《[佐々木は、]物象による人格の意志支配(物象の人格化)の根拠を解明しないまま、物象と人格との意識関係を説くので、価値が人間の態度次第で規定されるものであるかのように論じられている》と,榎原は佐々木を批判するが,《商品所有者たちが生産物を商品として市場に出すことは、概念的存在としての物象が発するサイン(社会的象形文字に起因する)にしたがって行動しているのだ》という榎原の説明も決して《物象による人格の意志支配(物象の人格化)の根拠を解明》してはいない。物象の存在とそれが発する「サイン」が前提されている。意志支配の根拠は解明されず,この支配が前提されている。
モノの物象化と物象の人格化は表裏一体である。それは,主体による対象に対するsich Verhaltungが主体自身と対象とに二重に作用し,主体と対象のそれぞれに規定性を与えるということに他ならない。労働する諸個人が,彼自身を私的個人とする様態を取りつつ,モノに対しては,それを社会的媒介物にするように働きかけるから,モノの物象への転化と,人格の〈物象の運動の質料的担い手(物象の人格化)〉への転化が起こるのである。しかし,この一連のプロセスの規定的かつ基底的なモメントは,主体が自己自身に,物象の媒介に依存せざるを得ない私的個人としての規定性を与える行為,人格が物象的機能の担い手として具現するという意味での人格の物象化である。
たしかに,《もし佐々木の言うように「物象として関連」させているならそのように関連させない行為も可能となるがそうではない。》と榎原が指摘するように,“働きかけ”自体は主体の意思的行為ではない。それは無自覚的な「本能的」行為としてなされるのである。そしてそうである以上,それは物象の「サイン」に対しても先行する本源的な行為である。与えられた自然的・社会的諸条件の下での労働実践が「物象による人格の意志支配(物象の人格化)の根拠」なのである。
草莽崛起(The Rising Multitude )
転載元: 草莽崛起〜阿蘇地☆曳人のブログ(桜の下に「日本」を屠る決意)
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