|
【写真】川崎城址
清四郎が元服してから2年後の天正8年(1580年)には弟の清九郎も元服し、
岡本正富(おかもと まさとみ)と名乗った。
「正」は父正親から、「富」は初代富高からと、
清四郎と同じようにして名付けられた。
また、この1年前、清四郎と清九郎の姉が、
嫁ぎ先でその家の世継ぎとなる嫡男を誕生させていた。
その嫁ぎ先とは、岡本家の主君塩谷氏の庶流で、
塩谷日向守義通(しおのや ひゅうがのかみ よしみち)と言った。
しかし、この事が、実は岡本家と主君塩谷家との間に確執を生んでいたのである。
義通は、正親の姉が先君塩谷義孝(しおのや よしたか)に嫁ぎ生んだ子で、
義孝の長男であった。
しかし、義孝の後を継いだのは義通の弟義綱(よしつな)だった。
なぜ、義通が家督を継げなかったかと言えば義通の母が義孝の側室だったからだ。
義通と義綱は、兄弟とは言っても母親が違っていた。
義通の母親は塩谷家家臣岡本家の娘、
義綱の母親は塩谷家の主君である宇都宮家の養女、
同じ妻でも格が違っていたのだ。
そのため、義綱の方が正統とされ、義通は家督を継げなかった。
ただ、義通自身は、それを悲観してはいなかった。
塩谷家家臣団で筆頭の実力者であった正親は、義通に家督を継がせるべく奔走したが、
肝心の義通は、
義通「私は、塩谷家が安泰であれば良い。」
と野心のかけらも見せず、
義綱が宇都宮家の支援を受けて家督を継ぐと、
自らは御前原城に入り、本城である川崎城をあっさりと義綱に譲ってしまった。
正親も、本人がこの調子ではどうしようもなく、
さらに宇都宮家が義綱を支持した事もあって、義通擁立を諦めざるを得なかった。
ただ、正親が義通擁立に奔走していた事は義綱も知っており、
義綱は、正親を信頼せず、
また、自分の座を脅かす事が出来る兄義通を疑い妬んでいた。
そんな義通に嫡男が誕生すると、義綱は焦燥感を募らせた。
義通と義綱は、兄弟と言っても12歳も離れており、
義通に嫡男が誕生した時、
義通は34歳、義綱は、また22歳に過ぎなかった。
しかし、仮に義綱に男子が誕生しなければ、
家督は、自動的に義通の子に継承される事になる。
しかも義通は、領民に優しく人徳もあり、
学問にも優れ、評判が良かった。
そして、焦った義綱は、清九郎が元服したその年、
突然、暴挙とも言える行動に出る。
義綱は、義通に城替えを命じ、
御前原城には次兄の安芸守季綱(あきのかみ すえつな)を入れ、
義通を泉城に移してしまったのだ。
御前原城は、川崎城に次ぐ地位を持つ塩谷氏にとって重要な城であったが、
泉城は、仇敵那須氏と対峙する最前線の城で、
塩谷領の北部の要たる城だったとは言え、
規模はかなり小さく、塩谷氏にとっては支城のひとつに過ぎなかった。
また、泉城にはすでに泉氏と言う城主一族があり、
実権は、その泉氏が握ったままで、
義通に与えられたのも泉城の北のはずれの屋敷で、
実質的に幽閉状態に追い込まれたのである。
ちなみに季綱は、次兄とは言っても、父義孝の養子に過ぎず、
義綱にとっては無害の兄であった。
義綱は表向き、義通を対那須氏の総大将とすると言う名目でそれを行ったが、
義通を失脚させるための仕業である事は誰の目にも明らかであった。
これを知った正親は、慌てて川崎城に向かい、
この命令を取り消すよう義綱に訴えた。
しかし義綱は、まともには取り合わなかった。
しかも義綱は、反正親の家臣たちを結集させ、家臣団に対する裏工作も終えており、
誰も、正親に同調して義通を救おうとはしなかったのである。
そして、これを機に塩谷氏と岡本氏の対立は鮮明となり、
正親は、塩谷家臣団の中で孤立していく事になるのである・・・
|