|
Nくんのお母さんから電話がありました。 「年賀状 出せなくてごめんね」 時々そうしたことがあるので、別に気にもとめなかったのですが。 「Nのこと 言ってたかな?」 この言葉に嫌な予感がしました。 彼女が話してくれたことは、Nくんの死でした。 亡くなって1年経つこと。 突然の心臓発作だったこと。 自宅ですでに心停止の状態だったこと。 救急車や病院での蘇生処置も効果がなかったこと。 淡々と語る彼女の乾いた言葉が、母としての深い哀しみを伝えていました。 Nくんは仕事で疲れていたと言います。 しかし20代前半の青年です。 誰が亡くなることなど予測していたでしょう。 救急隊員やドクターの精一杯の処置にもかかわらず、Nくんの心臓は二度と動くことはなかったのです。 「今でもね。 諦めきれないのよ」 「Nがね。 どこか遠い外国にいるみたいで。 まだどこかに生きてるって。。。」 当然だと思います。 急に我が子を失った悲しみを、どこにも出せないでいたのでしょうね。 ただ聞くことしかできませんでした。 聞くことしか。。。 落ち着いたら、手紙を書いてみようと思います。
|
障害児
-
詳細
ある先天性奇形児の記録〜学ばせてくれてありがとう
コメント(15)
|
久しぶりにこの書庫に記事を書きます。 ここで、「彼」についてもう一度紹介したいと思います。 「彼」は私の息子。 現在20歳。 とっちゃん坊やです^^; 携帯も持たない古風なヤツで、イマドキの若者ではありません。 そんな「彼」には先天性奇形がありました。 はっきり言って大変でした。 きれい事だけではないですからね。 でも、そのお陰でたくさんのことを学ぶことができました。 「彼」も私も。 「彼」の奇形は機能的にも支障があります。 しかし、現在の医療ではその回復は望めません。 見た目の奇形を、手術によってそれなりに見せるしか方法がないのです。 命に別状はないし、たいしたことないって言えばそうなんですけど。。 欠損している部分を手術によって完成させます。 無を有にするわけですから、手術も数回にわけて行います。 「彼」が幼稚園在園中、大学病院で初めての手術がありました。 手術時間は半日ぐらいかかったでしょうか。 患部に使用する軟骨や皮膚を移植するため、何ヶ所か同時に手術するからです。 術前の緊張感は子どもにも伝わるはずですが、「彼」は平然と手術室に消えていきました。 術後しばらくの間はかなりの痛みが残ると言います。 「彼」は耐えました。 小さいながらよく頑張ったと思います。 「彼」の病室には同じような先天性奇形のお子さんがいました。 「彼」より年下ですがしっかり者のYくん。 小学生ですでに数回手術を受けていたNくん。 入院期間は2〜3週間におよびますので、Nくんはいつも勉強していました。 そんなNくんを見習って、病室は小さい子どもたちも含めて院内学級のようでした。 NくんもYくんも「彼」より先に退院していきました。 そして、今でもNくんのお母さんからは年に数回電話が来ます。 今年も年明け早々に電話がありました。
|
|
「彼」の変化がもうひとつありました。 子供は眠くなるとグズリますが、「彼」は寝起きも火がついたように泣くのです。 その泣き方の激しさは、入院前まで見たことのない姿でした。 その頃は実母も元気で、機嫌直しに「彼」を外まで連れ出してくれました。 どうしてこのようになったのか。。 私が何の前触れもなく、突然姿を消したからです。 幼い子供にとって、突然庇護者がいなくなる不安は計り知れません。 今になってこそ、「彼」にわかるような言葉で、入院を伝えれば良かったと悔やまれますが、 当時はそんな余裕もなく、親子で傷付く結果を招いてしまいました。 では、どうすればいいのか。。 まもなく様々な理由から夫と離婚に至ります。 そのため、実父・実母・私・「彼」という家族構成になりました。 私は、一家庭に母親がふたりも必要ないことを、受け入れざるを得ませんでした。 働ける身体になるまで治療に専念し、私は母親業を捨てました。子離れしたのです。 社会復帰後は、社会を伝える父親の役目と、姉貴分として「彼」をバックアップしました。 実母の強い性格に傷付けられた経験から、無意識に「彼」を守ろうとしたのです。 しかし、それには犠牲も伴いました。 必要に迫られた措置でしたが、私にとって母親業を捨てることは、かなりの負担があったようです。 後に、その時の経緯や感情の記憶が、欠落していたことがわかりました。 当初は試行錯誤の連続でしたが、意外にこの方法が効果的な役割を果たしました。 私のポジションが、柔軟に対処できたからです。 「彼」の年齢によって、役割の比重を対応させたのです。 「彼」が幼い頃は遊び仲間となり、成長とともに父親の役割が増えました。 また一定の距離をおくことにより、「彼」を所有することなく、人として尊重することができました。 私が受けたプレッシャーから守るため、実母の過剰介入をけん制し、「彼」を自由にさせることができたのです。 母親役は実母が担ってくれたため、私は温かく見守ることができました。 コケたからすぐに助け起こすのでなく、そばに行って視線を同じまで下げ、手を差し伸べることができました。 「彼」と三人称で呼んでいる経緯はここにあるのです。 今でも「彼」の中に父性の少なさは否めませんが、それぞれの役割で最善を尽くせたと思います。
|
|
病院から電話がかかりました。 「空きベッドができましたから、○月○日に入院して下さい」 病気への悲壮感はありません。 でも、実母に託すとはいえ「彼」をおいていくことは、後ろ髪をひかれる思いです。 まだ幼い「彼」に、どのように伝えれば良いのか。。 正直、かける言葉を失っていました。 感染等の防止のため、子供の面会は病院で禁じられていました。 子供がかわいい盛りに空白期間を作るのは、罪の意識さえ生じます。 詳しく明かされない病状と、100%生還の保証がないことが、私の言葉を奪っていました。 その後。。 約40日間の入院期間を経て、家へと帰れる日が来ました。 養生のため、実家へ帰るのです。 そこには、預けてある「彼」もいます。 1ヶ月以上も顔を見なかった、「彼」に会えるのです。 再び会える喜びと、拒否される怖さが交錯します。 どのような感情を抱いて、「彼」と対面したのか。。 残念ながら記憶がないのです。 それほど私の体力は弱っていたのです。 否、喜びを思い出せないほどのショックが、私を襲ったからかもしれません。 1ヶ月以上の月日は、「彼」の生活パターンを全て変えていました。 実母の傍らで眠る「彼」を見て、呆然としました。 私と一緒でしか眠らなかった「彼」が、もういないのです。 遊んでもらおうと「彼」が歩み寄って来ても、実母から制止されます。 私にとっても、傷の痛みに耐えて「彼」と遊んでやることは、不可能です。 もう母親としての私の役割は、どこにもありませんでした。
|
|
そのような日々の中で、私は身体に異変を感じました。 育児に追われる毎日と、20代という年齢が、私を無知にさせていたのです。 不吉なものを感じましたが、病院に行く時間もなく、真実を知ることも怖かったのです。 実母も私の疲労感を知って、何かにおいて協力してくれました。 私の身体がどんなことになっていても、「とにかく半年待とう」と心に決めて。。 それまでの半年間は、「彼」と濃密な時間を過ごしました。 「半年」と時間を区切ったことで、少しは動けるようになったのです。 疲れて動けなくなると、「彼」の背中を掻いて、私も一緒に眠ります。 しかし半年という時間は、あっという間にやってきました。 かわいい盛りの「彼」を見て病院に行くのは、やはりためらわれましたが、 素人の私でも危機感を感じる症状が出ています。思い切って検査に行きました。 そして結果が出ました。 約1ヶ月、「彼」と離れなくてはなりません。 自分のことはともかく、「彼」を実母に預ける準備、「彼」の今後から将来のこと。。 不安は尽きませんが、呼び出しがあればすぐに「彼」と離れる時がきます。 とにかく時間がありません。「彼」と私のそれぞれの準備に追われました。 しかし病気を告げられたことで、私の心は楽になっていました。 1ヶ月間は、今の生活から離れることが約束されるのです。 呼び出しがくる日まで、弾む気持ちを隠して「良き嫁」を演じていました。 後に知る、「病は恵み」を体感していたのです。
|





