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河竹黙阿弥が作した「網模様灯籠菊桐(あみもようとうろのきくきり)」と云う世話物の通称。巾着切り小猿七之助と、七之助に犯されて御殿女中より身を落とした御守殿お熊の情話と悪事を中心に描いた作品(出典=三省堂 大辞林) 元々は講釈根多で、それを黙阿弥が歌舞伎にして、さらにそれが落語になりました。ただし落語は一人語りですので内容は簡便になります。巾着切り(きんちゃっきり=泥棒、スリ)の七之助(通称=小猿)は、三年前無理に思いをとげた奥女中と吉原で再会し、店の主人を殺して共に逃げる。「今戸の狐」に登場する良助の師匠の乾坤坊良斎(けんこんぼうりょうさい)が作った講談「網打七五郎」をもとに河竹黙阿弥が歌舞伎に脚色し「網模様灯籠菊桐」としました。 七之助は船頭。お滝は浅草芸者。一人船頭一人芸者と云うのは船宿のご法度なのだが・・・お滝が浅草へ送ってくれと云うので仕方なしに深川から隅田川を遡る。途中の永代橋に差し掛かるとドカンボコンの身投げ。 昔はよく身投げがあったようで、「文七元結」と似たような展開なんですが・・・身投げした男を引き上げて事情を聞いてみると・・・私は新川新堀の酒問屋「鹿島屋」の幸吉と云いますが、集金した三十両をイカサマ博打で取られてしまったので、ご主人に申し訳ないので身を投げたのです。そうかい。じゃあ、俺がそいつに仕返しをして倍の六十両にして取り返してきてやるから、そのイカサマ師の名前は? 深川相川町の網打ちの「七蔵」です。 それで安心したのか、幸吉は舟から身を投げた。おや? 変だね。何だって身を投げるのさ? ・・・とお滝は思った。 こんな嫌な夜は早く帰りたいのだが・・・浅草へ行くのかと思ったら逆に永代橋の下流に舟が向いた。佃を回って汐入の中洲に舟を乗り上げて止めた。雨が降っているし回りは真っ暗で何も見えない。七之助は匕首を持ち出してお滝の口封じ・・・ そりゃ何やねん? とお思いでしょうが・・・実はイカサマ師の七蔵と云うのは七之助の実の親。そんな事を幸吉に喋られたら親父の身が危ない。実は幸吉は舟から身を投げたのではなくて、七之助に突かれて川へ落ちたのだった。お滝を殺すのは、お滝に喋られると七之助の身が危ないから・・・ http://ycfb.up.seesaa.net/l/E7AB8BE5B79DE8AB87E5BF9720E5B08FE78CBFE4B883E4B98BE58AA9.wma 23:18 小猿七之助 / 立川談志 データ・・・五代目 立川談志 昭和11(1936)年1月2日〜平成23(2011)年11月21日 享年75 前名=柳家小ゑん 出囃子=木賊刈(とくさがり) 本名=松岡克由 本来は七代目 まあ私はこう云う演目はあまり好きじゃない(^ω^) 私は甘いと云われちゃうかも知れないが、談志のようには落語は人間の業の肯定だなどと哲学的な事は云いたくない。落語ってのは勧善懲悪を語るべきだと思うんです。つまり、善を勧めて悪を懲らしめるって事ですね。落語とは月光仮面であり少年ジェットであり鞍馬天狗であるべきだと思ってるんです(^∇^) この演目は、「お初徳兵衛浮き名の桟橋」の作者の初代 古今亭志ん生が得意にしていた演目だったようです。 現代は飽食の時代ですが、ホンの20年前は食い物の無い時代だったと談志が語っているので、これは昭和40年代の紀伊国屋ホールの「ひとり会」の音源で、昭和11年生まれの談志は30歳そこそこの頃でしょう。談志の「ひとり会」の音源なんか、70枚以上のCDを持ってるんだから調べりゃいいんだけども・・・どうも最近は腰が痛くてなかなか動けない。私はもう20年以上前から時々腰痛になります。その原因は、過度の飲酒によって肝臓が弱っているからです。肝臓が弱ると腰が痛くなりますので、思い当る方は素人療法で腰の運動なんか絶対にしてはいけません。安静にしているのが一番です(^∇^) お知らせ
腰痛がかなり厳しく動きが取れません。ブログ更新やリコメがかなりゆっくりになるかも知れません。
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このころの談志はよかったですねぇ。「鳴り物」も入れて面白い。
音源の再生はXXで。
2012/6/6(水) 午前 9:09
講談では伯龍先生、落語では談志で聞きました。伯龍先生が存命中に、二回ライブで聞けたのが財産です。
現役では、立川談春がこの演目を談志から受け継いでやっています。
冬の寒い川面とひとり船頭ひとり芸者は、御法度だけどと織り成す人情がたまらない。
一旦は、川から引き上げて助けた相手を沈めて殺す七之助が迫力満点に演じられます。
[ Mars_jj_boy ]
2012/6/6(水) 午前 9:44
小猿七之助ですか…河竹黙阿弥の世界を楽しみにしています。
いつ頃の談志なんでしょうか?
2012/6/6(水) 午後 0:07
談志家元が、晩年まくらで一部だけ演じてましたね。
2012/6/6(水) 午後 1:29
この噺は談志師でしか聴いた事はありません。それもCDで・・・
続きがあれば聞きたくなりますが、昔は講談でも切れ場で続きを聞きたがったお客が押しかけたのでしょうね。
そんな時代を思わせる談志師の熱演でした(^^)
2012/6/6(水) 午後 2:21
*けんちゃん。。
昭和44(1969)年9月に談志の弟弟子のさん治が真打ち昇進して十代目 小三治を襲名しました。その時談志は33歳。
談志が昭和38(1963)年4月に27歳で真打ちになった時、何故か師匠の小さんは、小三治名跡を渡してくれなかった。でも十代目 小三治が出来るまでの6年半は、まだ談志にも小さん襲名のステップ名跡である小三治が、小さんの心変わりで回ってこないとも限らないので、談志はグレたりしなかった(^ω^)
2012/6/6(水) 午後 10:44
*Mars_jj_boyさん。。
この記事は、一つ前の「宇治の柴舟」と対比させてみたのですが・・・両方とも船頭であり匕首を持って女に迫るって所は同じですね。でも材木商の若旦那は、懐に匕首なんか絶対に持っていないはずです(^ω^)
実は・・・夏場の舟特集を東西交互でやってみようと思っていたのですが・・・大阪には結構いろんな演目があるんですが、それに比べると東京は少ないですね。この演目の季節は冬でしたっけ? 特に冬とは語られてなかったように思います。完全に冬なのは「夢金」ですね。
2012/6/6(水) 午後 11:18
*しゅうちゃん。。
すいません。今ちょっと腰が痛くて、椅子から立ち上がる事さえ難儀しております。調べれば判るとは思いますが、現在はそれが容易には出来ないので私の推測で申し上げますが・・・談志は30〜33歳の間ではないかと思います。弟弟子のさん冶が小三治を襲名してからは、談志が小さん襲名のステップ名跡の小三治を襲名する芽は完全に閉ざされてしまったので、その時から談志の芸風は次第に変わって来たと思ってます。
もし五代目 小さんが87歳まで生きると云う長命でなかったら、弟弟子の小三治が六代目 小さんを襲名して・・・って事になったら、兄弟子の談志としては、柳家には居られませんよね。若い頃から順風満帆だった談志の挫折は、落語界入りが五年遅い志ん朝に半年先に真打ちになられてしまった事と、自分が真打ちになった時に、小さんが小三治名跡を渡してくれなかった事です。
談志が後に国会議員に立候補したり柳家を飛び出したりしたのは、他の理由も若干はありますが、30歳前に経験したそれら二つの壁が、談志の終世にトラウマとして付きまとったと思います。
2012/6/7(木) 午前 5:29
*キャバンさん。。
談志は、自分は女を演じるのが上手いと云ってましたが、そもそもそれは柳家の芸風じゃない訳で、そう云う事も師匠の小さんから生意気だと思われてしまって、当然真打ちになった時には小三治名跡を渡してもらえるものだと思っていた小ゑんは、冷や水を浴びせられたんだと思います。立川談志と云う名跡は、おそらく談志自身が選択したはずです。何故その名跡にしたのかと云えば・・・小さん名跡より東京落語では由緒ある名跡だからです。
談志としては師匠に対してざまあ見ろと云う思いがあったかも知れませんが、師匠の小さんとしたら、いい気持ちはしませんね。やがてそれが小さんと談志の断絶へ繋がって行ったんだと思います。
2012/6/7(木) 午前 5:32
*菖蒲園さん。。
まあ、芝居のストーリーを全部落語で語るとなると、圓生さんの髪結新三じゃありませんが、一時間以上になっちゃいますよね。それでも全部は語れない訳で、結局は抜き読みと云う形でご機嫌を伺うしかないんでしょうね。
2012/6/7(木) 午前 5:37
おはようございます
お腰のお加減はいかがではょうか?
ご無理なさらないでくださいね。
わざわざお調べいただくまでもありません…ごくお若い頃の談志ですね。
すっきりと良い語りで粋な噺に合っていると思います。
鳴り物も入り、騒ぎ・新内流しも聞こえて…面白いと思います。
この噺を掛けるなら、しっかりと「網模様灯籠菊桐」を通しで何度も見て、有名な台詞
「いくら泣いても喚いても、町を離れた洲崎の土手。昼でもあるか更ける夜に、往来希な雨上がり。湿りがちなる汐風に、途切れた雲の星明かり、微かに聞こえる弁天の、茶屋の端歌や中木場の、木遣りの声を寝耳に聞き、いなごやばったと割り床に、露の情けの草枕。お主としっぽり濡れる気だ。どうで汚れた上からは、ここで器用に抱かれて寝やれ」
を七之助になりきって言えないといけません。
やるのと出来るのは違います。
2012/6/7(木) 午前 6:21
*しゅうちゃん。。
ありがとうございます。体調はボチボチです。いい方にかい? 悪い方に・・・(^ω^)
酒飲むから肝臓が弱って腰が痛くなるんだけども、その痛みを堪える為に酒を飲んじゃう。バカを承知で人間やってます(^ω^)
談志は小さんに入門したので、滑稽噺を目指したのかと思いきや、弟子入りしてから志ん生や圓生と云う凄い師匠の語りを楽屋で聴くに付け、大師匠たちよりも年齢がはるかに下だった自分の師匠の小さんの落語界に於ける力の無さを実感しちゃったんだと思います。
だから談志は、小さんに心酔しつつもやがて、志ん生と云うピカソに憧れ、圓生と云うロートレックのスタイルを踏襲しようとしたんだと思います。だからこそ、圓生がやってこそピタリと決まるこう云う演目に挑戦したんでしょうね。
出来はいいのかと云えば・・・お話にならないレベルだと思います(^ω^)
2012/6/7(木) 午前 7:13
季節は、語られていませんね。雨が降りそうな天気を漕ぎ出しますが、冬じゃなかったようです。
七之助が助けた、幸吉が寒そうな素振りを見せるけど、それも土左衛門になり掛かっていますから当然です。
[ Mars_jj_boy ]
2012/6/7(木) 午後 0:32
↑ Mars_jj_boyさん…横レス御免なさい。
この芝居が舞踊になったのが「小猿七之助 御守殿お滝 夕立」と言う清元です。
夏の夕方ににわか雨と雷がやんだ直後の場面。
遠くに聞こえる深川八幡前の茶屋町の場末の三味線や草むらの虫の音の中で、夢みたいな出来事。
小猿七之助を演じる役者が誰かで面白みが変わります(笑)
2012/6/7(木) 午後 10:29
*Mars_jj_boyさん。。
雨模様ってのは、そもそも冬じゃありませんね。冬の場合は雪にしちゃいますからね。
落語の雨に関しての私の考察を申し上げると・・・春の暖かい日の雨や夏場の土砂降り以外の雨の場合は、傘はささずに、濡れたまんまです。秋口の冷たい雨の場合は、寒いと云う表現は必須です。冬場の雨はもちろん雪にして、簡素化を図るのが落語だと思います。
この演目での主役は船上の二人なので、その二人が雨を気にしていない以上、これは夏場の演目と考えるべきですね(^∇^)
2012/6/8(金) 午前 5:53
*しゅうちゃん。。
清元の解説、ありがとう(^∇^)
伝統芸能ってのは、すべてを語ると時間が掛かるので、一定のパターン化ってのがあると思います。
「雨」と云ったら、それは既に「冬」ではないんですよね(^∇^)
しゅうちゃんの解説によって、この演目がますます、前の「宇治の柴舟」と云う演目に似ていると云う事を実感しました(^∇^)
2012/6/8(金) 午前 6:00
聴かせて戴きましたが談志師匠の声が相当若いですね。談志師匠は講談ネタを何個か落語に直して演じているようですがお弟子の談春さんが受け継いでいらっしゃるようですね。
所で身投げと云えば落語では永代橋か吾妻橋ですね。
それほど当時そこで身投げや心中が多かったというのが想像できます。
[ えび助 ]
2012/6/23(土) 午後 5:14
*えび助君。。
今でこそ隅田川には十個以上の橋が掛かってますが、江戸城は平地にあるので防衛上の理由で江戸中期になって幕藩体制が安定するまで橋はわざと掛けなかったんです。だから多くの場所に渡し舟があったんですね。
明治の初めの頃には20ヶ所以上の渡し舟があったようですが、佃島の渡しも佃大橋が出来ると廃止になりました。佃島に橋が掛かっていると「佃祭り」と云う落語は存在しませんね(^ω^)
身投げの名所ってのは変ですが、落語では吾妻橋か永代橋ですね。隅田川の一番有名な橋なのに両国橋から身を投げるってのはありませんね。「佃祭り」も基本的には吾妻橋から身を投げるでやります。
2012/6/24(日) 午前 5:51