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書庫うつ病発症から入院まで

うつ病について語っています。
発病から入院、回復の兆しが見えるまで。
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隠れていた病

「アサーティブトレーニング」(自己主張訓練)とは、アメリカで始まった人権教育のひとつだそうです。
自己主張の強い国から日本に持ち込まれても、やはり違和感があるのは否めません。
そこで、権利や選択の自由を学びました。最終的には医師とのロールプレイングとなります。
自分で自己主張するべき状況から、その対処法まで考えるのです。

様々な状況を設定するうち、主治医が気付いたようでした。
「この患者は、実父から言葉のDV(ドメスティックバイオレンス)を受けている」
「おそらくは、AC(アダルトチルドレン)であろう」と。。
ある公共施設で相談してくるように、勧められたこともあります。
実際に行ってきましたが、「夫やパートナーからのDV」は多いが、「親からのDV」は少ないと言われました。
(後に「珍しいケース」ではないことが判明するのですが)

ロールプレイングがさらに進んで、「言葉とともに表情をつけてみましょう」という課題になりました。
愕然としました。その時の私には「表情」がなくなっていたのです。
次の診察日に「表情がつけられません」と、主治医に訴えました。
即座に「訓練」が打ち切られました。私の隠れた問題点が浮かび上がってきたのです。

その頃から、父から隔離するためのシェルター的入院を勧められました。
隠れたところで、病状は深刻化していたのです。

発病への道

当時の私は、仕事にかなりの支障をきたすようになっていました。
上司や同僚に迷惑がかかることは、充分承知していました。
しかしながら、母子家庭でわずかな収入源は私だけです。何としても休めません。
人より作業時間がかかってしまうので、サービス残業を続けました。
休日にも仕事を持って帰り、会社での負担を減らそうとしました。
その結果、毎日が仕事漬けになり、疲労が蓄積していきました。

不況による給与体系も変更になり、能力主義になりました。
その結果、私のようなアシスタントのミスは、上司の給与にはね返ります。
同時に、同僚にも迷惑をかけてしまいます。
特定の人から、少しずつシカトされ始め、イジメへと繋がっていきました。
上司のパワーハラスメントもありました。

主治医の提案と私の希望で、「アサーティブトレーニング」(自己主張訓練)が開始されました。

心療内科に通院を始めました。(2002年秋から)
土曜日も受診できる病院だったので、会社の休日を利用して通院しました。
「心療内科」・「精神科」。。 やはり、敷居が高かったのは否めません。
しかし、通院して初めて分かったことですが、いかに「心を病んだ人」や「疲れきってしまった人」の多さです。
年代・性別・環境(直感で感じるものですが)など、様々な方が来られていました。制服姿の女子生徒もいました。
自分が「精神疾患」、広く言えば「障害者」に対して、無意識に偏見を持っていたことを深く恥じました。

「仕事ができなくなってきた」=「うつ源(ウツの主原因となるもの)は職場」だと思っていました。
外傷があるわけではないので、診断は患者の報告が主となります。
(心理テストも何種類か受けますが、診断では補助的なものです)
当初、「仕事のストレスによる抑うつ症状」そのようにカルテには書かれていたと思います。
当時気付かなかった、対人恐怖症と男性恐怖症が邪魔をして、私の心を開くことができなかったからです。
(当時の主治医は男性医師でした)

そして、次に来られた女性医師によって、私のパンドラの箱は自ら開くことになります。

カミングアウト

私は機能不全の家庭に、仮死状態の未熟児として育ちました。
(今から思うと、両親も機能不全の家庭に生まれています)
父からは憎まれ、母は私が物心付いた頃には疲れていました。
幼心に「私が頑張らなければ。。」、そう思ったのだと思います。
私は「私」を演じました。本当の自分はカラッポなのに。。

10歳頃のことだったと思います。
突然、母から「あなたがオトナになりなさい」と言われました。
その言葉の裏には、「夫は頼りにならないから。。」という、隠された声がありました。
今度はカラッポの自分が、「オトナ」を演じることになりました。
そんなことを続けていては、まともな成長はできませんでした。

ずっと、訳の分からない生き辛さを抱えながら、試練は次々と襲ってきます。
身体的にも、20代で乳ガンを罹患し、30代後半からうつ症状が出始めました。
うつ症状からうつ病へと移行するのに、時間はかかりませんでした。
どんどんと能力が奪われていくことを、呆然と眺めていました。
「自分が壊れてしまう。。」、その危機感と恐怖に脅えました。
震えながら、病院に予約の電話を入れたことは忘れられません。

そして今、人生の半ばにして、もう一度生き直しをしています。自己の再構築です。
当初、医療関係者は私の家庭環境から、根本的な治療は諦めておられたのだと思います。
そのため、「現在の自分にとっての生き易さ」を目標にされていました。
しかし、私は無意識のうちに、自分に厳しい道を選んでいました。

今、私は様々なことを学んでいます。それは、自分の「気付き」によるものです。
医療関係者からは、ピンポイントでアドバイスがあるぐらいです。
自分の良いところは残しつつ、様々なことを吸収し、自分の理想へと近付けます。
まだまだ道のりは遠いことでしょう。でも諦めません。
パンドラの箱の最後には、「希望」が出てきたのですから。。

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