人目をはばかる生まれつき」と述べています(三浦 1965: 187)。
さらに1961年6月『新潮』の「幻燈画集」は、結婚前後のことではなく幼少期のことがメインです。そこでは2人の姉について「そろって不幸な生まれつきであった。二人とも、生まれながらに目が悪かった。眼球全体に灰色の膜がかかっていた。それでも、色眼鏡をかけると、人の表情など、うすぼんやりと見えるらしかった」とあり、そのうえ「姉たちは、ものをよく見ようと努めるために、顔を横にこまかく振り動かす癖があった」と、おそらく水平方向の眼振の特徴までリアルに描いてます(三浦 1965: 220)。
それから1961年10月の『新潮』の「初夜」では、きょうだいのなかに自殺者、失踪者、「生まれつきの不具者」がいたとだけ書いてます(三浦 1965: 59)。その他の「帰郷」と「団欒」にはそれらしい記述は見当たりませんでした。
それほど大したことはわかりませんが、弱視や羞明、眼振といった眼症状は比較的詳しく描写している一方で、具体的な原因は伏せているというか、ぼかした表現にしているらしい気がします。
さて、その後もずっと書かなかったかというとそんなことはなく、手元で確認できるので一番早いのは、1966年に『文学界』に発表した「亀徳しづさん追悼」(『おふくろの妙薬』収録)です。この短文は、自分の出生の事情を、自分をとりあげた「産婆さん」から聞き取ったことを書いたものです。そこで「私の姉たちに、先天性色素欠乏症が二人いた」とわずかにふれています(三浦 1979: 95)。
以降、1970年代は、書いたり書かなかったりまちまちです。例えば、1972年4月から1年間『毎日新聞』に連載した『笹舟日記』にある「座敷わらしの話」では、同じく出生の事情について「おふくろは、ある深い事情から、断じて私を生むまいと思った」とだけあり、続けて刑法堕胎罪や優生保護法のことにも言及してます(三浦 1975: 330-2)。
また、1976年9月から1年間、雑誌『青い鳥』に連載した「白夜ノートから」(「わたしの白夜」に改題、『恩愛』収録)でも、「ある忌まわしい遺伝があって、ひとり生き残った姉がそれで苦しんでいる」とだけ書いています(三浦 2005: 15)。やっぱり、ぼかした表現になっているように思えます。
一方で、1975年12月に『群像』に発表した「水仙」(『母の肖像』収録)は姉のことを中心に描いていて、「白っ子で弱視の姉」とあります(三浦 1983: 88)。
また、翌1976年4月の『群像』の「化粧」(『母の肖像』収録)では姉の化粧や髪染めのことを書いていて、「姉は、生まれつきの白っ子だが」から始まってとてもリアルな描写が続きます(三浦 1983: 106-7)。
さらに、1979年6月の『新潮』に発表した「毟る」(『文集 母』収録)では、次兄が失踪した前後のことを説明するくだりで「生まれつきの色素欠乏症で弱視の姉」となってます(三浦 1994: 323)。
とまぁ、一応、『白夜』以前のものについてザックリと見てみました。言うまでもありませんが、それぞれの作品でそれぞれの必要に応じて記述されていて、姉の症状をただ単に書いてるだけではありません。化粧をするのか、琴を弾くのか、人の顔を確認するのかの文脈ごとにアルビノであることが意味をもって描かれてます。
ただ、「先天性色素欠乏症」あるいは「白っ子」については、少なくともデビューしたばかりの1960年代前半はなるべく書かないようにしていたみたいで、1970年代になってからポツポツ書き始めて、1981年からの『白夜』への助走をしていったのではないでしょうか。
参考文献
三浦哲郎, 1965,『忍ぶ川』新潮社.
三浦哲郎, 1975,『笹舟日記』新潮社.
三浦哲郎, 1979,『おふくろの妙薬』三月書房.
三浦哲郎, 1983,『母の肖像』構想社.
三浦哲郎, 1994,『文集 母』世界文化社.
三浦哲郎, 2005,『恩愛』世界文化社.
三浦哲郎・栗坪良樹, 1981,「三浦哲郎氏にきく」『すばる』3(3): 190-7.
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