|
天正12年(1584年)4月17日。
それまで約1年間、比較的なりを潜めていた北条軍が、
再び1万2000騎と言う大軍で北関東に侵攻。
下野と上野(栃木県と群馬県)の国境付近、
下野側の越名沼(こえなぬま)に布陣した。
これに対し、北関東諸将は、佐竹軍を中心にして連合軍を結集。
その総勢は約8600騎にまで達した。
そして、その連合軍の中に皆川軍もあった。
皆川軍の総勢は約300騎。
ただ、皆川勢は微妙な立場に置かれていた。
と言うのも、広照の妻鶴子の実家の皆川家とは盟友関係にある壬生(みぶ)家が、
皆川家とは反対に北条方についたからである。
皆川家には、最大で800〜900騎の動員力があったが、
その半分の戦力も出陣させていないというのは、
そうした皆川家の微妙な立場を象徴していた。
互いが軍勢を整えたものの、
すぐに決戦とはならず、戦は長期化の様相を見せていた。
そのため皆川軍は、越名沼が皆川城に近かったため、
いったん皆川城に兵を退いた。
それは、正親も清四郎も清九郎も初めて経験する大戦(おおいくさ)だった。
下野で大戦と言えば、どんなに多くても千数百〜二千数百騎ぶつかり合い。
数千〜数万の軍勢を相手にするなどまず無い。
しかし、これは正親が望んだ事。
戦場の経験が豊富な正親でさえ武者震いをするような戦だったが、
こういう戦も経験しなければ、これからの岡本家も無いと思っていた。
ただ、そんな正親たちを送り出す方からすればたまったものではない。
綾は、正親、清四郎、清九郎の武勇を信じてはいたが、
どんな小さな戦でも、一抹の不安を抱えながら送り出し、
無事な姿で帰ってくるのを見るまで、不安な日々を抱えたままの日々を過ごす・・・
女は待つだけ・・・ある意味、戦場に赴く男よりも辛い仕打ちだった。
しかも今回は、初めての大戦。
綾は、本音を言えば、3人を引き止めたい思いだった。
しかし、武家の女になった以上、それも出来なかった。
綾に出来る事と言えば、清四郎たちを無事に出陣させ、
その武勲を願う事しかなかった。
そして、5月に入って、正親、清四郎、清九郎の3人に再び出陣の命令が下った。
その出陣前夜、正親の館では、盛大な宴が催された。
しかし、普段は酒に強いはずの正親が早々と酔い潰れ、
綾は、清九郎に手伝ってもらい正親を寝所へと運んでいった。
綾が布団を敷き、清九郎が正親をそこへ寝かせると、
2人は、明かりを消して部屋を出た。
そして、縁側の廊下に出た時見えたのは、
雲ひとつ無い夜空に浮かぶ、大きな月であった。
綾は、思わずそれに目を奪われた。
綾「綺麗・・・。」
その瞬間だけ、不安な全ての事を忘れて心地良い気分になれた。
酒気に当たっていたせいか、
火照った体にはちょうど良い夜風も吹いていた。
綾「清九郎様、あの星空は、
きっと私たちの未来を暗示しているのでしょう。
澄み切った夜空に輝く無数の星たちのように・・・。」
しかし、清九郎の返事がない。
綾は、清九郎が行ってしまったのかと振り返ろうとしたが、
次の瞬間、綾の背中を誰かが抱きしめてきた。
綾「せ、清九郎様・・・。」
清九郎「義姉上、しばらく・・・しばらく・・・。」
そう言って、清九郎は綾の背中を強く抱きしめた。
綾「い、いけません・・・。」
周囲に気付かれないように綾は言ったが、
清九郎は聞き入れなかった。
そして、綾の柔らかく芳しい体を抱きしめながら清九郎は言った。
清九郎「俺も、義姉上が好きだった・・・。」
綾「・・・・。」
清九郎「だけど、兄上は絶対に死なせない。
俺の命に代えても、兄上は守る。
だから、このまましばらくいさせてくれ・・・。」
綾は、それ以上何も言わず、
清九郎に抱きしめられたまま夜空を見つめた。
綾(どうか、みんな無事でありますように・・・。)
綾に出来るのは、それだけだった・・・
そして、そんな光景を清四郎は影で見ていた。
2人が戻ってくるのが遅いので見に来たが、
兄として清九郎を思うと、2人の間に入っていく事が出来なかった。
清四郎は、静かに宴の席に戻り、手酌で酒をあおった。
しばらくして、綾が戻ってきた。
清四郎「清九郎は?」
綾「眠くなったからと寝所に・・・。」
清四郎「そうか・・・じゃあ、俺たちも寝るか。」
綾「はい・・・。」
そして、清四郎は寝所に入り、
綾も宴の片づけを終えると、清四郎が待つ寝所へと入っていった・・・
翌朝、正親、清四郎、清九郎の3人は、
総勢10騎の手勢で皆川軍に加わり出陣した。
天正12年(1584年)5月5日の事である。
|