ここから本文です

書庫若年性乳がん〜1988

乳ガンについて語っています。
1988年、20代半ばの私でした。
記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

リハビリ

そしてリハビリが始まりました。「テキスト」を渡され、それに従って運動します。
「乳ガンでリハビリって?」と、不思議がられるかもしれませんね。
切除した部位や範囲などの違いで、程度の差はあることと思いますが、術後は腕が動かないのです。
また、リンパ節を切除している場合、リンパ液の循環が悪くなるため、その防止の意味もあります。
(リハビリを充分していても、リンパ液が溜まりやすく「むくみ」などの症状が出ます)
手を骨折して、三角巾で首から吊ったような形にさえも、痛みで腕が上がりません。

少しずつ腕を上げることから、歯磨き・洗面や髪の毛をとくこともリハビリです。
腕が上がるようになってくるのと同時に、筋肉も衰えているため弱いエキスパンダーで鍛えます。
ボールを使った練習もしました。当時はリハビリルームなどありませんでしたから、
病室の廊下の片隅で、他の患者さんに迷惑が掛からないようにこっそりと練習しました。
最終的には、壁に沿わして真っ直ぐ180度、腕が上がれば合格です。
一生懸命やりました。実家に預けた幼子を、自分の腕で抱き締めたいために。。

ガン病棟

「ガン病棟」。。皆さんはどのようなイメージをもたれるでしょうか?
暗い・重い・絶望。。etc そんなマイナスイメージしかないのではないでしょうか?
病室は人が集まるところですから、ひとりの人間によっても病室全体の雰囲気が変わることがあります。

幸い私が入院した病室は、ガン患者の中でも比較的元気な者が集まっていました。
つまり、ナースステーションから一番遠い場所にありました。
そこからは、いつも明るい笑い声が遠くまで聞こえていたと聞きます。
例えて言うなら、学生の合宿所のような病室でした。

中には胆石などの患者さんもおられましたが、ほとんどがガン患者です。
病室に来られるまで、各患者さんにどんなドラマがあったのか。。
はかり知れない葛藤があったことと思います。
しかし外来でガンを告知された時、主治医は仰いました。
「早く病室へいらっしゃい。不安などなくなるから。。」
実際その通りでした。不安や絶望感など、すぐに吹き飛んでしまいました。

明日をも知れないから明るいのか。明るいから生きていられるのか。。
年代も経歴もバラバラなのに、寝食をともにするうちに家族よりも親しくなれました。
夏だったせいもありますが、ベッド周りを囲うカーテンは全て開け放たれていました。
全てがオープンで開放的でした。悩みも共有しました。
カウンセリングという言葉の知られていなかった頃、それぞれがカウンセラーでした。

全員既婚者だったせいもあり、時には年長の方が下ネタで笑わせてくれます。
私の術後もそうでした。痛みと吐き気で苦しみながらも、笑いで癒されていました。
今から思えば、最適な治療を受けたことになります。笑いで細胞が活性化されたのですから。。

手術後

手術を受けた翌日の朝、私のベッドサイドに主治医が来られました。
「お早う。気分はどう?」と気遣ってもらい、食道の奥深くまで差し込まれた管が抜かれました。
「さぁ、みんなの待つ部屋へ帰ろうか」と、声をかけてもらいました。
再びストレッチャーに乗せられて、ICUから大部屋へと向かいました。
約束通り「仲間」の待つ部屋へ到着し、「お帰りなさい!」の祝福を受ました。まさに「生還」でした。

もうひとつの苦しみが待っていました。「マニュアル」では、術後翌日には起き上がることになっていました。
看護婦さんに促されベッドから身を起こしたのですが、目まいと吐き気に襲われ冷や汗が出てグッタリしました。
「起きられません」、何とかそれだけ言ってもう一度寝かしてもらいました。ショック症状に陥ったのです。
寒気がして震えがきました。真夏なのに電気毛布で温めてもらいました。
感染症を警戒して輸血されなかったので、極度の貧血状態だったのです。

そんなこんなでバタバタしていた時、ひとりのご婦人が来られました。
「お見舞い」でした。ひと通りの挨拶をして帰られましたが、心がこもっていないのは一目瞭然でした。
彼女にとっては、「お見舞い」に行ったという「社交辞令」が大切なのでしょう。
その後、いろいろな方の「お見舞い」を受けました。
我がことのように涙を浮かべられる方。前述のご婦人のように「社交辞令」の方。
相手のことも考えず、自分の意見を押しつける方。「お見舞い」の言葉の裏に、優越感が垣間見える方。
悔しい思いをしたこともありますが、その時に人を見る目が養われたように思います。

仲間

片方の乳房全摘出と大胸筋切除、脇の下のリンパ節切除の手術を終え、私はICU(集中治療室)にいました。
全身麻酔から醒め、時計もなく締め切られたカーテンの中で、痛みをこらえながら身動きもできませんでした。
白い天井だけを見つめ、自分が今後どうなるかを見つめ、どれだけの時間を過ごしたでしょう。
「もうすぐみんなが待っている大部屋へ帰れる。。」、それだけが私の心の支えでした。
「本当にあの部屋へ帰れるのだろうか。。」、一抹の不安を抱きながら。。

その頃には、それぞれが違う病や症状を抱えながらも、家族以上に親しくなっていました。
寝食をともにし、悩みや不安を共有した「仲間」たちです。
心を閉ざしていた私も、次第に打ち解けていきました。
「仲間」が「仲間」を支えました。多くの言葉を必要としませんでした。
手術前には、「絶対にこの部屋へ返して下さいね」と、看護婦さんにお願いしたほどです。
(新患さんや空きベッドの状況により、術後に部屋の移動もあるからです)

術前には「頑張ってね!」と、家族とともに見送ってくれました。
(手術を頑張るのは、患者ではなく医師なんですけどね。。^^;;)
100%戻って来られないことを、一番よく知っているのも彼女たちです。
この時ほど「生命(いのち)」というものを、実感したことはありませんでした。
それが後に、私を大きく支えてくれることになるのです。

手術

前夜、眠れるようにと処方された眠剤も効かず、朝を迎えました。
バタバタと手術用意をされる看護士さんに、他人事のように指示に従うだけの私でした。
家族が駆けつけた時には、涙・涙・涙でした。
何度も計られる脈拍と血圧値、肩に注射を打たれても、不安と涙と興奮で何だか分かりませんでした。
家族に言葉をかける暇も無く、ストレッチャーに乗せられ手術室へと運ばれました。
100%生存して帰ってこられる保証はありません。

手術室前で、もう一度ストレッチャーに乗せ変えられ、緊迫感漂う手術室に入りました。
それでも、気丈に「よろしくお願いします」と言って、引きつった顔で微笑む私でした。
一方で「私、何やってんだろ?」と思いながら。。
医師が来られましたが、手術着とマスクで誰が誰だか分かりませんでした。
顔にマスクを当てられ麻酔薬を打たれて、薄れていく意識の中で必死にもがいていました。
「○○さん、○○さん」と名前を呼ばれる声が遠くに聞こえました。
その瞬間「死にたくない」と、本能が叫んでいました、
一瞬で私の存在が無くなりました。

数時間後、「○○さん、○○さん」と呼ばれる声が近づいてきました。
眠気と食道に挿入された管が痛くて、目もあけられず苦しいばかりでした。
しかし帰ってきたのです。元通りとはいかず変形していましたが。。
あの日確かに生きかえったのです。
呼吸ができます。血液が流れます。心臓の鼓動が聞こえます。それだけで充分でした。
こうして2回目の生を受けることとなりました。
その手術が及ぼす影響が、どんなに大きなものかも知らずに。。

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

アバター
矢車草
女性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

ブログバナー

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ

[PR]お得情報

話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン

みんなの更新記事