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大きな人生の転機がありました・・・

泉物語(完結)

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私の郷土の昔話です・・・
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第17話 弥太郎

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綾が逝くと、久太郎は、
存立が難しくなった慈光寺を廃寺にするように命じた。
惣十郎は存続させようとしたが、
久太郎は、惣十郎の意見も聞かずに勝手に廃寺にしてしまったのである。
しかも、慈光寺にあった岡本家代々の墓は全て廃墓にされ、
墓石などは、一部は周囲の仏堂や神社、墓地の敷地に移され、
一部は容赦なく破棄された。

久太郎「正親公の先代の正重公は、すでに50回忌を終えている。
    菩提は、岡本家先祖代々の霊として奉ればよく、
    個別の墓や菩提はもう必要ない。」


しかし惣十郎は猛反発した。
そこで惣十郎は、慈光寺に代わる寺として曲渕山瑞雲院を建立した。
瑞雲院は、父義通が昔幽閉されていた屋敷を改装したもので、
久太郎、惣十郎、新助が幼少期を過ごした場所であり、
惣十郎が14歳の時に建立した薬師堂もあった。
惣十郎は、時の鏡山寺住職照嶺呑鏡の協力を得て、
久太郎に何の相談もせずに開山した。
これには久太郎が激怒した。
まるで、あてつけのような開山だったからだ。
まずは名前。瑞雲院の名が、慈光寺の慶雲院からもじったものである事は明白であった。
また、その寺の場所は、泉城の北側であり、
久太郎が破棄した岡本家先祖代々の菩提も瑞雲院に移されていたのである。
久太郎は、早速この寺を潰そうとしたが、
だが、惣十郎は、こう反論した。

惣十郎「瑞雲院は、塩谷家の菩提寺である。
    兄上にどうこう言われる筋合いはない。」


実際、瑞雲院では、義通公の菩提も弔われていた。
そして、照嶺呑鏡までも久太郎を諌めると、
久太郎は、渋々ながら怒りの矛を収めるしかなかった。
ただ、遺恨は残した・・・


この翌年の元和3年(1617年)。
その久太郎に、待望の嫡男弥太郎が誕生した。
久太郎は、跡継ぎの誕生を喜び、
目の中に入れても痛くないほど大切に過保護に育てた。
そのせいか、この弥太郎は、わがままな子供に育っていく。
それは、わがままと言う事では先達のはずの久太郎でさえ手を焼くほどで、
多くの家臣や女中、領民たちが弥太郎のわがままに泣かされてきた。
いや、泣かされるだけならまだしも、
刀の稽古と称しては、真剣を振り回して時に家臣や領民の命が奪われる事もあった。
さらに弥太郎は、元服間近になると、
色遊びを覚え、女中や家臣領民の娘をてごめにする事もしばしばあった。
これには久太郎も激怒し、弥太郎を謹慎させるなどして改心させたが、
その改心も、元服をつつがなく終えるために弥太郎がおとなしくしていたまでで、
元服を終え、内蔵助義政を名乗ると、
義政(弥太郎)は、再び久太郎に隠れて色遊びを始めた。

久太郎「あいつは、正親公の生まれ変わりか?
    わしも色遊びはしたが、もう少し節操があった・・・。」


息子も息子なら親も親。
かつて照重を苦しめた自分の色遊びの事は棚に上げるような親の下、
義政は、さらにわがままに育っていった。

全ては、ここから始まっていたと言っても良い・・・

第16話 綾の死

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【写真】松小屋の箒根神社を右下に高原山を臨む(上) 瑞雲院(下)



慶長19年(1614年)10月、
遂に徳川家康が豊臣征伐を決意し、大阪の陣が勃発した。
久太郎も、惣十郎、新助を引き連れ出陣し、
翌慶長20年(1615年)4月の大阪夏の陣では、
久太郎たちは、31もの首を挙げる活躍を見せた。
同年5月7日、大阪城は炎上、
翌5月8日、豊臣家一門が自害して、豊臣家は滅亡した。
岡本家は、この活躍により500石の加増を受け、総高が約4400石弱になったが、
岡本家の領地よりも離れた場所にある飛び地であったため、
この500石の領地は新助が支配する事になった。
そして、同年7月13日、
徳川家康は、元和偃武(げんなえんぶ)を宣言し、
年号は、慶長から元和に改められた。
元和偃武は、織田信長が掲げた天下布武に対する言葉で、
「平和が元(はじ)まり、武力を偃(ふ)せる」
と言う意味があった。

だが、この頃、綾が病に倒れた。
惣十郎、新助、九重が見舞いに慈光寺に駆けつけたが、
久太郎と妻の大田原御前は、江戸で忙しい事を理由に見舞いにも来なかった。
ただ、惣十郎も新助も九重も、久太郎夫婦に何も期待しておらず、
むしろ、いない方がせいせいするという感じにさえなっていた。
そんな3人に、綾は、ひとつだけ遺言を託した。

「私が死ねば、この慈光寺は、寺を維持できないでしょう。
  しかしここは、岡本家先祖代々の菩提寺。
  簡単に潰してなりませぬ。
  この寺の後の事をよろしくお願いします・・・。」


慈光寺は、岡本家の居城が泉城に移されると共に松小屋からは人が離れ、
檀家は、新しい菩提寺である鏡山寺に移ってしまい、
すでに経済的に存立が成り立たなくなっていた。
綾がいたからこそ寺は維持出来たが、綾が亡くなったら寺は維持出来ない。
しかし、慈光寺には、岡本家代々の菩提がある。
人間五十年といわれた時代に、綾ももう52歳となり、
その死期を悟った綾の最後の望みが、それを守る事だった。
それが、綾が最後に出来る、
自分をここまでにしてくれた岡本家に対する最後の奉公であった。

そして・・・元和元年(1615年)12月23日。
雪がしんしんと降る底冷えするような寒い夜。
綾は、いつものように床につき、久しぶりに夢を見た。
最近は、とまらない咳と胸の痛みに苦しみ、
満足に寝る事も出来なかったが、
その日は、咳も痛みも無く落ち着いていた。
こんな穏やかに眠れるのは、いつ以来だろう・・・
そんな安堵感は、夢になって現れた。
体が楽になった綾は、久しぶり松ヶ嶺の城を出て、
城下の松小屋を歩いた。
雪も無い、冬なのに暖かい、晴れ渡る空、賑やかな町並み・・・
そんな城下に響くひづめの音。
通りの置くから、馬に乗った若かりし頃の清四郎が駆けてきた。

清四郎「綾!!!」

懐かしい風景に響く懐かしい声。
気がつくと、綾も、人生のうちで一番楽しかった頃の自分に戻っていた。

清四郎「乗れ!!」
  綾「はい!」

松小屋の人々が羨望の眼差しで見つめる中、
清四郎は、綾を乗せて馬を走らせた。
忘れかけていた風を切る感触、
弾む体、背中に感じる大きくて心地良いぬくもり・・・
2人を乗せた馬は、領内の村や野山を駆け抜け、
やがて、ぐるっと一周して、松小屋の箒根神社に戻ってきた。
そこで馬を降り、2人で参拝すると清四郎は言った。

清四郎「覚えてるか? ここで出会った夜の事を・・・」

絶対に忘れられない清四郎の言葉と、その時の清四郎の目。
それを思い出すと、綾の体は今でも熱くなった。
私が私で生まれて良かった・・・そう思えた。
そして、清四郎は指差した。
それは、泉の名峰高原山であった。

清四郎「綾、行こう。」

すると綾も、そっちへ行きたくなった。
そっちへ行けば、世の中の全て不安、苦しみ、悲しみが忘れられるような気がした。
清四郎とずっと一緒にいられる・・・そんな幸せな世界が待っている気がした。
清四郎は、温かい表情で笑っていた。
それを見た綾の心は、今までに感じた事が無いくらいに安心していた。
そして、清四郎が馬に誘うと、綾は清四郎の前で馬に乗った。
振り返れば、松小屋の町並みとお城が見える。
自分が幼い頃暮らした百姓屋も・・・
綾は、心の中でつぶやいていた。

(みんな、ありがとう・・・)

綾は、口許を緩ませながらも、景色が込み上げてくるもので歪んでいた。

清四郎「行くぞ、綾!!」
  綾「はい。清四郎様・・・」

そして綾は、その夢から、もう二度と目覚める事は無かった・・・

翌朝、綾は、病床で穏やかな笑みを浮かべて亡くなっていた。
享年52歳。
松小屋と言う故郷に生まれ、その故郷で土になる・・・
そんな人として一番幸せな一生を綾は終えた。


年が明けて元和2年(1616年)、慈光寺は廃寺となる。
しかし、惣十郎は、綾の遺言を守るため、
慈光寺の菩提を引き継ぐために泉城下に新たな寺を建てた。
その名も曲渕山瑞雲院。
だが、これが新たな争いの火種となるのである・・・

第15話 女の意地

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【写真】松ヶ嶺城と慈光寺のあった山並みと、その背後にそびえる泉の地から西に見える日光の名峰男体山(向かって左の山)



慶長8年(1603年)2月12日、
徳川家康が征夷大将軍並びに源氏長者に任じられると、江戸に幕府が開かれ、
徳川家の旗本の久太郎は江戸詰めになり、
江戸に屋敷を構え、照重と共に移り住んだ。
さらに慶長10年(1605年)、家康は、将軍職を子の秀忠に譲ると、
慶長14年(1609年)、李氏朝鮮と己酉約条を結び講和する一方で、
薩摩(現在の鹿児島県)に琉球出兵を命じ、琉球王国を実質的に服属させた。
そして、キリスト教禁止令などが出され、日本は鎖国へと向かうのである。
こうした外患内憂を排除し、外国勢力を一掃したのも、
全ては豊臣家打倒のためであった。
家康は、こうして10年と言う長い年月をかけ、
豊臣家を滅ぼすための環境を整えていったのである。

一方、岡本家では、嫡男が生まれない事が問題になっていた。
久太郎は、もう30歳代になり、照重と結ばれて10年経っていたが、
子供が出来る気配が全く無かった。

「照重殿は、生めぬ体なのじゃ。」

周囲はそうささやき、照重のいないところで側室を勧める声を上げていた。
久太郎も、照重を妻とも思っておらず、
専ら外で色遊びをし、子作りに励もうとはしなかった。
だが、どんなに久太郎に非があっても、
陰口を叩かれ、悪者にされるのは、常に妻の照重だった。

そんなある日、岡本家に思わぬ縁談が飛び込む。
北下野の名門大田原家から政略結婚の話が舞い込んだのである。
大田原家は、北下野で3家しかない石高1万石以上の大名家であり、
また、北下野3大名家の1家である大関氏を始めとして、
旧那須家出身の大名・旗本・御家人を束ねる家柄であった。
その当主大田原晴清の四女を久太郎に嫁がせたいとの事で、
徳川家と豊臣家の対立が近づく中、
近隣諸将との結びつきを強くしておきたい岡本家にとっては、願ってもない申し出であった。
久太郎は、これを二つ返事で受け入れた。
だが、この後、久太郎は冷酷な決断をする。

久太郎「照重を正室から側室に降格する。」

大田原家から姫を迎えるのに、その姫を側室にするわけにはいかない・・・
そういう事で下された決定だった。
それは、塩谷義孝の妻でありながら、
後に宇都宮家から姫を迎えたために側室にされた久太郎、惣十郎、新助の祖母と同じ運命であった。
この決定に、惣十郎と九重、新助は猛反発した。

惣十郎「照重殿は、兄上が岡本家の正統たる証ぞ!
    それを側室にするなどとんでもない。」


だが、久太郎は、反対する者の意見は全く聞かなかった。
さらに、当の照重自身が黙ったままだった。
照重は、反発もせず久太郎の決定を受け入れ、江戸から泉城に帰ってきてしまったのである。
さらに、正親の死後、出家して慶雲院を名乗り慈光寺に入っていた綾も、
この事に何も言わなかった。
九重は、この2人の姿勢に激怒したが、2人とも押し黙ったままであった。
しかしある日、照重は、密かに綾の下を訪れ、その苦しい胸の内を語った。

照重「私は、跡継ぎを生めなかったのです。
   だから、是非もありません・・・。」


そう言って、照重は、母の胸に抱かれて、
まるで童女のように声を上げて泣いた。
悔しくないわけが無かった。
辛くて悲しくて惨めで・・・
照重は、その思いの全てを母にだけさらしたのだった。
しかし、そんな照重にも光明が降りる。
新助が、久太郎にこんな申し出をしたのである。

新助「照重殿を側室にすると言うなら、俺が正室にしたい。
   俺は、兄上の家臣じゃ。
   当主が、側室を家臣に下げ渡す事はある事。
   清四郎様の娘である照重殿が側室では、
   岡本家正統の面目が立ちませぬ。」


久太郎も、その方が面倒が無いかも知れないと考えた。
大田原家から来る姫は、久太郎とは約20歳も年下である。
そんな照重とも17歳も離れており、
そんな2人を正室、側室と言って傍に置くより、
照重を新助に下げ渡した方が都合は良かった。
また、新助自身が人望が厚かったため、周囲も、新助の行動を支持した。
新助は、久太郎に申し出た後で、照重に結婚を申し込んだ。
照重は、突然の事に戸惑い、一度は首を横に振ったが、

新助「照重殿は、決して子供が埋めぬ体ではない。
   俺の子を生んで欲しい。」


この言葉に照重の心が揺れ動いた。
新助は、本当は、昔から密かに照重の事が好きだった。
しかし、3男と言う立場を弁え、その思いを口にしなかった。
だが、今回の事は、好きだったからこそ、新助は、久太郎の仕打ちを許せなかった。
駄目なのは、照重ではなく、兄の久太郎なのだ。
それを証明せずにはいられなかった。
絶望の淵にいた照重も、
そんな新助の思いに救われた気がし、
最後は、新助の思いを受け入れた・・・

この後、久太郎は、大田原から若い姫を迎え妻とし、
照重は、改めて新助の妻となった。

そして、この勝負の決着はすぐについた。
照重は、新助に嫁いで間もなく懐妊したのである。
それは、久太郎にとっては衝撃の出来事であった。

久太郎(これでは、俺が種無しと言う事になるではないか・・・)

生まれた子は女子であったが、照重は、これを涙して喜んだ。

照重(私は女じゃ・・・子供が生める女じゃ・・・)

だが、この後、産後の肥立ちが悪く、
照重は、間もなく病に倒れた。
そして、慶長19年(1614年)の春、
照重は、本当に幸せそうな笑みを浮かべながら、
新助に看取られ、30年の一生を終えた。

久太郎は、江戸での勤めが忙しい事を理由にして、
慈光寺で行なわれた照重の葬儀には出なかったが、
それは、久太郎の事実上の敗北宣言であった・・・

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【写真】正親の荒井の隠居屋敷跡(上)と鏡山寺(下)



慶長2年(1597年)12月、
正親は、清四郎と清九郎の菩提を弔うための寺を建てた。
名は、心月山鏡山寺。
2人の戒名を取り合って名付けたものであった。
さらに正親は、旧居城の松ヶ嶺城を廃城にし、
その土地や建物を菩提寺である慈光寺に寄贈した。
そして、正式に久太郎に家督を譲ると、
自らは、荒井と言うところに隠居屋敷を建て、
綾と共にそこに移り住んだ。
綾は、今度こそと出家を望んだが、
正親は、またそれを許さなかった。

正親「わしが死ぬまでは、出家しないで欲しい。」

ところで、ここ数年、世の中は大きく動きつつあった。
慶長2年(1597年)、正親は、久太郎と惣十郎を連れて上洛し、
3人で久しぶりに秀吉と面会した。
しかし、秀吉には、以前のような覇気はなかった。
それどころか、同年10月7日、
羽柴姓を送るほどお気に入りであったはずの
下野最強の戦国大名家の宇都宮家を改易してしまったのである。
これは、宇都宮家が、豊臣家臣内の政争に敗れた結果とも言われているが、
人々には、老いた秀吉の狂気の沙汰と噂された。

そして、その翌年の慶長3年(1598年)8月18日、その秀吉が62歳で没した。

すると、政情は大きく変化した。
五大老でも筆頭の徳川家が単独行動をとり始め、
諸国の大名がこれに追従した。
この動きを察知した正親は、
嫡男久太郎を連れて、秀吉が没したその年には家康に目通り、
さらに翌年の慶長4年(1599年)には、家康の後継の秀忠と目通りした。
そして、慶長5年(1600年)9月15日、関が原の戦いが勃発すると、
岡本家は、徳川家の旗本として東軍に加わり勝利。
天下泰平の世に家名を残す事となった。

隠居してもなお、正親は、岡本家のために動いていたが、
荒井の隠居屋敷は、そんな激動の世など意にも介さないような穏やかな時間が流れていた。
正親は、秀忠との目通りを終えた後、
今後の事を久太郎に言い含め、後の事を全て久太郎に任せると、
自らは荒井の屋敷に篭り、完全に一線を退いて本格的な隠居生活に入った。
すると正親は、そうするなり、いきなり周囲を唖然とさせる行動に出る。
何と正親は、70歳にして領内の12歳の百姓の娘を側室としたのである。
その娘は、領内でも美しいと評判の娘ではあったが、
家臣や領民たちには色隠居の狂気と揶揄された。
70の老人が、孫や曾孫ほどは慣れている娘を側室にしたとなれば、
そういわれても仕方ないが、正親の真意は別にあった。

正親「娘がいるなら孫娘も欲しい。」

それだけの事だった。
正親は、晩年に武家のそれとは違う温かい家族を望んだのだ。
子と孫と何も考えずにのんびり暮らしたい。
ただ、色好きな性格は否定出来ないので、
どうせ子と孫を作るなら、どちらも女子が良い・・・
そこで、綾と共に暮らし、
綾と母子ほど離れた娘を傍においたのである。
あるポカポカと暖かい日差しが差す昼の屋敷の縁側で、
正親は、綾と茶を飲みながら、綾にこう言った。

正親「綾が城に上がったのも12歳じゃ。
   あの娘を見ていると、その頃の綾を思い出す・・・。」


正親は、本当に嬉しそうで、本当に幸せそうだった。
戦国武将としての面影は微塵もなく、
正親は、村民が100名程度の小さな村の屋敷で、
ボケ色老人の日々を謳歌していたのである。
もう正親には、思い残す事はなくなっていた。
そして・・・

正親「ありがとう・・・綾。」

慶長7年(1602年)8月9日、
正親は、その言葉を辞世にして穏やかにその一生を終えた。
戒名は、千秋院松厳梅屋居士
その亡骸は、遺言により、清四郎と清九郎の眠る鏡山寺に葬られた。
そして、その戒名の内、「千秋」の名が心月山鏡山寺の名に冠された。

正親はこの日、全ての苦しみから解放されたのである・・・

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第13話 許婚

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【写真】御前原城本丸虎口(写真上・こぐち・入り口の事)と本丸周囲の空堀(写真下)



文禄2年(1593年)、
15歳になった久太郎は、元服して塩谷義保(しおのや よしやす)と名乗った。
その2年後の文禄4年(1595年)には、
弟の惣十郎も元服し、塩谷義次(しおのや よしつぐ)と名乗った。
そして、惣十郎が元服した年、
塩谷家が改易になった事で、塩谷家との対立の不安が無くなったのを機に、
久太郎、惣十郎、新助、照重、九重の5人は、
それまで暮らしていた松ヶ嶺城から、より大きくて暮らし易い御前原城に移った。

この頃、照重と九重も12歳になり、
自分たちが、久太郎たちの許婚になっている事を意識するようになっていた。
誰が自分の夫となるのか・・・
2人の思春期は、そんなところから始まっていた。
周囲は、長幼の序から言っても久太郎が後継になるだろうと噂していた。
また、久太郎は、学問にも長けており、
戦国時代が終わろうとする時代の新しい主君として相応しいと思われていた。
だが、正親は、まだ誰を後継とすると決めていなかった。
久太郎は、確かに能力的には相応しかったが、その性格に不満があったからだ。
久太郎は、嫡男であったため、
幼い頃から、岡本家の将来の主君として家臣たちに持ち上げられてきた。
そのためか、少しうぬぼれたところが見られた。
邪な家臣たちが媚び、へつらうと、
そのヨイショの神輿に簡単に乗ってしまい、
物事の前後左右の判断がつかなくなる事が度々あった。
もっとも、そんな性格を嫌っていたのは正親だけではなかった。
実は、照重と九重も嫌っていた。
久太郎は、5歳離れた兄として幼い頃は可愛がってくれたが、
元服間近頃になると、次第にあまり相手にしてくれなくなり、
むしろ久太郎は、2人を遠ざけるようにさえなっていた。
そんなある日、2人が久太郎を嫌う決定的な出来事があった。
御前原城の一室で、久太郎と惣十郎が照重と九重の事で話し合っていた。
いわゆる「どっちが可愛い?」と言ったような、思春期の少年少女にはありがちな会話だ。
そんな会話の中で、久太郎は、
弟惣十郎に誇示するように、こう言ったのである。

久太郎「どうせ、岡本家の後継は俺で決まってる。
    お前がどっちを好こうが、2人の内どっちを妻にするかは俺次第だ。
    どっちかを正室、どっちかを側室にして、
    2人とも妻にする事だって出来る。」


惣十郎は、この言い草に腹を立て、この後、2人は口喧嘩になったが、
照重と九重は、惣十郎からこれを聞いたのだ。
女を女とも思っていない久太郎の言葉は、思春期を迎えた2人の心を大きく傷付けた。

「絶対に久太郎の嫁になんかならない・・・」

照重と九重は、その時はそう誓った。
けれども照重は、久太郎の事を完全に嫌いになる事は出来なかった。
あの言葉は許せなかったが、
なぜか、いつも気になる存在であり続けたのだ。
久太郎は、外見がすらっとして背が高く、
格好良くて城や城下で女たちの話題になる男であったが、それは関係なかった。
もちろん、後継となる可能性が高いという事も関係なかった。
照重には、岡本家当主の妻になりたいという野心は無かった。
理由は分からなかったが、照重の中で、久太郎の存在が日々大きくなっていった。

他方、妹の九重は、惣十郎を好いていた。
惣十郎も、自分を頼りにして近寄ってくる九重を愛らしく思い、
2人は、次第に恋仲になっていった。
九重の方は、久太郎に全く未練が無く、徹底的に久太郎を嫌っていた。
それに引き換え惣十郎は、頭でっかちの久太郎と違い、
武芸に秀でて、有言実行のたくましさがあり、
九重にとって本当に頼り甲斐のある男だった。
新助はと言うと、一番年下と言う事と、
性格が優しく、誰かが喧嘩になった時は
常に仲裁役に回っているような中立的な立場と言う事もあり、
誰からも好かれ、頼りにされるタイプではあったが、
照重や九重と、それ以上の関係になる事もなく、
新助も、三男と言う立場を弁え、それ以上のものを望まなかった。
そんな5人の関係を正親は、長い年月の中でずっと見守ってきたが、
泉城の改築事業が終わりに近づき、いよいよ後継を誰とするか決める事にした。

慶長元年(1596年)12月のある日、
正親は、泉城に5人を集めて、岡本家の後継者を決めると突然に告げた。
もっとも、勘の良い照重や九重は、
正月を前にして集まるようにと言われた時点で、
そういう話になるのではないかとは思っていた。
その場で正親は、ぶしつけにこう告げた。

正親「岡本家の跡取りは、久太郎とする。
   そして照重よ。お主が、久太郎に嫁げ。」


実にあっさりとした物言いによる決定だった。
久太郎は、これを当然と思い、
照重は、戸惑いながらもそれを受け入れた。
同時に、九重が惣十郎に嫁ぐ事も決められたため、
九重はホッとしたが、照重を思うと素直には喜べなかった。
正親は、久太郎の性格には不安があったが、
照重が妻になれば、そんな久太郎を変えてくれるかも知れないと期待していた。
照重は、久太郎に邪険にされても、
態度を変える事無く健気に久太郎に尽くしてきた。
照重は、どうしても久太郎がほっとけなかったのだ。
九重は、何でと照重に何度も聞いたが、何でかは照重にも分からなかった。
ただ、そんな照重の姿を見続けてきた正親は、
そんな照重に、岡本家の将来を賭けたのである。

正親(あの性格さえ直れば、久太郎も立派な当主となれる・・・)

この決定の後、九重は、照重に、本当にこれで良いのか・・・と聞いた。
すると、照重は言った。

照重「私・・・岡本家のために久太郎様に嫁ぎます・・・。」

その言葉を聞いて、九重は、もう何も言えなかった。
ただ、照重は、人身御供になるつもりでそう言ったわけではなかった。
照重もうまく表現出来なかったが、
何となく、久太郎の妻になれて良かったと思っていた。
そんな照重の脳裏に浮かんでいたのは、
幼い頃に見た優しくて頼り甲斐のあった久太郎の面影だった・・・

翌慶長2年(1597年)正月、
久太郎は、正親の祖父重親の官途である宮内少輔を名乗る事を許され、
岡本宮内少輔義保を名乗った。
一方惣十郎は、父義通より塩谷家の家督を譲られ、
また岡本家の人間として、塩谷義次とは別に岡本伊兵衛保真を名乗る事になった。
新助が元服したのは、この3年後。
新助は、塩谷家の人間として塩谷清通(後に高通)
岡本家の人間として岡本縫殿助保忠を名乗った。

こうして、岡本家は、新たな時代を迎える事になった。

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