"やいたもん"の文学館

大きな人生の転機がありました・・・

矢板の「夢の跡」

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栃木県矢板市の城跡、古戦場、寺跡など、
主に武士(もののふ)たちの夢の跡を中心に、
旧跡名所を紹介していきます。
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所在地・矢板市乙畑字要害
形態・山城
築城者・塩谷三河守(弥五郎)惟純?
築城年・明応文亀年間(1501年)
廃城年・天正18年(1590年)8月30日

歴代城主
塩谷兵部大夫惟朝(生年月日不詳〜1563年4月7日没)
小幡(乙畑・塩谷)甲斐守義尾(1509年9月11日生〜1559年10月没)
小幡(乙畑・塩谷)右近大夫義勝(生没年不詳)
小幡(乙畑・塩谷)孫七高升(生没年不詳)

略年表
明応文亀年間(1501年)
乙畑城(小幡城)が、喜連川塩谷氏によって築城される。
ちなみに、時の喜連川塩谷氏当主は、
塩谷三河守惟純(生年月日不詳〜1504年6月24日没)である。
大永2年(1522年)
惟純の孫の塩谷兵部大夫惟朝が乙畑城に篭り、
4月15日の戦を始めとして、宇都宮氏、川崎塩谷氏、大宮氏、君嶋氏などと戦う。
大永3年(1523年)
11月7日。喜連川塩谷氏は、宇都宮氏、川崎塩谷氏と和睦し、
小幡城は、川崎塩谷氏の出城となる。
永禄2年(1559年)
10月。乙畑城、結城晴朝の軍勢に包囲される。
援軍、民衆も合わせて3000騎もが籠城するも、総大将塩谷義尾(乙畑孫四郎)が討死して落城。
天正13年(1585年)
7月13日。那須資晴、乙畑城を攻め、
時の城主、小幡孫七高升は、嫡子太郎行安を人質に差し出して降伏する。
乙畑城は、喜連川塩谷氏に属す。
天正18年(1590年)
8月晦日(30日)。喜連川塩谷氏改易。乙畑城も廃城となる。



乙畑城については、郷土史研究家の故土屋喜四郎氏の研究により、
矢板市の城の中では、その研究が大きく進んでいる。
資料も比較的豊富なのだが、
ただ、そのために矢板市史などには、
明らかに誤解又は間違いの記述が多く、これは正さなければならない。
例えば、乙畑城の研究資料としては第一級と言える塩谷義上預ヶ状だ。
塩谷義上とは、塩谷安房守孝信の事であり、
兄の義孝を殺して川崎城を奪った喜連川城主である。
預ヶ状は、この孝信が、乙畑城の内紛に乗じて、
乙畑城に援軍を送るべく、その内容を乙畑城に書き送った書状である。
当時の喜連川塩谷氏の戦力やその時代の事実関係を知る資料として
矢板市史などで、大きく引用された現存する書状なのだが、
この内容は、かなりデタラメである。

まず、この書状は、天正18年(1590年)11月16日付で送られている。
送った相手は、時の乙畑城主小幡右近大夫義勝なのだが、
まず、天正13年(1585年)の時点で、乙畑城主は、
義勝の弟の小幡孫七高升に変わっているのに、
天正18年の時点で、小幡義勝か城主であるはずはない。
また、送った張本人である塩谷孝信だが、
天正14年(1586年)2月2日に没しているのだ。
天正18年に書状など出せようはずが無い。
ならば、塩谷義上は、孝信ではなく、孝信の子塩谷安房守朝孝ではとの反論があるかも知れないが、
そもそも、天正18年(1590年)8月晦日に喜連川塩谷氏が改易されているのに、
こんな書状を出せるわけが無いのである。
ところが、矢板市史などでは、これが歴史的資料として、
誤解を正さないまま掲載されている。
私は、この書状は、天正10年か天正8年の日付だったものが、
後に何らかの事由で天正18年に書き換えられたものと見ているが、
とにかく、矢板の郷土史を研究する人はそうはいないと思うが、
その初心者が、この資料に触れてしまった場合、
これを鵜呑みにして、矢板の歴史を誤解してしまう恐れがある。
これらの事は何とかしなければならない。

乙畑城は、永禄2年(1559年)に結城晴朝に攻められ落城している。
この時、乙畑城記によれば、総大将の乙畑(小幡)孫四郎が討死にしているが、
これを塩谷甲斐守義尾としているのは、
私の推測であるので、その点は鵜呑みにせず留意して欲しい。
乙畑城記には、乙畑孫四郎と乙畑信濃守の2人が登場するのだが、
これが誰なのか、はっきり言って分からない。
だが、小幡義勝と小幡高升の父である義尾が乙畑孫四郎、
小幡義勝、あるいは、その兄である小幡弾正が乙畑信濃守と私は見ている。
そう考えると、年代と系図的につじつまが合うからだ。
また、秋田塩谷系譜(川崎塩谷氏)を見ると、塩谷義孝と嫡子義綱の間に、
本来は存在しないはずの時綱、冬綱、通綱の3人の塩谷当主が存在する。
私は、この内、時綱が塩谷義尾であると見ている。
小幡孫四郎は、永禄2年に討死しているが、
塩谷時綱も、系図では永禄2年に没している事になっており、
没年が一致するからだ。
ちなみに塩谷義尾は、義孝の次弟であり、
小幡氏の養子となって乙畑城主となっている。
月日こそ、孫四郎が10月、時綱は3月8日と一致しないが、
私は、時綱、冬綱、通綱の3人は、
塩谷家(川崎塩谷氏)に功績のあった一族に対して、
諡号的に塩谷当主の名誉が追贈されて系図に加えられたものと見ており、
時綱は、義尾に対するそれであると考えている。
現に、秋田塩谷系譜には義尾の名が無い。

その乙畑城だが、深い藪に包まれていることを除けば、
主郭周辺について、遺構がよく残っている。



※サムネイル左から・・・
_吉城主郭東側の堀切。三つの堀切が連続して続いている。
 乙畑城を攻める場合、主郭に迫るには、東側から攻めるのが最短距離だが、
 東側は斜面が急で、尾根に達しても、深い堀切が連続して続いているため、
 こちらから攻めるには、かなりの犠牲を覚悟して、数で攻めるほかない。
⊆膤埃蠢阿遼拈擇茲蠎膤圓鮓上げる。
 主郭手前の堀切は、幅10m強、深さ10m弱と最も深い。
主郭。ここに、城主の館があったと思われる。
ぜ膤埓沼Δ龍蔑悄1に、横堀も兼ねた二の郭と繋ぐ虎口がある。
 他にも曲輪や堀があって写真を撮ったが、なにせ藪が深く、
 撮った写真も、藪だらけで、何が何だか分からない感じになってしまった。
ゼ膤圓療貽醢爾砲△觀野神社。創建は、城の築城より遥かに古く、
 弘仁15年(824年)3月15日である。
 もっとも、弘仁15年は、1月5日に天長元年に改元されているので、
 厳密には、天長元年とする方が正しいだろう。
Σ吉城から少し離れたところに、馬場跡とされる乙畑小学校があるが、
 乙畑城築城以前から、当地には小幡氏という土豪がいたので、
 私は、馬場跡と考えるより、乙畑城以前の小幡氏の居館跡と考える方が良いと考えている。
 その詳細は、別記で説明したい。
Р吉城遠望。

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所在地・矢板市字大槻藤倉山
形態・山城
築城者・小幡孫四郎?
築城年・永禄2年(1559年)?
廃城年・永禄2年(1559年)又は天正18年(1590年)

歴代城主
大槻主膳(生没年不詳)

略年表
永禄2年(1559年)
10月、結城晴朝の乙畑城(小幡城)侵攻に伴い、陣城として築城されたと推定される。
戦が終わると共に廃城になった可能性が大きい。
天正18年(1590年)
結城氏による乙畑城攻めの後も、見張り台、狼煙代などとして利用され、
大槻を支配していた喜連川塩谷氏の改易と共に廃城になった可能性もある。
その後、明治2年(1869年)まで、日枝神社が置かれていた。



矢板市の遺跡地図に藤倉山城跡が紹介されている。
当地に赴くと、藤倉山の山頂に、北側に堀切、東西に横堀、南を崖とする
小さな単郭の曲輪跡があった。
城跡と言っても、小さな館をやっとひとつ建てられる程度の広さで、
見張り台や狼煙台などとして利用されたであろうと想像させる。
ただ、曲輪内は、概ね平らなものの、未整地と言ってよい。
そんな状況から推察して、当地は、結城晴朝が乙畑城を包囲した際、
乙畑城側によって築かれた陣城であると思われる。
この攻防戦では、乙畑城は、城と周辺の山々に、
兵だけでなく住民も集めて3000余騎も籠城させたにも関わらず、
総大将小幡(乙畑)孫四郎の討死によって落城している。

藤倉山城は、戦が終わると共に廃城となったと思われるが、
宇都宮家の家臣の記録によれば、大槻主膳の名が見え、
大槻に大槻氏という土豪がいた可能性があり、
その土豪が、戦の後も当城を見張り台などとして利用していた可能性がある。
しかしその場合でも、天正18年(1590年)、大槻を支配していた喜連川塩谷氏が
豊臣秀吉に改易されると共に、城も廃されたと思われる。



※サムネイル左から・・・
‘A匯馨訶貘Δ硫K戞
藤倉山城北側の堀切。
FA匯馨訐沼Δ硫K戞
てA匯馨觴膤圈
テA匯馨襪力爾砲△詁枝神社。
 明治2年(1869年)までは、藤倉山城の主郭内にあった。
 この場所も曲輪のようになっているので、
 あるいは、大槻一族の館もこの辺にあったものかも知れない。
神社の傍らに数基の五輪塔の残骸があった。
 おそらく、結城勢との戦いで討死した者を供養するものだろう。
藤倉山城全景。

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【城跡】 岡城

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所在地・片岡字城山
形態・山城
築城者・岡四郎兼春
築城年・平安末期
廃城年・文禄4年(1595年)2月8日

歴代城主
岡四郎兼春(生没年不詳・平安末期〜鎌倉初期)
岡民部兼貞(生没年不詳・戦国末期)

略年表
平安末期
堀江氏(源姓塩谷氏)家臣岡四郎兼春によって、鳴神山に築城される。
天正13年(1585年)
7月13日夜巳の刻。那須勢による小幡城(乙畑城)攻めの際、
岡城が援軍に出るも、小幡城落城。
文禄4年(1595年)
2月8日。主君の塩谷氏の改易と共に廃城となる。



岡城の素性ははっきりしている。
源姓塩谷氏の堀江氏家臣岡四郎兼春が平安末期に築城して当地の土豪となって以来、
代々、岡氏の居城となっていた。
城は、鳴神山、通称城山(しろやま・じょうやま・どうやま)と呼ばれる
山というよりは、小高い岡の上に築かれ、
塩谷氏の居城である川崎城から東南方向に伸びる尾根の東端にあり、
川崎城の東にある喜連川塩谷氏の居城である
倉ヶ崎城(喜連川城・大倉ヶ崎城)との中間に川崎城を守るように位置する。
矢板市史では、城というより砦のようなものとしているが、
岡城は、典型的な土豪の城であり、規模もその程度である。

岡城のある片岡の地は、古くから栄えた地で、
奈良時代においては「塩谷郡片岡郷五十戸」が東大寺領となっていた。
岡城が築かれた鳴神山には、古墳時代の集落跡や糠塚古墳群があり、
岡氏の支配の始まる以前から城山は、
当地の支配者の拠点であったと考えられる。
その支配者が、岡氏の前身であった可能性も高い。

岡氏は、古文書などの資料によっては、
「前岡氏」や「岡山氏」などと記されている事がある。
これは、岡村(片岡)が、地域として前岡・後岡と分かれているためで、
岡氏が前岡氏と呼ばれるのは、そちらの地域の出自によるものなのだろう。
ちなみに「岡山氏」というのは、那須記に登場するものだが、
完全な誤記であろうと思われる。

城郭は、典型的な連郭式で、東から腰曲輪、主郭、二の郭・・・と続く。
城の南側を西から東に流れる江川を天然の水堀とし、
現存はしていないが、東側にあった空堀には、城山の下を抜ける地下道もあったと言われる。
岡城は、そこで敵を食い止めるというよりは、
敵の侵攻などを連絡中継し、出撃した味方の軍勢の拠点となり、
攻められた時は、一時的に食い止め、時間稼ぎをする程度の城であったと見てよい。
記録には無いが、那須勢などの外敵に攻められて落城した事も度々あっただろう。

城主として名前が確認出来るのは、築城者の岡四郎兼春と
最後の城主であったと思われる岡民部兼貞(兼定)のみである。
それ以外の歴代城主などの記録は確認出来ず、
また、その詳細な歴史も不詳である。
現在、主郭東側の腰曲輪跡は、城山霊園という墓地になっている。



※サムネイル左から・・・
_城主郭跡。
⊆膤堙貘Δ旅曲輪。
 余談だが、最近、専門家とか呼ばれる人でも、腰曲輪と帯曲輪の区別が出来ない人がいる。
 天守閣も石垣もある公園として整備も行き届いた某城跡に行ったが、
 明らかに腰曲輪であるのに、帯曲輪と説明されていて驚いた。
 私も他人の事を言えるほど知識があるわけではないが、
 初心者レベルでも分かるような事を公に間違えているのに、
 それに気付かないとは、いったいどういう人が城の説明を構成したのだろうか?
 専門家のいう事でも鵜呑みには出来ない・・・そう思う出来事だった。
城山霊園の看板。このあたりに、地下道の入り口があったと言われるが・・・
げ城全景。

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所在地・矢板市大字下伊佐野小字堀之内
形態・山城
築城者・不詳
築城年・不詳
廃城年・天正18年(1590年)

歴代城主
戦国末期
鈴木右京(生没年不詳)
鈴木内記介(生没年不詳)?
幕府領時代(1644年〜1685年)
関口作兵衛(生没年不詳)
松本数馬(生没年不詳)
樋口五兵衛(生没年不詳)
那須遠江守資祇(1665年〜1678年)※年代は統治期間
松平五兵衛(生没年不詳)
牧野備後守(生没年不詳)
樋口又兵衛(生没年不詳)
都築長右衛門(生没年不詳)

略年表
天正13年(1585年)
1月14日。那須資晴が塩谷領の和泉(泉)、伊佐野、田野原、金沢を焼き払う。
この時、伊佐野城も戦場になったものと思われる。
天正18年(1590年)
7月。小田原の陣の功績により、伊佐野は、塩谷領から岡本領となる。
これにより、城は廃城となる。



伊佐野城に関する記録は、ほとんどないと言って良い。
当地には、陽輝山持宝院という寺があり、
城跡の一部は、現持宝院の移転以前の寺の跡でもあるのだが、
この伊佐野城に関する記録を持っていたであろう寺は、
正徳3年(1713年)に火災に遭い、その記録をほとんど失い、
寺の開山すら後世に伝わっていない状態であり、
そのために、古文書などから、伊佐野城の歴史を探る事は出来ない。

ただ、幸いな事に、当地には、城跡の遺構が残っているので、
城の存在を疑う余地はない。
もっとも、城跡の遺構とは言っても、作りはかなり簡素だ。
東向きの山の斜面を段々にし、最も高い主郭のみを堀切で寸断し防御性を確保している。
主郭の南側の山腹には、馬蹄形の館城が置かれたような地形があるが、
おそらくそこが、移転以前の持宝院の跡であろう。
伊佐野城の面積も、東西南北100mの枠の中に収まる程度で、
大雑把には、田舎の大きな屋敷を山に築いた程度と考えてもらえばいい。
伊佐野は、面積こそ広いものの、昔から人はそれほど多くなく、
石高も上下合わせて500石ほどであった。
軍勢で言えば、10〜15騎を率いる程度の領地であり、
伊佐野城は、伊佐野一郷を支配する典型的な土豪の城である。
ただ、北の鳩ヶ森城(宇都野城)と南の川崎城を連絡する戦略的に重要な位置にはあった。

伊佐野城は、岡本領となった時に廃城になるが、
正保元年(1644年)9月19日に岡本家が改易となると幕府領(旗本領)となり、
伊佐野城は、代官所として使われ、歴代の代官が在住する。
貞享2年(1685年)からは、伊佐野のほとんどは旗本平岡美濃守家の所領となり、
明治2年(1869年)までその支配が続いた。
おそらく、その間も、伊佐野城は、当地の支配の中心であったろうと思われる。
そして明治時代、当地に関谷鷹枝という別当が住んだ事で、
現在、城跡は「タカエ(又はタカイ)様」と呼ばれている。
但し、これは字名ではない。

伊佐野城の城主については、鈴木右京の名が伝わっているが、
塩谷氏時代末期の武将であるというだけで、
塩谷氏の直接の家臣なのか、塩谷氏の配下の山本氏の家臣なのか、
その人物像や生い立ち、一門の出自などは一切分からない。
しかし、塩谷伯耆守実録という書物のおそらく孝綱の時代であろう記述の中に、
伊佐野右京之介の名が見えるため、
おそらくこれが鈴木右京であり、伊佐野姓を名乗っていたところを見ると、
鈴木氏の出自は、朝鮮半島の百済の近肖古王の孫憶頼福留(おらふる)を祖とする
石野連(いさのむらじ)の子孫であり、
天平宝字5年(761年)に朝廷より石野連の姓を賜った
伊佐野の東を流れる箒川などの砂鉄で製鉄をしていた41人の百済人の内、
その子孫の1人が伊佐野に土着し、鈴木姓を名乗り、城を築いたものかも知れない。
そう考えると、伊佐野城の歴史は、かなり古いのかも知れないが、
その推理を裏付けられる証拠は何もない。

なお、持宝院は、昔鈴木氏の菩提寺であったろうと思われるが、
その墓や記録は全く残っていない。
ただ、下伊佐野の公民館の敷地などに五輪塔の残骸が散在しており、
これらが、鈴木一族の墓だった可能性がある。

ちなみに、堀内館は「ほんのうちやかた」と読む。
また、鈴木内記介は、天正13年(1585年)3月の薄葉合戦において、
塩谷方の武将として登場する者である。
単に鈴木右京と同姓であるという理由だけで当時の伊佐野城主と推定したが、
当時、塩谷氏の配下で鈴木姓を名乗っていたのは、
私が確認する限り伊佐野城主一族しかなく、
おそらく、鈴木内記介も、鈴木右京の一族であり、
名が残っている事を考えると、当時の伊佐野城主の可能性が高いと思われる。



※サムネイル左から・・・
^忘缶郛襪遼迷Δ砲△觧宝院の山門。
 松ヶ嶺城の南側にあった同じ真言宗の寺小松山慶雲院慈光寺の山門を移築したもの。
 ちなみに、慈光寺は元和2年(1616年)に廃寺となっている。
∋殻舅討砲△詆玄院
説明書きや資料の中には、この山門が松ヶ嶺城の城門を移したものと
 勘違いしている記述や勘違いさせるような記述をしているものがあるが、
 この山門は、慈光寺の山門の移築であって、城門を移築したものではない。
ぐ忘缶郛襪慮弩(こぐち・城の入り口)。
ゾ襪亮膤(本丸)の南側にある移転以前の持宝院の跡と推定される場所。
持宝院の跡の思われる場所より、北に向かって主郭(本丸)を望む。
О忘缶郛觴膤埓廖
┝膤堽⊆蠅遼拈擇鯔迷Δ亮侈模爾茲蠍上げる。
 分かりずらいかも知れないが、さすがに竪堀とは呼べないが、
 堀切が続くように斜面まで溝が続いている事が分かる。
 もちろん、堀切はもっと深い。
伊佐野城遠望。東側より望む。

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所在地・矢板市館の川字北久保65
形態・平山城
築城者・堀江(塩谷)左衛門尉頼純
築城年・大治5年(1130年)頃?
廃城年・文禄4年(1595年)2月8日

歴代城主
平安末期〜鎌倉初頭
堀江(塩谷)左衛門尉頼純(1108年生〜1130年頃?没) 源義親末子
堀江(塩谷)左衛門尉惟純(1130年頃?生〜1178年9月9日?没) 頼純嫡男
堀江(塩谷)左衛門尉惟頼(生没年不詳) 惟純嫡男
堀江(塩谷)左衛門尉正義(生没年不詳) 惟頼嫡男
堀江(塩谷)左衛門尉朝義(生没年不詳) 正義弟
塩谷周防守民部大輔朝業(1174年1月24日生〜1248年10月7日没) 朝義養子
岡本備前守(生没年不詳)
戦国時代
岡本大隈守道家(生没年不詳)
岡本清五郎(生没年不詳)

略年表
大治5年(1130年)頃
堀江左衛門尉頼純、この頃塩谷の地に来て塩谷姓を創始し、
居城として堀江城を築城したと思われる。
但し、この頃の城は、山城ではなく、
山地の奥まった谷間に、背後の山を天然の防壁として、
前面に堀などの防御設備を整える馬蹄形の館城であったと思われる。
しかし、その後、頼純が義父原左衛門尉重房に討たれると、
堀江城は、一時廃城となる。
さらにその後、頼純の子惟純が復帰して城も再建される。
それに伴い、詰め城としての山城部が築かれたと思われる。
正治建仁年間(1199〜1203年)
堀江氏五代断絶後、その家督を継いだ塩谷朝業は、
堀江城の北側に新たに居城川崎城を築き移る。
この時より、堀江城は、塩谷家の居城から支城となる。
永禄2年(1559年)
10月、結城晴朝の軍勢が川崎城を包囲。
乙畑城記の記述によれば、最低でも5〜6日包囲しており、
堀江山城も戦場になったと思われる。
文禄4年(1595年)
2月8日、塩谷家改易。
これと共に堀江山城も廃城となる。


堀江山城については、本当に記録が少ないが、
現地には、城跡の確かな遺構と「根小屋」の字名など、
城跡を示す物的または状況証拠が多数残っている。
堀江山の名の通り、当地は、堀江氏五代の居城であったが、
川崎城が築城されると、その支城となる。

堀江山城を直接記述する資料はほとんどなく、
その詳細な歴史については不明だが、
塩谷伯耆守孝綱家臣の記録に根小屋城代として
岡本大隈、岡本備前、岡本清五郎の名が残る。
この「根小屋城」については、同じく根小屋の地名が残る山田城とする見解があるが、
山田城は、代々山田氏の城であり、
この根小屋城は、堀江山城と考えるのが妥当である。
また、その城主(城代)についてだが、
岡本大隈については、岡本大隈守道家の名で、
天正7年(1579年)正月28日付と同年2月5日付の書状が残っているので、
この時代に活躍したものと思われる。

問題は、岡本備前だ。
岡本備前と言えば、13世紀頃、沢村城代となり那須方に寝返った岡本備前守がいるが、
私は、これと同一人物であると考える。
孝綱の家臣とあり、孝綱は、天文15年(1546年)に没しているが、
それよりも後の時代に活躍したであろう岡本大隈が
家臣として記述されているところを見ると、
孝綱に限らず、塩谷家臣を記述した可能性が大きく、
また、岡本備前守は、塩谷家からすれば謀反人であり、
後世、塩谷家家臣の内、特に岡本姓を名乗る者が、
謀反人の名である備前守を名乗ったとは考え難く、
岡本備前は、沢村城代となった岡本備前守であり、
沢村城代となる前に、堀江山(根小屋)城代であったものと思われる。

岡本清五郎については不明だが、
ただ、「清」の字をつけているところから見ると、
岡本大隈、岡本備前とは別系譜の岡本氏、
すなわち清党岡本氏(清原氏を祖とする岡本氏)の系譜の者であると考えられる。
また、松ヶ嶺城主岡本讃岐守正親の嫡男が清三郎を名乗り、
この清三郎については、その名を清四郎などと記録する書物もあるので、
あるいは、この清三郎、
すなわち岡本清三郎照富(1564年月日不詳生〜1584年5月7日没)の事で、
元服して間もない清三郎が一時期堀江山城代を勤めたものが、
岡本清五郎として残ったものかも知れない。

堀江山城には廃城後、その山城部の山頂の主郭に愛宕神社が築かれ信仰されたが、
明治30年代に神社も、近くの別の神社に合祀されたものか、廃社となっている。



※サムネイル左から・・・
‥貘Δら堀江山城の山城部を望む。(冬撮影)
∨拗昌馨襪龍蔑悄
K拗昌馨襪龍堀。
に拗昌馨襪亮膤埃蠢阿遼拈廖
ニ拗昌馨觴膤圈
主郭の真ん中に石鳥居の頭の部分が放置されていた。
 愛宕神社が明治30年代にその役目を終えて以降、
 約100年もこのままなのだろう。
 近くの神社に奉納するなどして供養した方が良いのではないだろうか?
Щ劃困亮膤圓茲蝓東の景色を望む。真ん中に見える山は木幡神社。
堀江山城の山城部の西側に根小屋の字名が残る。
 ここがそうであり、ここに居住の館などが築かれていた。
 ちなみに、山の手前を走るのは東北自動車道である。
堀江山城と川崎城を分ける境界上にある細道。
 奥の山の中には、境界を定める堀切もある。
東側より、堀江山城の山城部を望む。
 ちなみに、この写真は夏場に撮影。
 山城内部の写真は、冬場の撮影のものである。

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