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【写真】岡本義保が築いたとされる岡本家の別邸針生(はりゅう)城址
惣十郎が殺された時、惣十郎が連れていた家来たちは、
泉城の者に、惣十郎の命令として先に御前原城に戻るように言われ、
騙されたまま帰っていた。
その後、惣十郎急死の報が御前原城に届いたが、
九重が家来たちと共に泉城に駆けつけた時は、
惣十郎の遺体はすでに葬られ、亡骸にさえ会えなかったどころか、
葬られた場所さえ教えてはもらえなかった。
御前原城には、惣十郎の一族や家来たちが集まり、城内は騒然となった。
※「これは、内蔵助殿(義政)の陰謀ぞ!!」
※「そうじゃ。殿は、内蔵助殿に殺されたのじゃ!!」
※「もはや、戦しかあるまい。殿の仇を討つのじゃ!!」
しかし、その時だった。
内乱寸前まで殺気立っていた家臣たちをなだめる者がいた。
惣十郎の義兄大谷津(千本)清兵衛尉長勝である。
千本重郎右衛門と言う名も持つ彼は、惣十郎の側室の兄であり、
江戸城留守番役なども務めた幕府御家人であった。
長勝「待て、皆の衆。ここで反乱など起こせば、
岡本家のみならず、この塩谷家も改易となろう。
そんな騒ぎを起こしてはならぬ。」
※「しかしそれでは!?」
長勝「だから、わしが評定所に直訴する。
惣十郎殿は、喧嘩にて惨殺されたと言うが、
武芸に長けた惣十郎殿が、簡単に殺されるはずはない。
おそらく、毒殺されたのであろう。
その卑怯な手段で討たれたとあれば、道理は我が方にあり、
塩谷家は安泰のまま、岡本家だけを潰し、家を安泰にする事が出来る。
その後、万吉殿を改めて養子に迎えて塩谷家を再興するのじゃ。
これならば、家を守ったまま仇を討つ事が出来る。」
長勝の意見に、殺気立っていた家来たちも、それならばと怒りの矛を収めた。
ただ、それにはひとつ問題があった。
九重である。
岡本家は、九重の実家であり、九重の父清四郎がその命を捨ててまで守った家。
その岡本家を潰すという決断を九重が受け入れねば、訴え出る事は出来なかった。
長勝「九重殿・・・」
長勝に迫られると、九重は言った。
九重「やむを得ませぬ・・・
私はもう塩谷家の女。塩谷家のために為されませ。」
九重も、何とか岡本家を守りたかったが、
事ここに至っては、もうどうにも出来なかった。
九重(父上、母上、照重・・・申し訳ありません・・・。)
九重は、心に血の涙を流して、
黄泉の国にいる清四郎と綾、そして照重に謝罪した。
そして長勝は、早速、これを江戸の幕府評定所に訴え出た。
評定(裁判)は、3月下旬に始まり、義政と長勝は、評定所に出て対決した。
だが、義政は弁舌に長けていた。
長勝の訴えに対し、評定所に出た義政は、舌も滑らかに理路整然と反論し、
評定は、全てが義政に優位に進められていった。
長勝も、何とか挽回しようとしたが、
全ての証拠をもみ消されていたためどうにもならず、
評定が始まってから3ヵ月経ち、長勝敗訴で結審する寸前にまで至った。
ところが、その時、慶長21年(1644年)7月10日、
義政にとって不測の事態が発生する。
幕府において、将軍に次ぐ実力者であり、
実質的には将軍の権力さえ上回った時の大老土井利勝が74歳で急死したのである。
これにより、幕府内は騒然となり、
幕府の重臣たちは権力闘争へと突入していく。
そして、長勝の訴えは、
もはや幕府にとってはどうでも良い、むしろ、うざったいくらいの小事となる。
結審は延期され、しばらく評定さえ開かれなくなった。
だが、裏では、長勝の訴えのように幕府にとってどうでも良い訴えが、
おざなりに処理されていたのである。
幕府「騒ぐ者は、皆潰してしまえ。」
それが幕府の方針となった。
そして、慶長21年(1644年)8月末、
義政と長勝は、久しぶりに評定所に呼び出され、
突然、こう言い渡される。
幕府「両者不届き。
よって、岡本内蔵助義政、大谷津長勝の両名には、改易を申し渡す。」
それは、有無を言わさぬ結審であった。
義政は、家臣が主筋の者を討つという家内不統一を責められ、
長勝は、確信もなく毒殺されたと騒ぎ立てた偽りの申し立てを責められ、
それぞれ改易を言い渡された。
義政も長勝も反論しようとしたが、
評定所の役人は聞く耳をも出す、そのまま2人は評定所を追い出された。
同年9月2日、義政は、九州の久留米藩にお預けとなり、
同9月19日、泉城は、
派遣された幕府役人、石川弥左衛門、小倉忠右衛門に明け渡された。
人を折らば穴二つ・・・
結局、安易な判決によって、喧嘩両成敗となって終わったのである。
こうして、正親、清四郎、清九郎が
命懸けで築いた岡本家と泉の独立の歴史は、
愚か者を当主とし、幕府の事情に翻弄され、
不運と言えば不運、自業自得と言えば自業自得、
一族で憎しみ合い、殺し合って、
わずか53年にして終わりを告げたのだった。
その年の12月16日、約20年続いた慶長時代は終わり、
年号は、正保に改元された・・・
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