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約1ヶ月間寝込んでいた私でしたが、無駄に寝ていたわけではなかったようです。 その間に幼かったもう1人の私が成長していました。 徐々に親離れしていけたのです。それはごく自然なものでした。 もう、母の幻影を追うことはありません。1人の女性として母を見ることができました。 少しずつ体力も取り戻し、絵を描いては自己対話を続けました。 「軌道に乗りかけたな。。」と、思った時でした。 思いがけない話に不安を感じました。否、見ないようにしていただけかもしれません。 主治医の異動の話でした。個人病院ではないため、医師には異動があります。 約2年毎に担当医が交代になります。受診後初めての医師も半年後には異動されました。 しかし、今回の主治医には入院中もお世話になり、一番大変な時期をともに過ごしました。 動揺がないと言ったらウソになります。でも、こればかりはどうしようもありません。 主治医に付いて行くという方法もありますが、遠方なので諦めざるを得ませんでした。 その主治医による最終受診が近付いた頃、素晴らしい治療を受けました。
リラクゼーションとしてですが、自分が大地から芽を出し、葉や花をつけるという体験をしました。 そよ風に吹かれ、暖かい陽の光を浴び、甘酸っぱい香りのする花を、3つ咲かせることができました。 ただの自己催眠かもしれません。でも、それ以後は自分の小さな能力に、気付いていくことになるのです。 |
うつ病発症から入院まで
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詳細
うつ病について語っています。
発病から入院、回復の兆しが見えるまで。
発病から入院、回復の兆しが見えるまで。
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約1ヶ月間寝込んでいた私を起こしたのは、母が買ってきてくれた花でした。 「安いし、きれいだったから。。」と母は言っていましたが、本当は私を元気付けるためだったと思います。 でも、寝込んでいるうちに花はしおれていったのです。 地植えもできそうになく、力なくしおれている姿を見て、母は私に声をかけました。 「この花、しおれてきたから、次のゴミの日に捨てるよ(捨てても)いい?」 その言葉に驚いて、私は起き上がりました。 「捨てられる。。 この花が捨てられる。。」それは自分のことと重なりました。 ACの特徴のひとつである、「見捨てられ不安」が強い私にとって、自分が捨てられるも同然でした。 (ACはアダルトチルドレンの略です) せめて、この花の最後を描き残しておきたい。 その一心で、私はフラフラになりながらも、起き上がることができたのです。 (今はデジカメ写真で撮影したものを描いていますが、その頃は生のままの草花を描いていました) 寝込んでいたので、身体は衰弱していていました。 「きれいな姿を。。枯れないうちに。。」夢中になって、色鉛筆を握りました。 ずいぶん時間はかかりましたが、絵は完成しました。 しおれてしまって、決して美しいとは言えませんでした。 しかし、私はその花の姿を、絵と心にしっかりと残しました。 それは、見かけの美しさとは違った尊さを持っていました。 そのことがきっかけになって、私は再び起きられるようになりました。 夏に入院して、もうすぐ冬がやってくるという時期でした。
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理由がわかれば、何と言うことはない。 書くことによって心は整理され、私は私を認めてやれた。 幼かった私をハグした。実際に自分を抱き締めた。 (他人から見れば気持ち悪い行為だが。。^^;;) 何のこだわりも執着心もない。 「もういつ死んでもいい」という気持ちだ。 ただし、うつ病患者が言うとシャレにならないし、両親も健在だからモノには順番があるが。。^^;; 今日も些細なことで、ものすごく落ち込んだが、部屋を掃除して身体を動かすと、部屋も心もスッキリしていた。 「さっきまでダークな気分で、半泣きになってたのは誰!」とツッコミたくなる。 たった数日間で一段と気持ちが変わった。 入れ替わったと言ってもいいぐらいだ。 |
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退院して1週間ぐらいは、母を求めて子供がえりしていたでしょうか。 やがて思慕の気持ちも落ち着いて、もうひとりの私は成長を始めました。 苦しい中で、絵を描いて自分を見つめ自問します。 「なぜ? どうして?。。」、問いかけは続きます。 そんな中、絵に集中していくに従って、私は無になっていきます。 自他のない世界に、ゆっくりと身をゆだねました。 そうしたことを繰り返すうち、もうひとりの私は成長し、一度はすっかり快復したかに思えました。 しかし問題は、私の幼少時から言葉のDVを続けた、父だけではありませんでした。 「カミングアウト」に書いたように母からオトナになることを強制されたことで、私は隠れた憎しみの感情を抱いていたのです。そのことに気づいた時は、愕然としました。 あんなに必要として慕っていた母を、実はもっとも恨んでいたのかもしれないのです。 私は約1ヶ月間、起きることもできずに寝込んでしまいました。 その後の母との会話によると、母も「頼りない夫」に対して我慢の限界が来ていたようです。 誰にあたることもできずイライラを募らせ、ある時子供の私に不用意な言葉を投げつけてしまった。 しかし、それさえも母は気付くことはありませんでした。 母は小さい時に自分の母親を亡くし、歳の離れた妹を育て上げた人です。 戦前・戦中・戦後と我が家の家計を支えてきた人です。 父親(私の祖父)と組んで、戦後の動乱期に闇市などで商売をしてきた人です。 教科書に載っているような出来事を、実際に体験してきた人です。 そんな気性の強い母に、私の想いは届かないばかりか、憎しみの気持ちさえ育っていたのです。
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「告白」の記事にあるとおり、母に今までの想いをぶつけて、無事退院の運びとなりました。 しかし、本当の病気との闘いはそれからでした。 父への恐怖に脅えながら母への思慕を募らせるのですが、同じ屋根の下にいながら父の嫉妬から母とは短時間しか話すことができませんでした。 言葉にならず最初は泣いてばかりでした。まるで幼子のように母の服の裾をつかんで声を殺して泣くのです。 何が哀しいのか? どうして欲しいのか? 母に何を求めているのか? 子供がえりした私には、漠然としていて何もわかりませんでした。 ひとつだけはっきりしているのは、「徹底的に我が身を守ること」でした。 家に帰ることを前提に、入院期間中ずっと教え込まれたことです。 そのため、私は2階の2部屋を使用することになりました。 しかしながら、昔ながらの日本家屋です。部屋には鍵などありません。 また、鍵など取り付けようものなら、どんな暴言を吐かれるのか恐怖でした。 仕方無しにいつ父が部屋に入ってくるのか、ビクビクしながら暮らす日が続きました。 階下にはいつもうつ源の父がいます。
トイレやお風呂は父がいる部屋を通らないと行くことができません。 食事も一緒に食べます。母が気を使って父の顔を見ないようにと配慮した席も、私にとってはパーソナルスペースを侵すだけのものでした。 いくら病気の資料などを見せても、柔軟さを失った母の頭には理解できないようです。 ましてや、それらを父に求めることは私を非常な危険に追い込みます。 ひとり空回りするなかで、私は孤独感だけを募らせていきました。 |



