"やいたもん"の文学館

大きな人生の転機がありました・・・

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

第11話 泉の独立

イメージ 1

【写真】高原山と岡本家家紋「三つ巴」



正親は、清四郎と清九郎という世継ぎを失った岡本家を立て直すため、
新たに世継ぎを定めて、後継者を育成しなければならなかった。
そのためには、養子を迎えなければならないが、
正親のそばには、岡本家を継がせるに相応しい子等がいた。
それは、自分の姉の子にして、自らの娘の婿である塩谷義通の子等であった。
義通は、未だに軟禁生活を余儀なくされていたが、
夫婦生活は円満で、3人もの男子に恵まれていたのである。
天正7年(1579年)生まれの嫡男久太郎
天正10年(1582年)生まれの次男惣十郎
天正14年(1586年)生まれの三男新助
正親は、この3人の内、いずれか相応しい者を岡本家に迎え、
照重か九重の婿にして、家を継がせようと考えた。
ある日、正親が、その考えを義通に明かすと、

義通「私は、塩谷家を継げぬ身であれば、
   子等も、岡本家を継ぐ方が幸せであろう。」


と言い、これを快諾した。
そして、誰が誰と・・・と言う事は決めず、久太郎、惣十郎、新助の3人と
照重、九重の2人は、この時、許婚となる事を決められたのであった。
数え年にして、久太郎9歳、惣十郎6歳、新助2歳、
照重と九重も、まだ3歳の時の出来事であった。

それから2年後の天正17年(1589年)11月24日、
遂に正親が待ち望んでいた時がやってくる。
これ以前から、秀吉は、北条氏に何度も上洛要請をし、恭順の意を表す事を促していたが、
最後通牒にも応じなかった事を受け、
秀吉は、いよいよ北条征伐を決意し、全国にその号令を発したのである。
その号令は、間もなく、書状となって塩谷家にも届いた。
そして川崎城で、早速、その対応を協議する評定が行なわれ、正親も出席した。
問題は、那須家の動向。那須家が北条に通じて参陣しなかった場合、
小田原に出陣すれば、留守を襲われ、塩谷氏は領地を奪われる虞があった。
そして、どうも那須家は、小田原に参陣しないらしい情報を義綱は掴んでいた。

義綱「世の趨勢から言えば、関白につくべきなのだろうが、
   那須が動かぬのでは、わしも動けぬ・・・。」


すると正親は、義綱の前に進み出て、こう進言した。

正親「私には、関白殿下(秀吉)との約束があります。
   私が、御館様の名代として小田原に参陣致しまする。」


義綱も、それしかないと思っていた。

義綱「讃岐は、関白のお気に入り。
   塩谷家としても、讃岐を参陣させる事が、
   関白に対する何よりのご奉公となるはずじゃ。」

そして、義綱のその一言で、
正親が塩谷軍の総大将となって小田原に参陣する事が決定された。
那須家が動かないのでは、義綱にもどうしようもなかった。
義綱は、那須家の動向次第で、関白の下に馳せ参じる事になった。
だが、この展開は、正親にとって全てが好都合であった。
正親は、これを機に岡本家を潮焼けから独立させようと考えていたのだ。
そして、その全ての歯車がうまく回っていたのである。
そんな事も知らず義綱は、
この時は、正親を信頼し切ってしまっていた。
いや、信頼していたと言うよりは、
関白と言う雲の上の存在への対応に苦慮していた義綱が、
関白の事は、正親に任せておけば大丈夫だろうと、たかをくくって丸投げしたのだ。
那須家の事もそうだが、義綱は、百姓上がりの関白秀吉を相手にする事を
少し面倒に思っていたのだ。
だが、この義綱の安易な決断が、400年続いた塩谷家を衰退させる事になるのである。

天正18年(1590年)3月、秀吉が小田原に到着し、
4月3日、20万騎を超える大軍が小田原城を包囲した。
その秀吉の下に、義綱から預かった献上馬を引き、
手勢50騎を率いて正親が参陣した。
秀吉は、正親の参陣を大いに喜んだが、
その主君の義綱は、那須氏が最後まで小田原に向かわなかったため、
遂に秀吉の下に参陣する事は無かった。

そして、同年7月5日。
北条氏は、秀吉の軍門に降り、北条氏の当主氏政は切腹。
清四郎と清九郎を討ち取った敵の総大将、氏政嫡子の氏直は、
徳川家康の娘婿であったため切腹は免れ、高野山に追放となった。
こうして関東最大の北条氏は滅亡し、
正親は、清四郎と清九郎の仇を討つ事が出来たのである。

同年7月26日、秀吉は、軍勢を率いて宇都宮城に入城、
その翌日、北関東諸将に対する処分を行なった。
宇都宮家やその家臣たちは、早くに秀吉に恭順し、
小田原にも参陣していたため所領が安堵されたが、
参陣しなかった那須氏は、8万石の所領の内、
1000石のみを残して、全て没収された。
そして正親も、論功行賞の場に呼び出された。

秀吉「讃岐、今回の働き大儀であった。」
正親「勿体無いお言葉・・・。」
秀吉「して、そちは褒美は何が望みじゃ?」
正親「この度、私は
   関白殿下とのお約束を果たすため参陣いたしましたが、
   特にこれと言った武勲を挙げたわけでもありませぬ。
   されば、本領を安堵さえしていただければ充分でごさりまする・・・。」


これを聞いた秀吉は、思わず口元が緩んだ。

秀吉「謙虚よのう。わしの家来たちに、
   讃岐の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいわい。」


そして秀吉は、改めて正親に褒美の内容を問うた。
秀吉が「遠慮などするな」と言うと、正親は、畏れながらと申し上げた。

正親「されば、ひとつだけ、叶えて頂きたき儀がござりまする。」
秀吉「申してみよ。」
正親「されば・・・。」

すると正親は、娘婿義通の現状を秀吉に訴えた。
義通と義綱の関係、義通が義綱によって実質的に軟禁状態にある事など、全てを話した。

正親「義通殿は、もはや塩谷家の家督を望んではいませぬ。
   このような田舎の内輪の揉め事を関白殿下に訴えるなど畏れ多い事にござりまするが、
   どうか関白殿下のご威光で、義通様を助けていただきたいのです。
   孫子を思う愚老の願いにござりまする・・・。」


正親が全てを訴え終えて、秀吉の顔をちらっと見ると、
意外な事に、秀吉は涙ぐんで話を聞いていた。

秀吉「讃岐、そちの家族を思う心には心打たれたぞ。
   この秀吉も、家族があっての秀吉じゃ。
   おね(北政所)、母(大政所)、秀長(弟)たちがおらねば、
   天下どころか、わしは並に立身する事もできなかったであろう。
   讃岐は、2子の上に弟まで失ったと言うに、
   さらに娘婿の不遇を見せられては、さぞや辛かったであろう。
   相分かった。讃岐の処遇については、次のように致す。」


そして秀吉は、その場でそれを言い渡した。

秀吉「讃岐が今、塩谷家より預かる領地の全てをわしが改めて与えて安堵する。
   わしが領地を安堵するのじゃ。この意味分かるな?」
正親「は、ははーっ!! ありがたき幸せ。」

秀吉が正親の領地を安堵するという事は、
すなわち、正親が秀吉の旗本になると言う意味であり、
それは、岡本家が塩谷家から独立する事を意味した。

秀吉「さらに、塩谷義通には、塩谷領より、
   御前原城並びに1000石を切り取り、これを与える。」


義通に与えられたのは、御前原城がある中村と木幡村の2村1000石。
御前原城は、義通の元々の居城であり、木幡村には、塩谷家の氏神となる木幡神社があった。
この処遇は、与えられた領地の数字以上に大きく意義深いものであった・・・

この翌日、秀吉は、さらに北上し大田原城に入った。
正親に対するこの恩賞の話は、川崎城にも伝えられた。

義綱「おのれ讃岐! 謀ったな!!」

これを聞いた義綱は激怒したが、気付いた時には、あとの祭りであった。
塩谷家は、所領安堵のお墨付きを秀吉からもらったが、
それは、岡本家の領地3800石と義通に与えられる1000石を除いた領地であり、
実質的には4800石もの減封となったからだ。

正親(清四郎、清九郎、対馬(氏宗)、見ておるか・・・。)

天正18年(1590年)7月27日、
この日が、岡本家の独立記念日となった。
この日を以て岡本家は、
岡本の人間が、岡本家のために生き、岡本家のために死ねる家になったのである。
正親の祖父重親が塩谷家に仕えて以来、およそ100年後の出来事である・・・

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事