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書庫若年性乳がん〜1988

乳ガンについて語っています。
1988年、20代半ばの私でした。
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外来受診と定期検査

仲間を失いながらも月日は流れていきました。
その間に離婚しているので、働き手は私しかいません。
半年ほど家で養生して、新しい仕事を探し始めました。
いろいろ探してみましたが、私にとって出来そうな仕事がありません。
通院が必要なこと。子供が小さいこと。無理ができないから近所であること。。
それらが必須条件となったからです。長い間探し回って、やっと小さな会社に就職することができました。

その間にも外来受診と定期検査は、受けなくてはなりませんでした。
外来受診は問診と触診、血液検査などで腫瘍マーカーの値をみます。
時にX線撮影もあります。乳房・大胸筋・リンパ節を切除した無残な姿を、男性技師の前にさらすのです。
当時は患者への配慮など全くなく、屈辱的な思いをしました。恥ずかしいというよりみじめでした。

年に一度、骨シンチという検査もあります。骨に転移がないかを調べるのです。
放射線物質を静脈注射で体内に入れ、一定の時間が経つと放射線物質が骨に集まるのを利用した検査です。
それを大掛かりな装置で撮影します。要は全身のガイコツ写真が撮影されるのです。
説明では「X線撮影よりも被爆量は少ない」とされていましたが、直接体内に注入される怖さがありました。
主治医との信頼関係がなければ、早々に受診をやめていたことと思います。

心の穴がふさがりきらない頃、もうひとりの仲間の訃報が入ってきました。
その頃の仲間たちは、それぞれの生活に追われていました。
また彼女の婚家は、格式ある家柄のため、訪問することもためらわれました。
結局、仲間たちが誰ひとり訪ねることもなく、日々は過ぎていったのです。

生前の話です。
私より後からの入院のため退院も遅く、術後の経過も良くないと聞いていました。
記憶が曖昧ですが、再入院したのでしょうか。いろいろな噂が耳に入ってきました。
彼女は敬虔なクリスチャンでした。そのため神父さんらが度々病室に訪れるということでした。
ホスピスや個室ならともかく、大部屋だったので人目を引いたようです。
噂は誇張された内容が多かったのですが、宗教に頼れるならそれもいいと私は思っていました。

しかし彼女は退院後、全ての医療行為を拒否したと聞きました。
彼女の信じる宗教のみで、ガンを治そうとしたらしいのです。
彼女には幼稚園児の息子さんがひとりいました。彼女自身も30代半ばでした。
「このままでは寿命を縮めるばかりだ」 「息子さんのためにも医療行為を受けるべきだ」
仲間たちは、それぞれの思いを口にしましたが、それを彼女に伝えることは、はばかられました。

病状は一気に悪化しました。衰弱して二階の寝室へ行くのも苦しそうだったと、後になって聞きました。
そして届いた彼女の訃報。。 当時の私は複雑な思いでいっぱいでした。
「なぜ子供のために、自分の命を大切にしなかったのか。。」
子供の年齢が近かったため、余計にそう思われました。

しかし今、当時を振り返ってみると。。
彼女が、医療行為を全面拒否したことは、無謀だったとは思います。
(宗教のみで病気を快復させることは、皆無とは言えませんがごく稀なケースでしょうから。。)
しかし、いったん西洋医学の領域に入れば、一般病院での自由はありません。

もしも自分で死期を感じていたら。。
面会もままならない病室にひとりでいるよりも、愛する家族とともに残された日々を送りたいと思うでしょう。
今でこそ患者のQOLが大切にされ始めましたが、命の大切さは長さではないと思います。
最期の日までをどのようにコーディネイトするかは、自分で決めてもいいと思うのです。

彼女は家にいて、愛するご主人と息子さんとともに、同じ時間を過ごしたかったのだと思います。
そして、彼女は最期まで幸せだったと信じたいのです。。

哀しい知らせ

私が退院し、翌年の桜の花の便りが聞かれる頃、仲間のひとりが危険な状態だと連絡がありました。
私が知る頃には面会謝絶となり、ただただ祈る毎日でした。

そしてある日突然、訃報が来たのです。
その事実が信じられなくて、受入れられなくて。。
でも、仲間たちとお通夜に行く約束に引っ張られるように、仲間のご自宅へ行きました。
呆然とするばかりで、一滴の涙も出ませんでした。一番仲の良かった人でしたから。。

「皆さん、元気そうで良かったねぇ。。」
遺族の方が、私たちの姿を見て泣いて下さいました。
身内の方が亡くなったのに、私たちのことを笑顔で喜んで下さるなんて。。
こみ上げるものはありましたが、胸につかえて言葉になりませんでした。

「最期に食べたいと言っていたものが、少しだけ食べられたのよ」
その言葉で少し救われましたが、私はその場に居たたまれなくなりました。
「生きていて、ごめんなさい」、初めてそんな感情を持ちました。
生きていることが申し訳なくて、罪を犯しているような気がして。。

心の中にポッカリと穴が開きました。
桜の季節から初夏になるというのに、私の心には冷たい風が吹くばかりでした。

本当の闘病

仲間たちはそれぞれの入院期間を終えて、ひとりまたひとりと去っていかれました。
その後、すぐに新しいガン患者さんが入院してこられます。
何度もメンバー交代しながらも、仲間意識は引き継がれていきました。
退院されても「外来受診に来たから」と、お元気そうな顔で仲間たちの訪問がありました。

いろいろなことがありながらも、私にも退院の日がやってきました。
後養生のため、しばらく実家に戻る予定でした。
入院時に、既に子供を預かってくれていたので、久しぶりの親子対面です。
仲間と別れる寂しさと、長期の入院で病棟の医療関係者とも親しくなり、その別れも寂しさを増します。
一方で、二度とここに帰ってきてはいけないとの思いもあります。再発に伴う再入院です。
それぞれの思いを噛み締め、複雑な気持ちを抱いての退院となりました。

入院では、周りは全て似たような状況の患者さんであり、ケアも行き届いています。
病棟の施設もそれなりに配慮してあり、不自由は感じませんでした。特殊な空間だったのです。
しかし、家に帰ってみて一般社会に戻ってみて、本当の「闘病」はその時から始まったように思います。

まず、一般家庭では思わぬところに身体への負担がありました。
自分の身体の変化と、負担を感じる自分にショックを受けました。
そして、一般社会ではほとんどの方が健常者です。
病気や怪我をした方もおられるでしょうが、外見から判断できる方は少ないです。
「自分だけ。。」という孤独と闘うことになりました。

身体的にはしんどいけれども、受診時だけが同じ病気の方がいることで、癒されました。
元居た病室を訪問することも、楽しみのひとつでした。
何度目かの病室訪問をして、ナースステーションの前で、親しい看護婦さんから声をかけられました。
「もうここには、あまり来ない方がいいよ。。」、その言葉を実感するのはもう少し先のことでした。

不協和音

同室の仲間と得難い体験をし、リハビリにも励み、ガン病棟での思わぬ闘病生活を楽しんでいました。
しかし、目に見えないところで、不協和音が生じ始めました。
入院中の私や実家の母に対し、婚家や婚家関係の見舞客との間で、それは起こりました。
地域性や個人での、「結婚」や「嫁」の認識の差が、次第に大きくなってきました。
大きなトラブルや大病など、マイナス要因が起こった時に、本当の夫婦の絆が試されます。
私たち夫婦も同様でした。

元夫の職種は出張が多く、コミュニケーションが不足していました。
そして今回、お互いの遠慮や甘えが、裏目に出てしまいました。
最初は私たちの周辺から不協和音は起こり、やがて私たち夫婦も巻き込まれました。
頑なに自分の家族や地域にこだわる元夫に、私は付いていけなくなりました。

結婚当初からの三世帯同居は、病後の私には負担に思えました。
もしかしたら、そう遠くない将来、私の命が燃え尽きるかもしれない。。
私は、元夫と子供との三人で慎ましやかに、生活したかっただけなのです。
それは、何度話し合いを重ねても、元夫には通じませんでした。

私は、子供とともに一日でも長く生きることを希望しました。
子供にとって父親を奪ってしまう、「離婚」という過酷な選択をしたのです。

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