"やいたもん"の文学館

大きな人生の転機がありました・・・

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第15話 女の意地

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【写真】松ヶ嶺城と慈光寺のあった山並みと、その背後にそびえる泉の地から西に見える日光の名峰男体山(向かって左の山)



慶長8年(1603年)2月12日、
徳川家康が征夷大将軍並びに源氏長者に任じられると、江戸に幕府が開かれ、
徳川家の旗本の久太郎は江戸詰めになり、
江戸に屋敷を構え、照重と共に移り住んだ。
さらに慶長10年(1605年)、家康は、将軍職を子の秀忠に譲ると、
慶長14年(1609年)、李氏朝鮮と己酉約条を結び講和する一方で、
薩摩(現在の鹿児島県)に琉球出兵を命じ、琉球王国を実質的に服属させた。
そして、キリスト教禁止令などが出され、日本は鎖国へと向かうのである。
こうした外患内憂を排除し、外国勢力を一掃したのも、
全ては豊臣家打倒のためであった。
家康は、こうして10年と言う長い年月をかけ、
豊臣家を滅ぼすための環境を整えていったのである。

一方、岡本家では、嫡男が生まれない事が問題になっていた。
久太郎は、もう30歳代になり、照重と結ばれて10年経っていたが、
子供が出来る気配が全く無かった。

「照重殿は、生めぬ体なのじゃ。」

周囲はそうささやき、照重のいないところで側室を勧める声を上げていた。
久太郎も、照重を妻とも思っておらず、
専ら外で色遊びをし、子作りに励もうとはしなかった。
だが、どんなに久太郎に非があっても、
陰口を叩かれ、悪者にされるのは、常に妻の照重だった。

そんなある日、岡本家に思わぬ縁談が飛び込む。
北下野の名門大田原家から政略結婚の話が舞い込んだのである。
大田原家は、北下野で3家しかない石高1万石以上の大名家であり、
また、北下野3大名家の1家である大関氏を始めとして、
旧那須家出身の大名・旗本・御家人を束ねる家柄であった。
その当主大田原晴清の四女を久太郎に嫁がせたいとの事で、
徳川家と豊臣家の対立が近づく中、
近隣諸将との結びつきを強くしておきたい岡本家にとっては、願ってもない申し出であった。
久太郎は、これを二つ返事で受け入れた。
だが、この後、久太郎は冷酷な決断をする。

久太郎「照重を正室から側室に降格する。」

大田原家から姫を迎えるのに、その姫を側室にするわけにはいかない・・・
そういう事で下された決定だった。
それは、塩谷義孝の妻でありながら、
後に宇都宮家から姫を迎えたために側室にされた久太郎、惣十郎、新助の祖母と同じ運命であった。
この決定に、惣十郎と九重、新助は猛反発した。

惣十郎「照重殿は、兄上が岡本家の正統たる証ぞ!
    それを側室にするなどとんでもない。」


だが、久太郎は、反対する者の意見は全く聞かなかった。
さらに、当の照重自身が黙ったままだった。
照重は、反発もせず久太郎の決定を受け入れ、江戸から泉城に帰ってきてしまったのである。
さらに、正親の死後、出家して慶雲院を名乗り慈光寺に入っていた綾も、
この事に何も言わなかった。
九重は、この2人の姿勢に激怒したが、2人とも押し黙ったままであった。
しかしある日、照重は、密かに綾の下を訪れ、その苦しい胸の内を語った。

照重「私は、跡継ぎを生めなかったのです。
   だから、是非もありません・・・。」


そう言って、照重は、母の胸に抱かれて、
まるで童女のように声を上げて泣いた。
悔しくないわけが無かった。
辛くて悲しくて惨めで・・・
照重は、その思いの全てを母にだけさらしたのだった。
しかし、そんな照重にも光明が降りる。
新助が、久太郎にこんな申し出をしたのである。

新助「照重殿を側室にすると言うなら、俺が正室にしたい。
   俺は、兄上の家臣じゃ。
   当主が、側室を家臣に下げ渡す事はある事。
   清四郎様の娘である照重殿が側室では、
   岡本家正統の面目が立ちませぬ。」


久太郎も、その方が面倒が無いかも知れないと考えた。
大田原家から来る姫は、久太郎とは約20歳も年下である。
そんな照重とも17歳も離れており、
そんな2人を正室、側室と言って傍に置くより、
照重を新助に下げ渡した方が都合は良かった。
また、新助自身が人望が厚かったため、周囲も、新助の行動を支持した。
新助は、久太郎に申し出た後で、照重に結婚を申し込んだ。
照重は、突然の事に戸惑い、一度は首を横に振ったが、

新助「照重殿は、決して子供が埋めぬ体ではない。
   俺の子を生んで欲しい。」


この言葉に照重の心が揺れ動いた。
新助は、本当は、昔から密かに照重の事が好きだった。
しかし、3男と言う立場を弁え、その思いを口にしなかった。
だが、今回の事は、好きだったからこそ、新助は、久太郎の仕打ちを許せなかった。
駄目なのは、照重ではなく、兄の久太郎なのだ。
それを証明せずにはいられなかった。
絶望の淵にいた照重も、
そんな新助の思いに救われた気がし、
最後は、新助の思いを受け入れた・・・

この後、久太郎は、大田原から若い姫を迎え妻とし、
照重は、改めて新助の妻となった。

そして、この勝負の決着はすぐについた。
照重は、新助に嫁いで間もなく懐妊したのである。
それは、久太郎にとっては衝撃の出来事であった。

久太郎(これでは、俺が種無しと言う事になるではないか・・・)

生まれた子は女子であったが、照重は、これを涙して喜んだ。

照重(私は女じゃ・・・子供が生める女じゃ・・・)

だが、この後、産後の肥立ちが悪く、
照重は、間もなく病に倒れた。
そして、慶長19年(1614年)の春、
照重は、本当に幸せそうな笑みを浮かべながら、
新助に看取られ、30年の一生を終えた。

久太郎は、江戸での勤めが忙しい事を理由にして、
慈光寺で行なわれた照重の葬儀には出なかったが、
それは、久太郎の事実上の敗北宣言であった・・・

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