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【写真】泉の地から高原山を臨む
現在の栃木県矢板市の北部は、泉と呼ばれ、
昔は泉村として独立し、さらに昔は泉郷と呼ばれていた。
泉は、郷土の名峰高原山(たかはらやま)の東南麓に広がる土地で、
さらに北東方向を遠く臨めば、九尾の狐の伝説と殺生石で有名な那須岳が見えた。
西を遠く臨めば、日光の名峰男体山が仰ぎ見える風光明媚な土地だった。
そんな泉郷をかつて支配していたのが岡本氏と言う一族だった。
岡本氏は、泉郷の南、太田と言うところに
松ヶ嶺城(まつがねじょう)と松小屋(まつごや)と言う城下町を築き当地を支配していた。
そんな城下町のはずれにある百姓の家に、昔、綾(あや)と言う美しい娘がいた。
天正2年(1574年)10月19日。
その日は、城下町松小屋の北に奉られた箒根神社(ほうきねじんじゃ)の例祭の日であった。
この神社は、この時より40年ほど前の天文2年(1533年)に分祀されたもので、
松小屋の鎮守様として崇拝されていた。
その例祭では、毎年、神楽舞が奉納されていたが、
その舞手として選ばれたのが、その年、数えで11歳になっていた綾だった。
しかし綾は、百姓の娘で、百姓の娘が選ばれるのは異例だった。
身分の卑しさと言う事もあるが、
百姓の娘と言えば、どんなに姿形が良くても、
幼い頃から農作業を手伝わされ、肌は真っ黒に日焼けし、土まみれで、
見栄えがものすごく悪かったからだ。
しかし、綾は違った。
百姓の娘とは思えないほど愛らしい顔立ちで、
肌は透き通るように白く、
家の仕事をおこたりなく手伝いながらも、その白さが失われる事が無かった。
そんな綾は、やがて松小屋のちょっとした評判となり、
その年、神楽の舞手の巫女役に抜擢されたのだった。
綾を推薦したのは、時の岡本氏の当主岡本讃岐守正親(おかもと さぬきのかみ まさちか)の弟、
岡本対馬守氏宗(つしまのかみ うじむね)だった。
綾の家は氏宗の屋敷に出入りしていたが、
子が無かった氏宗は、綾や綾の兄弟たちを可愛がっていた。
綾の評判を最初に広めたのも氏宗で、
その愛らしさを見せるべく推薦したのだった。
そして綾は、その氏宗の期待に応えた。
綾は、まだ幼い上に格式あるところでの礼儀作法も知らなかったが、
氏宗の指導の下、筋良く短期間の内に舞を習得し、
例祭の夜、月明かりとかがり火に照らされ、
11歳の童女とは思えないほど優雅に神楽を舞って見せた。
正親や氏宗が列席し、松小屋の人々の視線に晒される中、
綾の愛らしい姿は、薄明かりに照らされて、
一層眩しく映える白い肌と共に、その視線を釘付けにし、
その舞は、全ての人々を心地よく酔わせた。
そんな綾を見つめる人々の中に、
清四郎(せいしろう)と言う少年がいた。
正親の嫡男で、綾とは同い年だった。
その清四郎は、2歳年下の弟清九郎(せいくろう)と共に正親の傍で綾の舞を見つめていたが、
清四郎もまた綾の舞に見惚れていた。
そんな清四郎の耳に近くにいた正親と氏宗の会話が聞こえてきた。
正親「なかなかの娘じゃな。」
氏宗「兄上、いけませぬぞ。」
正親は、かなりの色好きで有名だった。
女に溺れて政事を疎かにする事こそ無かったが、
若い頃から色遊びを幅広く数もこなし、
この時、正親は48歳になっていたが、老いて益々盛んと言う有様だった。
それは、11歳の娘が相手でも例外ではない。
もちろん、すぐにと言う事ではなく数年後を見据えてと言う事はあったが、
そうした若い娘たちに目をかけ、あるいは、傍に仕えさせ、
いずれ妾とすると言う事は、この時代においては珍しい事ではなかった。
正親「傍に置きたい。」
それを聞いた瞬間、清四郎になぜか怒りが込み上げてきた。
父が色好きな事は清四郎も理解していた。
そして、母がそうだったように、正親のそれに清四郎は呆れていた。
正親に新しい女が出来たと聞いても、いつもの事と聞き流せる理性もすでにあった。
しかし、今日はなぜか違った。
綾を傍に挙げたいと言った正親に怒りを覚えた。
綾を知るのは今夜が初めてだと言うのに、
綾を妾にしようと言うなら絶対に許さない・・・
清四郎は、そう思ったのである。
しかし、正親の思惑は、清四郎が思った事とは少し違っていた。
正親「但し、わしの傍ではない。清四郎と清九郎の傍に置きたい。」
その瞬間、清四郎に一気に込み上げた怒りは、嘘のようにすうっと消えていった。
氏宗「綾を清四郎と清九郎の傍に?」
正親「そうじゃ。聞けば年も近い。
清四郎と清九郎は、幼いゆえ、これまでは年増の女中を傍に置いてきたが、
清九郎も来年には10歳になる。
そろそろ年が近い女中を置いても良かろう。
綾は、それに見合うなかなかの器量じゃ。」
氏宗「なるほど、それは良いですな。」
それを聞いていた清四郎の胸は高鳴った。
清四郎(綾が、俺の傍に仕える・・・)
今日が初めての出会いだと言うのに、長年待ち続けた夢が叶ったかのように嬉しかった。
ただ、いろいろ準備などもあると言う事で、
綾が城に上がるのは来年と言う事になった。
それまで綾は、氏宗の屋敷で武家の作法などを学びながら、その日を待つ事になった。
これが、清四郎と綾の最初の出会いだった・・・
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