"やいたもん"の文学館

大きな人生の転機がありました・・・

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【写真】正親の荒井の隠居屋敷跡(上)と鏡山寺(下)



慶長2年(1597年)12月、
正親は、清四郎と清九郎の菩提を弔うための寺を建てた。
名は、心月山鏡山寺。
2人の戒名を取り合って名付けたものであった。
さらに正親は、旧居城の松ヶ嶺城を廃城にし、
その土地や建物を菩提寺である慈光寺に寄贈した。
そして、正式に久太郎に家督を譲ると、
自らは、荒井と言うところに隠居屋敷を建て、
綾と共にそこに移り住んだ。
綾は、今度こそと出家を望んだが、
正親は、またそれを許さなかった。

正親「わしが死ぬまでは、出家しないで欲しい。」

ところで、ここ数年、世の中は大きく動きつつあった。
慶長2年(1597年)、正親は、久太郎と惣十郎を連れて上洛し、
3人で久しぶりに秀吉と面会した。
しかし、秀吉には、以前のような覇気はなかった。
それどころか、同年10月7日、
羽柴姓を送るほどお気に入りであったはずの
下野最強の戦国大名家の宇都宮家を改易してしまったのである。
これは、宇都宮家が、豊臣家臣内の政争に敗れた結果とも言われているが、
人々には、老いた秀吉の狂気の沙汰と噂された。

そして、その翌年の慶長3年(1598年)8月18日、その秀吉が62歳で没した。

すると、政情は大きく変化した。
五大老でも筆頭の徳川家が単独行動をとり始め、
諸国の大名がこれに追従した。
この動きを察知した正親は、
嫡男久太郎を連れて、秀吉が没したその年には家康に目通り、
さらに翌年の慶長4年(1599年)には、家康の後継の秀忠と目通りした。
そして、慶長5年(1600年)9月15日、関が原の戦いが勃発すると、
岡本家は、徳川家の旗本として東軍に加わり勝利。
天下泰平の世に家名を残す事となった。

隠居してもなお、正親は、岡本家のために動いていたが、
荒井の隠居屋敷は、そんな激動の世など意にも介さないような穏やかな時間が流れていた。
正親は、秀忠との目通りを終えた後、
今後の事を久太郎に言い含め、後の事を全て久太郎に任せると、
自らは荒井の屋敷に篭り、完全に一線を退いて本格的な隠居生活に入った。
すると正親は、そうするなり、いきなり周囲を唖然とさせる行動に出る。
何と正親は、70歳にして領内の12歳の百姓の娘を側室としたのである。
その娘は、領内でも美しいと評判の娘ではあったが、
家臣や領民たちには色隠居の狂気と揶揄された。
70の老人が、孫や曾孫ほどは慣れている娘を側室にしたとなれば、
そういわれても仕方ないが、正親の真意は別にあった。

正親「娘がいるなら孫娘も欲しい。」

それだけの事だった。
正親は、晩年に武家のそれとは違う温かい家族を望んだのだ。
子と孫と何も考えずにのんびり暮らしたい。
ただ、色好きな性格は否定出来ないので、
どうせ子と孫を作るなら、どちらも女子が良い・・・
そこで、綾と共に暮らし、
綾と母子ほど離れた娘を傍においたのである。
あるポカポカと暖かい日差しが差す昼の屋敷の縁側で、
正親は、綾と茶を飲みながら、綾にこう言った。

正親「綾が城に上がったのも12歳じゃ。
   あの娘を見ていると、その頃の綾を思い出す・・・。」


正親は、本当に嬉しそうで、本当に幸せそうだった。
戦国武将としての面影は微塵もなく、
正親は、村民が100名程度の小さな村の屋敷で、
ボケ色老人の日々を謳歌していたのである。
もう正親には、思い残す事はなくなっていた。
そして・・・

正親「ありがとう・・・綾。」

慶長7年(1602年)8月9日、
正親は、その言葉を辞世にして穏やかにその一生を終えた。
戒名は、千秋院松厳梅屋居士
その亡骸は、遺言により、清四郎と清九郎の眠る鏡山寺に葬られた。
そして、その戒名の内、「千秋」の名が心月山鏡山寺の名に冠された。

正親はこの日、全ての苦しみから解放されたのである・・・

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