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【写真】泉の山々より泉の地を見下ろす
義綱は、幼い頃、
実の叔父に裏切られて城を追われると言う経験をしていた。
永禄7年(1564年)10月7日夜、
弥六郎と呼ばれていた義綱が6歳の時、
この前年に喜連川塩谷家の家督を継いでいた叔父の孝信が、
精鋭の16騎の手勢を引き連れ川崎城を夜襲した。
たかが16騎の兵だったが、
川崎城の大手門を守る木村和泉と言う者が内通し、
あっさりと城内への侵入を許したのだった。
そして、叔父家来の裏切りにより義綱の父義孝は殺された。
この時、義綱も城にいたが、
家臣の大沢隼人が義綱を守り命からがら城を脱出した。
その後、大沢隼人は、幼君義綱を連れて義綱の母の実家である宇都宮家を頼り、
後に川崎城を奪い返して、義綱は家督を継いだ。
幼い頃のこの出来事がトラウマになっていた義綱は、
人を信じられない人間になっていた。
特に、自らを脅かす事が出来る人間は最初から信用出来なかった。
信用しても必ず裏切る・・・
そう思う理由は、何もトラウマばかりに起因しているわけではなかった。
義綱の祖父孝綱は、宇都宮家から来た養子であったが、
やはり、父義孝同様に家臣の謀反に遭っていた。
義綱は、祖父、父と続いた事ならば、
自分の代にもそういう事があっておかしくないとも思っていた。
ただ、孝綱は、それを事前に察知して、
謀反を企てた家臣たちを粛清して安定政権を築いた。
そこで義綱は、この祖父孝綱にならい、
謀反を起こされる前にその芽を摘み取ろうとした。
その芽とは、義通であり、正親である。
ただ、那須氏との戦いが激化しつつある今、
安易に義通や正親を追放する事は出来なかった。
そんな事をすれば、那須氏につけ込まれるだけである。
さらに、家臣団の中には那須氏と内通している者がいるかも知れない。
現に、これまで約300年も塩谷氏と那須氏は戦ってきたが、
互いの家臣の裏切りの繰り返しは日常茶飯事だった。
だからこそ義綱は、正親の封じ込めのため、
着実に謀略を巡らせ、また機を待った。
天正11年(1583年)2月、そんな義綱に好機が訪れる。
常陸(茨城県)の有力大名佐竹氏と宇都宮氏の連合軍が、
那須氏の本城烏山城を攻めたのである。
結局、烏山城は落ちず、佐竹・宇都宮連合軍は撤退するが、
これにより、しばらく那須勢の動きが静かになった。
義綱は、正親を追放するならば今だと思い、
川崎城に正親を呼び寄せた。
義綱「讃岐(正親)、そちは、兄義通を擁立し、
謀反を企んだであろう!」
正親「な、何を馬鹿な事を!?」
義綱「わしが何も知らぬと思ってか?
本来であれば、切腹を命じて岡本家も潰すところを、
これまでの岡本家の功績に免じ、
そちの隠居を以って罪を許す。」
それは、正親にとって身に覚えのない事だった。
確かに以前、一度義通の擁立を試みたが、
義綱が跡継ぎと決まってからは、そのような事は企てた事も無い。
ただ、身に覚えが無いのも当然だった。
全ては義綱のでっち上げだったからだ。
義綱は、本心を言えば、正親を切腹させて岡本家ごと潰してしまいたい思いだったが、
そんな事をすれば、岡本領に混乱が生じてしまう。
岡本氏が持つ戦力は、塩谷氏にとって欠かせないものであり、
これを失ったり混乱させてしまったりすれば、
塩谷氏にとっても大打撃となる。
さらに、義綱には困った事実がある。
それは、正親と氏宗の弟に光貞(みつさだ)と言う者がいたが、
この岡本光貞は、喜連川の塩谷孝信に仕えていたのだ。
光貞は、孝信が喜連川に養子に行った時、
家来として一緒に喜連川についていったものだが、
もし、岡本氏に下手な処分をして、
岡本氏の家来たちが光貞に通じれば大変な事になる。
だから、隠居と言う形で追放するしか無かったのだ。
正親は必死に弁明したが、義綱は聞き入れず、
家臣団の中で孤立していた正親を助ける仲間もいなかった。
正親にとっては晴天の霹靂であった。
正親が隠居を迫られた事を知ると、正親の家来たちは激怒した。
家臣「塩谷と一戦交えるべし!!」
喜連川の光貞と連携すれば塩谷にも勝てる。
そう言って、家来たちはいきり立ち騒然となった。
しかし正親は、これを諌めた。
正親「そんな事をすれば、那須勢を喜ばせ、
塩谷の地を蹂躙されるだけ。それはならぬ。」
しかし、その場にいた清四郎が反論した。
清四郎「塩谷が我らを見捨てると言うなら、
その塩谷に忠節を誓う意味もありません。
逆に、那須殿が我らを迎えてくれると言うなら、
我らは、那須殿につくべきではありませぬか?」
すると正親は、目をキッと光らせ清四郎に言った。
正親「我らは、これまで何度も那須勢と戦ってきた。
そして、多くの命を散らせてきた。
それは何のためか? 那須からこの地を守るためであろう。
その命の代償の上に生きている我らが那須に寝返って、
その者たちに、どのように顔向けが出来ようか?」
正親の言葉に、清四郎も家来たちも静まり返った。
正親は、さらに続けた。
正親「それに、塩谷は我らを見捨てたわけではない。
いや、捨てられなかったのだ。
塩谷にとって、我らは欠かせない戦力だ。
それに、光貞を通じて那須に寝返る事を恐れている。
本心は、わしを切腹させ、岡本を潰したかったのだろうが、
それが出来なかったのだ。
切腹ならば再起は無いが、隠居と言うなら再起はある。
それまで我々は耐えようではないか。」
その言葉に、家臣の中には、むせび泣く者もいた。
そして、正親の考えを尊重して、正親は隠居する事になった。
正親は、隠居の後、家督を氏宗に譲った。
筋から言えば清四郎が家督を継ぐべきだが、清四郎はまだ20歳と若すぎた。
それに正親には考えがあった。
それは、清四郎と清九郎を連れて、いったん泉の地を離れる事だった。
正親は、清四郎と清九郎に外の世界を見せたかった。
世の中には、塩谷や那須、宇都宮など目ではない、
有力な戦国大名たちがゴロゴロいる。
そうした世界を2人に見せて、2人を成長させたかった。
それは、いずれ岡本氏の未来にも役立つはず。
正親は、その思いを清四郎と清九郎に語った。
すると、清四郎と清九郎も、泉を離れる事に同意した。
そして、天正11年(1583年)の夏、
正親は、松ヶ嶺城の事を氏宗に全て任せ、
清四郎と綾、清九郎と僅かな従者と共に松ヶ嶺城を出た。
ただ、それは正親にとって険しく厳しい、苦難の道の始まりであった・・・
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