"やいたもん"の文学館

大きな人生の転機がありました・・・

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百観音

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塩原の名刹妙雲寺 
その裏手に百観音と呼ばれる観音様がある
私は、お堂に百の観音様が奉られていて、
それを見るものだと思ってそこに向かった
ところが、百の観音も納められるようなお堂はない
近くにいたお年寄りに話を聞くと、
山を登っていくとあるのだという

にゃ〜んだ、野ざらしで飾ってあるにょか・・・

その日、明らかにテンションを間違えていた私は、
そんな調子で山を登っていった
だが、登り始めるなりそれを後悔する
百観音の意味を知ったからだ


しまったにょぉぉぉぉ〜〜〜〜!!!!!


百観音とは、一ヶ所に集められたものではなく、
山道に等間隔に1体ずつ観音様があって、
百体の観音様を拝みながら頂上に上っていくという
軽い山岳修行の場だったのである

ふにゃぁ〜〜〜〜!!!!

私は、ドラマトリックの山田奈緒子のような雄叫びを上げた
登るんじゃなかった・・・と思った時には後の祭り
途中で引き返したら、逆にバチが当たる気がする

こうなったらテッペン見たろじゃないの

私は登った 運動不足の体に鞭打って登った
でも、くねくねくねくね変わり映えのしない景色の山道を登るのは、精神的にもきつい
しかも、登ったのは夏・・・

ある〜日♪ 森の中♪

熊さん、ハチさん、ヘビさん・・・どれに出会ってもおかしくない状況
すれ違う人もいない やはり夏の真っ只中でここに登る人は少ないのだろう
でも、私のテンションはどんどんおかしくなっていった
いつまでもいつまでも続く観音像 
私は、その1体の観音の前に立ち止まり、睨み付けて言った

お前ら、いくつあれば気が済むんじゃ!?

百だ だから百観音という・・・
そんなパルプンテ状態で、私はようやくテッペンにたどりついた
そこからは、塩原の眺めが一望できた
その眺めは、本当に素晴らしかった
これを見るだけでも登って良かったと、ちょこっと思った
そして、これでもかと言うほど観音様が並び、
その手前には、鳴らすための鐘があった
私は、必要以上に鐘を鳴らした


カーン、カーン、カーン、カーン・・・・

登ったったどぉ〜



もちろん、あのお笑い芸人と同じように
無駄なテンションで私は叫んでいた
ただ、それは聞こえるのは恥ずかしかったので、
その声は、鐘の音に紛れさせた

とにかく登りきった
私の心は達成感に満ちていた
これでご利益がなかったら詐欺だ
私は、そんな事を思いながら山を降りた

んで・・・

ご利益はあった
帰ったら、体重が2kgも減っていた
ビリーズ・ブートキャンプより効果的じゃなかろうか?

皆さんも、塩原に来た時は、百観音を登ってみてはどうだろうか?
ダイエットを希望するなら、夏場に上るのが良いが、
普通に登りたいなら、秋ごろをお勧めする・・・

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所在地・矢板市大字中村
形態・平城
築城者・塩谷頼安
築城年・正和4年(1315年)
廃城年・正保元年(1644年)9月19日

歴代城主
塩谷郡衙時代
堀江(塩谷)左衛門尉頼純(1108年生〜1130年頃?没) 源義親末子
堀江(塩谷)左衛門尉惟純(1130年頃?生〜1178年9月9日?没) 頼純嫡男
堀江(塩谷)左衛門尉惟頼(生没年不詳) 惟純嫡男
堀江(塩谷)左衛門尉正義(生没年不詳) 惟頼嫡男
堀江(塩谷)左衛門尉朝義(生没年不詳) 正義弟
御前原城時代
塩谷頼安(生没年については下で考証)
塩谷伯耆守民部大輔孝綱(1470年5月5日生〜1546年10月19日没)
塩谷安芸守(生没年不詳)
塩谷日向守義通(1547年月日不詳生〜1598年11月1日没)
岡本伊兵衛保真(1582年月日不詳生〜1644年3月10日没)

略年表
大治5年(1130年)
源義親末子堀江頼純、この頃塩谷の地に来て塩谷郡衙(御前原城)に入り、塩谷氏を称す。
しかし、妻弥生の父の上野板鼻城主原左衛門重房により、
武蔵相模の境界上田山にて頼純は殺害され、妻弥生も自害する。
年代不詳
頼純の嫡男月若丸、養父の奥州岩瀬の郡司岩瀬権太夫の後見を得て上洛。
朝廷の許しを得て原左衛門を降伏させ、塩谷郡衙に復帰する。
月若丸元服して惟純を名乗る。      
嘉応元年(1169年)
瑠璃堂縁起に「嘉応元年四月八日八幡君五代公領主にて源惟頼(堀江惟頼)公御代」との記録があり、
この時代が、惟純の子惟頼の時代であった事が確認出来る。
治承2年(1178年)
喜連川塩谷系譜に、惟頼について「治承二年九月九日卒」とあるが、
惟頼は、寿永3年(1184年)1月20日の宇治川合戦に出陣し戦功を挙げ、
文治2年(1186年)3月15日には、木幡大明神を遷宮しこれを氏神としているので、
この没年は、父の惟純のものと思われる。
正和4年(1315年)
堀江塩谷氏が断絶した後、塩谷郡衙は廃れたが、
塩谷頼安が御前原城として改築し、以後塩谷氏の館城(平城)として活用される。
室町後期
塩谷孝綱が隠居し、御前原城を居城とする。
また、その後、孝綱又はその子義孝の養子安芸守が御前原城主となるが、
安芸守については不詳。塩谷系図に「塩谷安房守季綱」の名が見えるが、
この者か、もしくは、塩谷義通が安芸守と思われる。
塩谷義通御前原城主となる。
宇都宮氏家臣書上帳に中村日向守の名が見えるが、これが義通か?
天正18年(1590年)
小田原の陣にて、塩谷義通の母の弟、妻の父である岡本正親に戦功があり、
塩谷義通も、秀吉より1000石を賜り塩谷家を独立。
文禄4年(1595年)
2月8日。塩谷家改易なるも、塩谷義通は領地を安堵され、
そのまま御前原城に居城す。
この頃、義通は、次男岡本保真(塩谷惣十郎)に家督を譲り、保真が城主となる。
慶長3年(1598年)
11月1日。義通没。享年52歳。
正保元年(1644年)
3月10日。泉騒動勃発。保真、甥の岡本義政によって暗殺される。
9月19日。この事件が元で岡本家は改易。世継ぎの無かった御前原塩谷家も断絶。
この時、御前原城廃城となる。
慶応3年(1867年)
2月7日。御前原世直し騒動が勃発。
午前10時「世直し大明神」の旗を押し立てて近郷近在の約150名の百姓が集結し一揆を起こし、
翌2月8日には200名、その後、さらに300名に膨れ上がり、
近隣の富豪を襲い金品を強奪して御前原城に籠城するが、
2月18日、代官望月善一郎率いる100艇以上の鉄砲隊を加えた400騎の軍勢に包囲攻撃され壊滅。
大半は捕縛され、首謀者は八丈島に島流し、軽い者は、百叩きの上で放免になったという。



御前原城の築城年代については、治承寿永年間(1177〜1183年)に塩谷頼純によるとする説と、
正和4年(1315年)に塩谷頼安によるとする説の二つがあるが、
治承寿永年間には、塩谷頼純は生存しておらず、私は、正和4年を支持する。
御前原城には、塩谷郡衙があったとする説があるが、私は、これを支持する。
堀江氏には、堀江山城という居城があり、
各資料に登場する堀江城(堀江の城)とは、この堀江山城の事と思われ、
塩谷郡衙が廃れたところに、正和4年、御前原城が築かれたと考えた方が妥当と考える。
なお、これは偶然ではあるが、現在の栃木県の塩谷庁舎も、
御前原城跡の北西約2kmほどのところ、同じ矢板市内にある。
この一帯は、昔から塩谷郡の支配の中心として適していたのだろう。
特に大きく栄えた町も無く、御前原城のある当地が「中村」と呼ばれるのも、
この考え方を裏付ける状況証拠となるのではないだろうか。
ちなみに、御前原城の御前とは、御前原城の西にある木幡神社の御前という意味である。

問題は、塩谷頼安が誰かという事。塩谷家の系図を見てもこれは確認出来ない。
正和4年(1315年)という年代に注目すると、次の4人のいずれかが塩谷頼安と思われる。

塩谷周防守民部大輔朝定(1257年11月20日生〜1330年5月13日没) 塩谷家10代目
塩谷周防守民部大輔朝世(1279年3月20日生〜1345年10月17日没) 塩谷家11代目朝定嫡男
塩谷三郎左衛門尉朝高(1282年3月11日生〜1331年月日不詳没) 朝世弟
塩谷四郎左衛門尉朝光(1286年3月16日生〜1337年10月九日没) 朝世朝高弟


朝定、朝世が、隠居のために御前原城を築城したと考える事も出来るし、
朝高、朝光のいずれかが分家して独立した時に、御前原城を築城して居城したとも考えられる。
ただ、塩谷朝光は、九州豊後国杵築に領地を得て住み、
その嫡男塩谷朝長が宇都宮姓を名乗り、西国の宇都宮氏の祖となっている。
そう考えると、九州に移住するまで、御前原城を居城にした可能性はあるものの、
朝光の線は薄くなるかも知れない。
ただ、いずれにしても、御前原城は、築城の後、当主の隠居城として使われたようで、
孝綱については、那須記に記録があったので、歴代城主の欄に加えた。

御前原城は、廃城の後、一揆の舞台になり、戦前には飛行場にされた。
但し、飛行場については、御前原城址の北側、
現在の矢板東高校から御前原城の北側までの地域に設置され、
御前原城跡で飛行場になったのは、その北側のごく一部のみだった。
ちなみに、この飛行場については、完成前に空爆を受け、完成を見ずに終戦を迎えた。
この飛行場造りには、小学校の高学年から高校生の男女までも動員されていた。
若い労働力は、皆兵士として戦争で出征していたためやむを得ない事だったが、
当地は、そんな悲しい歴史の舞台でもある。

現在、御前原城は、主郭(本丸)と一部の遺構を残し、
そのほとんどは、全てシャープの工場に変わっている。


※サムネイル左から・・・
仝譱宛蕎襪亮膤(本丸)北側虎口(入り口)。ここから入ると、中に駐車場がある。
 ただ、見てのとおり、かなり狭いので、慣れない人だと、車で入るのは怖いかも知れない。
御前原城址の石碑。
8譱宛蕎誑の説明書き。ただ、かなり古くなっている。
じ譱宛蕎觴膤埃囲を囲む空堀。
ゼ膤堝睇堯0貳未粒惺擦旅残輅造澆帽く、ゲートボールなどを楽しめ憩いの場になっている。
Υ蔽韻文譱宛蕎襪瞭貭イ蠖沺しかし、在りし日の姿であって、
 現在は、この図のようには、遺構は残っていない。
Ъ膤埣羆にある"はしか地蔵"を奉る地蔵堂。
┝膤堝鄲Δ慮弩。
南側虎口を外に出ると、堀を挟んで、もうひとつの曲輪の遺構があった。
主郭西側の虎口。東側にも、虎口があったかも知れない微妙な土塁上の凹みがあったが、
 こちらについては、虎口とは断言出来ない。
 土橋が作られていたのは、北側の虎口だけで、こちらが大手であり、
 残りの虎口には木橋がかかっていたものと思われる。
北西側より、御前原城を望む。

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