"やいたもん"の文学館

大きな人生の転機がありました・・・

泉物語(完結)

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第18話 泉騒動 [前編]

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【写真】鏡山寺岡本家墓所。向かって右が正親の墓。真ん中は清四郎と清九郎、久太郎の墓。



寛永5年(1628年)、久太郎に次男万吉が誕生した。
久太郎は、11年ぶりの男子誕生を喜び、
また、岡本家の将来について、こんな事を考えるようになっていた。

久太郎(いずれは、この万吉をいずこかの名家へ養子に出して、
    岡本家の発展に貢献させたい。
    あるいは、万吉を惣十郎の養子にして、
    塩谷家を乗っ取ってしまうのも良い。
    義政が岡本家の当主として相応しくなければ、
    義政を廃嫡して、万吉に岡本家を継がせよう。
    いずれにしても、岡本家の未来は明るい。)


すると、そんな久太郎を喜ばす申し出が舞い込む。
那須郡芦野領主芦野民部少輔資泰が、
その万吉を養子にしたいと言ってきたのである。
芦野家は、岡本家と並ぶ旗本で、那須七騎の1家に数えられる名門であり、
北関東で3家しかない大名家の内、大田原家、大関家との関係も深かった。
芦野資泰には、世継ぎがなかったので、
領地も近い岡本家に養子縁組の申し出をしたのだが、
久太郎にとっては願っても無い申し出であった。
久太郎は、二つ返事でこれを承諾し、芦野家との養子縁組の準備を進めた。

ところが、話は大きく変化する。
芦野民部には、世継ぎがいないはずだったが、
実は、芦野家の飛び地領(離れた領地)芳賀郡赤羽村の庄屋の娘との間に、
隠し子的な庶子の男子がいたのである。
すると、芦野家の家臣たちは、

「庶子とは言え、実子なのだから、
  養子など迎えず、その方を世継ぎとすべき。」


と強く主張した。
これに芦野民部も考えを改め直し、
この庶子を迎えて芦野左近と名乗らせ世継ぎと決め、
万吉の養子縁組を破談にしてしまったのである。
これには、久太郎も激怒した。

久太郎「武士に二言なしと言うに前言撤回とは、芦野民部は武士に非ず。
    この上は、万吉に岡本領の内1000石の知行を持参金を持たせて、
    惣十郎の娘と夫婦にさせて塩谷家を継がせる。
    合わせて2000石の旗本として江戸詰めさせ、
    芦野家を継いだのと同様の身分にして、芦野民部を見返してやりたい。」


そう決めると、久太郎は早速惣十郎に使者を送った。
この申し出に惣十郎は悩んだ。
この頃、惣十郎は、九重とは別に同じく那須系の大谷津家から側室を迎えていた。
それは、世継ぎを生めなかった九重に勧められたもので、
万吉の相手とされた娘は、この側室との子供であった。
惣十郎には、男子は無かったが、
兄久太郎の子に継がせるのは、どうにもしゃくに障った。
しかし、天下泰平の世のこの時期に、1000石の加増は大きな魅力であった。
また、これにより塩谷家は江戸詰めの旗本となる事も出来る。
万吉は、父久太郎や兄の義政と違い、性格はおとなしく物分りも人も良い。
惣十郎がこれを九重に相談すると、

九重「家のためになるなら、そうした方が良いでしょう。」

と賛同したので、惣十郎は、この申し出を受け入れる事にした。

しかし、これを面白くなく見ている者がいた。
義政である。
義政は、万吉が養子に行く事自体に異議は無かったが、
1000石の持参金を持たせる事には反対であった。
自分の相続分が減ってしまうからだ。
さらに岡本家は、家禄に見合わぬ家臣を抱えていた。
川崎城の塩谷家が改易された時、
祖父の正親は、塩谷家の家臣の内、岡本家を頼ってきた者を家臣として抱えていた。
そのため、4300石と言う知行に見合う家臣は40〜50人程度なのに、
岡本家には、その約倍の80人の家臣がいた。
このため、財政は圧迫されていたが、
1000石と言う知行を失えば、それこそ立ち行かなくなる。
それを義政は、父の久太郎に訴えたが、
意地になっていた久太郎は、これを聞かなかった。

すると義政は、とんでもない行動に出る。
義政には、悪友とも言える幼い頃から行動を共にした
浅間主税花山十太夫と言う家来がいた。
義政は、この2人を呼び出すと、とんでもない計画を明かした。

久太郎「父を殺せ。」

義政は、父が死ねば塩谷家との養子縁組の話も白紙に戻され、
うまくやれば、塩谷家の1000石を奪い取る事も出来ると考えた。
ただ、幼い頃からあらゆる悪態をついてきたとは言え、
これには、さすがに浅間も花山も怖気づいた。
しかし、義政は言った。

義政「もう計画は明かしたのだ。
   協力しないと言うなら、お前たちの命は無い。」


こうして、浅間と花山は、義政に協力を誓った。
そして義政は、どこから手に入れてきたのか、
浅間と花山の協力の下、父の久太郎に徐々に毒をもった。
病死に見せかけて殺すためである。
やがて久太郎は病に倒れた。
しかし、久太郎の医師こそ、義政の協力者となっていた者だった。
当然、快方に向かう事など無く、久太郎の病状は悪化した。
死期を悟った久太郎は、義政を病床に呼び寄せて言った。

久太郎「後の事は頼むぞ。」

そして・・・
寛永18年(1641年)12月29日、久太郎は、63歳で没した。
信じた子に裏切られ、それを知らぬまま逝くという本当に惨めな最後であった。

だが、義政の計画は、まだ終わったわけではなかった・・・


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