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昭和36(1961)年12月15日。志ん生は71歳の時に巨人軍の優勝パーティの高座で脳出血で倒れちゃいました。ほとんど助からないと云う事で、小さんや朝太(後の志ん朝)を始め、ほとんどの落語協会の関係者が高輪プリンスホテルに集結し、落語協会会長だった志ん生の最後を見取りに来ました。
しかし志ん生は、伊達や酔狂でドブを這ってきたんじゃありません。落語をやりたいと云う一心だけでどん底の貧乏生活から抜け出して落語協会の会長にまで登り詰めて東京落語の第一人者になったんです。落語をやりたいと云う強い思いは脳出血さえ克服してしまいました。
三ヶ月入院した後に退院して日暮里の自宅へ帰ってきましたが、寝たきりになって楽なんかしていません。右半身に軽い麻痺が残ったのでゆっくりとしか語れませんが毎日落語の稽古です。そしてついに11ヵ月後の昭和37(1962)年11月に新宿末広亭の高座に復帰しました。一人では歩けないので弟子の圓菊と長女の美津子さんに支えられながら自宅を出ました。もちろん女房のおりんさんの切り火に送られて・・・https://blogs.yahoo.co.jp/yacup/65584028.html
その日の新宿末広亭は志ん生が復帰すると云うので超満員。まだ幕は閉まっていますが一丁入りの出囃子が流れると久しぶりに志ん生の出囃子を聴いた観客は狂喜しました。幕が開くと講談の釈台につかまった生きている志ん生を見て観客はどよめきました。
志ん生はゆっくりとした語りながら・・・ちょっと酒に酔った感じであっちの方へ行ってたんですが、おめェもうちょっと喋って来いと追い返されてきました・・・ってな事をのらりくらりと喋り始めた志ん生を聴いて観客は安心しました・・・藪さん。その場にいたよな事を書き・・・だってその時の藪さんは中学一年生でプレスリーに夢中になってました(^ω^)
その後徐々に体調も戻り、東宝名人会などで観客を沸かせました。しかし、右半身に軽い麻痺が残ったりして70歳を越えた高齢の身体には脳出血で倒れた事が大変な負担になりました。体調のいい時と悪い時によって高座の出来に差がありました。弟子に負ぶさって通う高座は大きな負担になりました。十日間通しの定席の寄席興行は負担になるので次第に一日のみのホール落語にシフトしました。
そして77歳の時の上野鈴本への出演を最後に寄席の高座は引退し、翌年78歳の時の精選落語会のホール落語の高座を最後にすべての高座から引退しました。
昭和39(1964)年。志ん生が74歳の時に紫綬褒章を受章した後、NHKのスタジオで「鰍沢」を演じた後のインタビューです。この頃はまだ体調も良く志ん生流の落語論を展開しておりましたが、昭和42(1967)年に勲四等瑞宝章を受章し、その翌年の昭和43(1968)年に東京12チャンネル(現テレ東)で放送された「人に歴史あり」と云う番組では、志ん生は椅子に座ったまま番組の最後までついに一言も喋りませんでした。
当時30歳の志ん朝が番組を進行し弟子たちが志ん生の歴史を語る番組でしたが、志ん生は終始不機嫌な顔。番組の最後に柳家金語楼と桂文楽が登場した時だけやっと笑顔を見せました。http://blogs.yahoo.co.jp/yacup/63145370.html
データ・・・五代目 古今亭志ん生(1939年襲名) 明治23(1890)年6月28日〜昭和48(1973)年9月21日 享年83 前名=七代目 金原亭馬生(1934年襲名) 本名=美濃部孝蔵 出囃子=一丁入り 落語協会第四代会長(1957〜1963) 紫綬褒章(1964) 勳四等瑞宝章(1967)
データ・・・鴨下晁湖(かもしたちょうこ) 明治23(1890)年2月25日〜昭和42(1967)年10月20日 享年77 日本画家 新聞雑誌の挿絵画家としても活躍 岡本綺堂の「半七捕物帳」や柴田錬三郎の「眠狂四郎無頼控」や吉川英治の「続鳴門秘帖」の挿絵を描く 本名=鴨下中雄 志ん生と同い年
映像に残された志ん生の最後の一席 http://blogs.yahoo.co.jp/yacup/60737062.html
近年では著作権法ってのがうるさくなっちゃって、こう云う動画をチューブに上げたりすると、警告無しに速攻でIDが削除されたりしちゃうので、藪さんは法律違反をしたくないから落語記事を書くのをやめたんです。
でもこう云うのって日本の文化ですよね。その文化をブログと云う狭い範囲で紹介するのが何で著作権法に違反するの? もちろん権利者の金銭的利益は法律によって守るべきです。
同時に文化と云うのは継承して行かないと廃れてしまいます。こう云う事は本来は文化庁や国会図書館がやるべきなのですが、税金泥棒の公務員どもが何もしないので、かつては藪さんが悪者になって文化を継承するために多少の法律違反をしました(^ω^) これだけの記事を書いた藪さんは文化功労者に違いないんだが、志ん生と同じで勲章なんかいらねぇよ。志ん生と云う凄い噺家に出会えただけで藪さんの人生は無駄ではなかった(^∇^)
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コメント(18)
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残念ながら近年では本物の噺家がいなくなっちゃったので、落語ではないものを落語と云っているようです。
藪さんをはじめとしてご通家がそれに対して冗談じゃねぇやって云わなかったら、今の若い人に本物の落語が理解されずに、笑点の大喜利と云う余興が落語だと思ってしまってます。
しかし本物の落語がどう云うものなのかを理解してもらうためにはその音源を聞かせたり、動画を見せなくてはなりません。しかし残念ながらそれをやろうとすると、著作隣接権を持っていると称するインチキな業者から、著作権法違反だとしてクレームが入ってしまう。隣接権だなんてインチキな権利を主張しているテメェらの方が、本当の著作者の権利を侵害していると思うのだが。
まあそれはさて置き、文楽を出したら志ん生を出さないとバランスが取れません。しかし志ん生にこんな落語をやられたら、弟子はみんな萎縮しちゃうよなぁ。志ん生を超えるなんて無理です(^ω^)
【風呂敷】(ふるしき)
【登場人物】
女房
新吉(しんきち=町内の若い衆)
女房の酒飲みの亭主
兄さん(あにさん=女房の兄?)
【概要】
亭主の留守に上がり込んだ新吉。女房が新吉と話をしていると、今夜は帰らないと云っていた亭主が泥酔して帰宅する。女房は咄嗟に新吉を押入れに隠す。亭主は、押入れの前にドッカと座り、寝ろと云っても寝ないでクダを巻き続ける。困った女房は、兄さんのところへ相談に行く。
兄さんは、どう云う訳か風呂敷を持って困っている女房の家へ。兄さんは、亭主といろいろ話すうち、自分が、どうして出かけていたのかの話をする。
知り合いの女房が若い男を家に上げている時に亭主が帰って来た。女房は若い男を押入れに隠したが、亭主は押入れの前に座って動かない。何とかしてくれと頼まれたので、俺は、こう云う風にして・・・と、持って来た風呂敷を亭主に被せて、押入れに隠れている男を逃がした。その帰りにおまえのところに寄ったんだよ。と云って、新吉を逃がしてしまう。
女房の亭主は、『そうか、うまく逃がしやがったなぁ・・・』
【雑感】
昔は、『風呂敷の間男』と云う演題の艶笑噺。志ん生は、艶笑噺をそのままやるのを好まないので、滑稽噺にしています。志ん生は、『こんな難しい噺はない』と云っていたそうです。『うまく逃がしやがったなぁ』の後に、『その野郎の面が見てえや』と、もう一押しするサゲもあったそうです。
若い頃は、名人と云われた四代目 橘家圓喬に心酔し、本格落語を目指した志ん生でしたが・・・受けない。昔は、今とは違って下手な噺家は寄席に出してもらえなかったので、赤貧洗うが如くの生活を余儀なくされました。大正末から昭和初期に掛けての不況の時代には多くの噺家が廃業したり転業したりしましたが、志ん生も噺家じゃ食えないので、34歳の時に一年間、講談に転向したりもしました。
志ん生に転機が訪れるのは、36歳の時です。三代目 柳家小さん一門から飛び出して三語楼協会を旗揚げした、初代 柳家三語楼一門に加わって、柳家東三楼・ぎん馬、更には、甚語楼と改名するうちに、三語楼一門の爆笑スタイルを身に付け、本格落語の中にクスグリをふんだんに散りばめると云う、誰にも追随を許さない志ん生スタイルを作り上げて行く訳です。
「直に冠を被らず」や「おでんに靴を履かず」なんて云うクスグリは、死に物狂いで考えなければ出て来ませんよ。ちなみにコレの出典は・・・「瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず、李下に冠を正さず」で、「文選・古楽府・君子行」にあります。「お願いも手水鉢も・・・」ってのは、メロディが「かんかんのう」にも転用された「梅が枝の手水鉢」と云う俗曲の洒落ですね。
映像データ・・・昭和30(1955)年5月4日 NHKテレビ放送演芸会生放送 志ん生65歳時の絶頂期の高座
データ・・・五代目 古今亭志ん生 明治23(1890)年6月28日〜昭和48(1973)年9月21日 享年83 前名=七代目 金原亭馬生 出囃子=一丁入り 本名=美濃部孝蔵 紫綬褒章 勳四等瑞宝章
例によってNHKと云う民間放送局は、放送文化に貢献する目的で国民の血税から毎年NHK予算を貰っておきながら、落語文化に関しては予算を貰っていないTBSよりも貢献していません。と云うか、落語とは何かを理解していません。NHK音源のほとんどは、出囃子がまったく入っていないか、ほんの付け足し程度しか付いていません。遠足は家に帰るまでが遠足のように、落語と云うものは、出囃子が鳴り出す前のざわめきから既に始まっているんですよ。と云う事で、出囃子を藪が追加しておきました(^ω^)
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「目に青葉 山ほととぎす 初鰹」とかと申しまして、新緑のシーズンになりますとあちらこちらに旅に出掛けると云う季節になってまいります。東京の「愛宕山」と云う落語演目は、東海道線が全線開通した明治中頃以降に東京から幇間を連れて京都の愛宕山へ登った演目であると時代考証出来ます。小判が通用した江戸時代の時代設定では、そんな長旅を幇間を連れて悠長には出来ないと思われます。
【愛宕山】(あたごさん)
【登場人物】
一八(いっぱち=幇間)
旦那
繁造(旦那のお供)
【概要】
早蕨(さわらび)の 握りこぶしを 振り上げて 山のほおづら 春風ぞ吹く(蜀山人)
幇間の一八(いっぱち)を供に連れて東京から上方へ来た旦那。京都で遊んでいるうちに思い立ち、愛宕山へ登る事になる。山登りなんて朝飯前ってんでねっ、登り始めるが、普段運動などとは無縁の幇間(たいこもち)には、登れる訳が無い。供の繁造(しげぞう)に助けてもらい何とか、先に登った旦那が待つ茶店まで辿り着いた。
茶店で一休みすると、旦那は愛宕山名物の土器(かわらけ)投げを始めます。 旦那の腕はなかなかのもので、次々と的の輪を通過しますが、やがて旦那は土器の代わりに小判を投げ始めます。一八は気が気じゃない。「洒落になりませんよ旦那。投げるんなら、私を的にして下さい」
三十両の小判は、一枚も的の輪をくぐらず旦那はくやしがりますが、一八はそんな事より小判はどうなるのか聞くと、拾った人のものだと云われ、茶店から傘を借り谷底へ飛び降ります。小判は回収したが、「どうして登る〜。欲張り〜。狼に食われて死んでしまえ〜。先に帰るぞ〜」。「待って下さいよ〜」
さあどうする一八! 着物を引き裂いて縄を作り、嵯峨竹に絡めて、竹の弾力を利用して、ヒラリと旦那のところまで駆け上がった。
「ただいま帰りました!」
「えらいやつだな! 貴様、生涯贔屓(ひいき)にするぞ!」
「ありがとう存じます」
「金はどうした!」
「あっ、忘れてきた」
映像データ・・・昭和41(1966)年5月 上野鈴本演芸場 文楽73歳時
データ・・・八代目 桂文楽 明治25(1892)年11月3日〜昭和46(1971)年12月12日 享年79 前名=翁家馬之助 出囃子=野崎 紫綬褒章 勳四等瑞宝章 本名=並河益義 通称=黒門町
【雑感】
愛宕山(あたごやま、あたごさん)と云うのは、ざっと数えただけでも日本全国に120以上あり、約900の愛宕神社があって、その総本山が京都にある愛宕神社です。「あたごやま」と呼ぶか「あたごさん」と呼ぶかは、各地で様々ですが、「あたごやま」と呼ぶ地方の方が多いようです。成田山(成田不動尊)の事を「成田さん」と呼ぶように、山と云うよりも、寺や神社に対する親しみを込めて、「愛宕さん」と云う呼び方があると云う感じでしょうか・・・
愛宕山は現京都市左京区上嵯峨北部にある標高924メートルの山。東京の港区芝にある愛宕山は、標高26メートルの丘ですが、京都の愛宕大権現を祀っています。だから本来は「愛宕さん」と云うべきなのでしょうが、「あたごやま」と呼び習わしています。NHK発祥(1925年)の地として、「あたごやま」で通っています。
京都の山の噺ですから、本来は上方落語です。三代目 三遊亭圓馬(昭和20年没)が、東京に持って来たものを、圓馬に師事した八代目 文楽が受け継ぎました。上方落語では、繁造は繁八(しげはち=幇間名は東京は一八、上方は繁八が普通)となります。また、志ん朝さんの土器(かわらけ)投げは、輪をくぐらせますが、黒門町のは的に当てます。亡くなられた文枝さんや文珍さんなどの口演では、旦那が投げて的に当った時に、お囃子か前座が鉦を鳴らします。この方が、クレー射撃のようで面白いと思うのですが、実際の愛宕山ではどのようなスタイルなのか・・・私も一八同様、登るのがしんどいので調査はしていません(^ω^)
この演目は、力む演技が多いので、晩年狭心症の発作があった黒門町に、この演目のドクター・ストップが掛かりましたが、黒門町はそれを聞き入れず、最後の年まで上演しました。
落語はろーさんのデータ http://www.asahi-net.or.jp/~ee4y-nsn/rakugodata/b002_01_bunraku.htm によりますと、文楽はこの「愛宕山」の音源を11バージョン残しているようです。一番多いのが「船徳」の17バージョン。その次が「富久」の13。「明烏」の12バージョンと続くようです。文楽と云う噺家は大師匠の割には音源として残っている演目が30数演目と少ないのですが、それぞれが皆18番であり、個々の演目のバージョン数の多さでは群を抜いています。
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「後家はいいなぁ。後家はまた一段と上がるよ。俺の嬶ぁも早く後家にしてぇ」・・・って、志ん生の有名なくすぐりがありますが、後家さんと云う未亡人を表す言葉は、現代でも使われております。
「後家殺し」と云う言葉があります。これは、艶情家の名を馳せた初代 桂春團治(1878〜1934)の異名です。つまり、色事師と云う意味であり、学校で教えるような言葉ではなく、人を揶揄(やゆ=からかう)する言葉です。しかしながら男と云うものは、実に不思議な生き物で、「後家殺し!」と云われて怒る人はいません。逆に一杯おごってくれるかも知れません(^ω^)
つまり、虻(あぶ)みたいな顔をして、間夫(まぶ=情夫)だと思ってる・・・ってくすぐりがありますが、「女に持てる」と云われて怒る男なんかいないんです。実にどうも怪しからんもんで・・・(^ω^)
東京の義太夫では、「日本一!」とか「待ってました!」とか「たっぷり!」と云った、落語と同じような掛け声が掛かるかどうかは知りませんが、大阪の浄瑠璃に限っては太夫に対して、「後家殺し!」と云う掛け声が最上位の褒め言葉のようです。
データ・・・二代目 笑福亭松之助 大正14(1925)年8月6日〜平成31(2019)年2月22日 享年94 本名=明石徳三
この演目は、松之助さんも面白くない話と云ってるように、なんかごちゃごちゃしてて、良く判らない話です。それなのに何で落語になってるのかと云うと・・・サゲを云いたい一点だけなんでしょうね。東京では圓生さんがやってましたが、戦前に大阪で二代目 桂三木助から教わったようです。義太夫の口調で語る部分と普通に歌う部分。歌ってばかりでは良く判らないので、歌わずに歌詞を語る部分を使い分けるのが難しいそうです。
笑福亭松之助さんが昨日、実家のある神戸の病院で亡くなったようです。享年94歳でした。米朝さん、笑三さんに続き松之助さんまで亡くなってしまったので、三平さんと同じ1925年生まれの噺家さんは、米丸さんだけになりました。
大阪の落語家さんなので、東京の人にはあんまり馴染みがないのですが、テレビドラマや映画でいい演技を見せていました。明石家さんまが落語家として入門した師匠として有名です。
笑福亭の亭号なのになんで、さんまが明石家なのかと云うと、さんまは若い頃にはほとんど落語をやらずに、三枝や文珍なんかと、ヤング・オー・オーなどのバラエティ番組に出ていたので、由緒ある大阪の笑福亭ではなく、自分の本名の明石を使って、明石家さんまとしたんです。
松之助さんは上手い落語家ではなかったけれども、歳を取ってもチャーミングな落語家でした。ご冥福をお祈り申し上げます。
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考えてみたら藪さんは14年前の2005年2月22日にこのブログを立ち上げたんですね(^ω^)
当時のヤフーブログは大手のネット企業では最後発で、まったくひどいブログシステムでした。画面が白くなってパソコンがフリーズしちゃうのが当たり前の最低システムでした。
今はまあ何とか使えると云うレベルですが、トップのアメブロや二位のFC2ブログのシェアには圧倒的に劣る、5%以下のシェアしかない、一般的にはほとんど知られていないブログシステムです。
しかし藪さんは我慢強い。こんなひどいブログシステムの終焉を見ようと14年間も見てきたのだが、なんといまだにインチキな事をやりながら続いているのはネット界の七不思議です(^ω^)
14年間にはたくさんのお友達が、ヤフーブログに頭にきて去っていきました。残念です。藪さんはまだ何とか生きてます。楽々亭さんやきゃんのコメントが欲しいな(^∇^)
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